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配信55枠目 序章、第三節。


 乾いた蝉時雨の所為か、一雫の汗が顎先を撫でる。今にも陽光に背を押され、シトリと落ちてしまいそうなソレを腕で乱雑に拭い取る。木々に囲まれたこの場所では、着物の裾が何よりも邪魔で暑苦しく感じた。


「………」


 池のほとりから、水面へ顔を覗かせると、暑さで火照った自分の顔が映った。その下には腹を空かせた鯉の群れが、今か今かと餌が撒かれるのを待ち続けている。


 そんな鯉の群れを静かに眺めていると、雑木林の奥から枯れ枝や乾いた落ち葉を、ガサガサと踏み荒らす音が聞こえて来た。


 漸く気付けた足音は、もうすぐそこまで来ていた様で、視線を向けた先には見知らぬ男性が木陰からゆっくりと姿を現した。身に付けている衣服からして、この家の者では無い事だけは分かる。


 だが、しかしとして、今日一日、貴客が来るなんて話も聞いていない。まさかとは思うが、侵入者や泥棒の類だろうか。ないとは思うが、払えない不安がこの足を掴んで離さない。


「貴女は…?嗚呼、いや、怖がらないで欲しい。信じられないかも知れないが、怪しい者では無いから……」


 そんな心情を読み取ったのか、弁明を図り、男は自身の疑問もそこそこに、申し訳無さそうに目を伏せた。青みを帯びた藍色の髪が、葉の隙間を刺す日差しに淡く輝き、少し細身で男らしさを感じる事はないが、背丈は高く爽やかな美貌を持っているのは、この距離でも見てとれる。


「…貴方は誰でしょうか?」


「僕かい?僕は…そうだね。ただの訪問者だよ。…いや、実際には訪問者の連れかな…」


 なんて乾いた笑いを漏らす男からは、悪意なんかは一切感じないが、だからと言って善意を感じる訳でも無い。ただ、何と言うか、人らしさが無い。他人に関心を向けていない人。そんな印象を受けた。


(…表門を通っている以上、侵入者なんかじゃないんだろうけど……)


 警戒心が緩むと同時に、不安も無くなっていた。しかし、どうしても、解せない事がある。普通で有れば、貴客には使用人を1人は着ける筈だ。だが、この者には着いていないのがどうも、気に掛かる。


「そうですか…ソレなら、一体…こんな場所で何を?」


「嗚呼、綺麗な庭園を見かけてから、少し気になっててね。使用人の方に無茶言って入らせて貰ってたんだ……まさか、人が居るなんて思ってなかったよ。驚かせただろう?」


 理由がどうであれ、貴客から目を離した使用人を見逃す事は出来ないが、自身のお気に入りの物を褒められるのは、人間どうして嬉しいものだ。思わず、彼に同調し綻びそうになる顔を抑えた。


「…それで……貴女はここで何をしていたんだい?恐らくだけれど…一介の使用人では無いだろう?使用人も着けていない様だけど……」


「私は…その…騒がしいのが苦手で…」


「そうなのかい?ここも…決して静かでは無いけれど…」


 数限りない蝉の中から、1匹は常に鳴き声を上げている様なこの場所を、静かと表現するのはどう考えても無理な話だが、決して、雑音の多さを嘆いた発言で無い事は、彼もしっかりと分かっているだろう。


 それでも、鳴き声がどうしても耳につき、口をついて出てしまった。ただそれだけの事だが、その発言は空気を読めていないと言う他ない。恐らくだが、彼は数いる貴客の1人であれど、上流階級の者では無いのだろう。所謂、マナーが出来ていない。


「………」


「すまない。過ぎた冗談だった」


 私の黙り込んだ姿を見た彼は、やはり場違いな発言だったと反省し、反射的に謝罪を漏らした。しかし、彼の発言も決して場違いと言う訳ではない。ただ純粋に額面通り受け取った上での発言とも言える以上、彼に非が無い事は分かっている。指摘するのも野暮と言われれば、反論のしようはない。


「いえ、良いんです…ただ、考える時間が欲しくて。とは言え、考えても何も変わら…いえ、変えられはしないのでしょうが…」


「えっと…何か…あったのかい?……いや、話し難いのならこれ以上は聞かないけれど。でも、部外者だからこそ、出来る話だって有るだろう?」


「…そうでしょうかね。私は今一度、貴方を信用しても良いか判断出来かねていますが…」


「信用。そうだね…見ず知らずの僕を信用するのは難しいだろう。だから、信用する必要はない。ただ、怪しい僕なんかの話を聞いてくれる、そんな優しい貴女の苦悩を、少しでも分け合って欲しいだけなんだ。それに…見ての通り、僕が騒ぎ立てた所でさ。何か出来ると思うかい?」


 もしも、彼の者が「信用して欲しい」だなんて言葉を口にしてしまったのなら、その時点で彼の者が悪人である事は明確だ。逆を言えば、それを期待していたばかりに、彼を信用しても良いのではと邪推が浮かぶ。


 家の事は決して漏らすべきでは無い。そんな事は重々承知している。寧ろ、その重要性は自ら使用人に対して周知させているくらいだ。でも、不思議とこの男には心を許すのも、また、吝かではないとも思ってしまっている。


「貴方は…口が上手なんですね」


「それは、褒められているんだよね?恐らくだけど」


「ふふっ。それでは、少しばかり貴方のお時間を頂けますか?…是非こちらに。涼しいですよ?」


 私はゆったりと微笑んだ。彼が信用に足るかどうかは、コレから時間をかけて見定めれば良い。だからこそ、今は、この心地の良い時間を彼と分け合う事にした。


———

——


「まさか、アポ無しで入れるとはな」


「…()()()()()()だったからね」


 この屋敷にはとても似合わない洋装の執事。その後を追うように、先生と部長は長い廊下を歩いていく。予め、外周を一周していたから分かってはいたが、それでも屋敷のこの広さには辟易してしまう。


「………」


 鉢合わせた下女からのお辞儀に、笑顔で会釈しながら歩いていた時、ふと遠くの縁側にいる和装の女性が此方を見ている事に気付いた。見た目からして60は超えているであろう女性。


(彼女は…)


 そんな推察もそこそこに、先生は案内された控えの間に入り、畳の上へ静かに腰を下ろす。古くからある屋敷のようだが、決して古臭さを感じず、座卓等のインテリアは、雰囲気を損なわない程度に現代風に変わっている。


「凄いな…あのバ…いや、和葉がこんなとこに住んでたとは思ってなかった」


「確かにね。それに、此処は礼儀作法にも厳しそうだし、和葉が後継とは。今でも真偽を疑うよ」


「…にしても、屋敷と黒スーツって組み合わせはかなり威圧感があるな……」


「なんて言うか…組の人。って感じはするよね」


 そんな軽口を叩いて、部屋をぐるりと見渡す。この部屋に案内されるまでもそうだったが、一体どうしてこの屋敷はおかしい。決して、オカルト的な意味では無く、この屋敷の造りの事だ。


(この屋敷。控えの間があったり、南側に表門があって、直接玄関に続いていたりと、書院造り…武家屋敷のソレだ。(スメラギ)家は商家の筈…当時の時代背景を考えると、一体、何で武家屋敷に住んでるんだ?)


 しかし、そんな事を考えても仕方がない。江戸の頃はそうであろうと、現代になって購入や譲り受けた可能性もある。何より、それがどうであれ、今回の件とは何も関係が無いのだ。


「…なぁ、イブ」


 先生が意味も無い物思いに入り浸っている間、1人でに流れ続けた沈黙に耐えきれなかったか、何か気がかりな事でもあったのか、どこか神妙な顔付きで部長が口を開いた。


「ん、どうかした?……部長?」


「………」


 彼女から始まった会話であるにも関わらず、先生の返事に彼女からの反応は無い。不思議に思い、顔を覗き込んで見れば、眉間に皺を寄せて思い詰めたような顔をしていた。


「部長?」


「……あ、いや…なんだ。もう部長じゃないし、その呼び方は少しな」


「じゃあ、先輩?パイセンかな?」


「そうでもないだろ。イチカでいいよ。イチカで」


 全くと、呆れた様な何かを誤魔化すかのような笑いは、とても違和感を感じるモノだったが、しかし。イチカにそれを話す気がない以上、先生にその正体を知る事は出来ない。それに、その隠し事が気になりつつも、それを問い詰める時間も、今は残されていない。


 部屋を仕切る襖の外から、彼の執事の声が聞こえる。どうやら、面会の準備が整ったようだ。2人は顔を見合わせ、覚悟を決めた様に頷く。


「…準備が整いましたので此方へ」


———

——


「それでは。失礼致します」


 2人を正司が構える部屋に案内した後、2人では無く、正司頭を下げて襖を閉めた。カタンと閉じる音を聞いて、2人は目前に座る正司へ顔を向けた。


 控えの間にあった様な座卓を挟んで座っているが、それでも感じる貫禄と威圧感は相当なモノだ。沈黙の中、鹿威しが軽快に音を鳴らし正司が口を開く。


「久方振り…と言う程でも無かったか。そちらの方は初めましてだな。既に話は聞いていると思うが、(スメラギ)家当主をさせて貰っている。(スメラギ)正司だ。さて、此度は何用で?」


 不敵な笑みを浮かべる正司。やはり、纒う感情に一部の好意も感じない。感じ取れるのは敵意。又は、全くの無関心。此方の事など意に介す必要すらないとでも言う様な、そんな表情。


「この前の御約束。お忘れでは無いでしょう。その件ですよ」


 あまりの威圧感に、手に冷や汗握りながらも、表情には少しもそれを出す事はない。寧ろ、応戦する様に正司にも圧を返す。彼は、その様な相手の方が好みである事も、調べが付いていた故の行動だった。


「嗚呼、そんな約束もしたかね。でも、残念ながら、愚息にはそのつもりがない様だ。来て早々、申し訳ないがお帰り頂けるか?嗚呼、連れて来た青髪の青年と共にな」


「…まさか。(スメラギ)家の当主とあろうお方が、一個人と交わした簡単な約束事1つ果たせないと?」


「ほう。ただの友人如きが家格を引き合いに出すか?中々どうして笑わせてくれる。苦し紛れにしては面白いジョークだ!」


 口を開けて豪快に笑い声を上げる正司。やはり、此方の事など意に介さないのだろう。分かってはいたが、此方と彼方の立場に余りにも差が開き過ぎている。マトモに取り合って貰える筈がない。今ここで話せている事が既に奇跡だ。


「…赤眼。どうやら、愚息はお前の為なら命を賭けれるらしい。ああ見えて、アイツは勘の良さは人一倍だからな。会って話だけでもと思ったが……分からんな。何故、其処まで肩入れされている?お前からはそんな価値を微塵も感じないが」


「…さぁ?毎度の事ながら、彼の考える事は私にもさっぱりですよ」


「ははっ。そうか!それはそうだろうな!」


 先生の言葉に、正司は再び豪快に笑い上げる。少しばかりは場がほぐれ、約束の履行も現実味を浴びてきたかと心の隅に希望が湧く。だが、今にしてその希望も泡沫の様に弾け去った。


「どうやら、お前は愚息の知る人物ではない様だ」


「はっ?」


「申し訳ないが、このままお帰り頂こう」


 瞬間、部屋の襖が音を立てて開き、黒スーツの男達が2人へ歩み寄る。瞬間的に、ただ静かに2人の会話を聞いていただけのイチカは、最悪の状況を察知し黒スーツ達の動きよりも早く、座卓に片膝を付き、卓を跨ぐ様にして正司の胸倉を掴み上げる。


 だが、そうなるよりも更に早く、先生が背後から抱き付く様な格好で、襲い掛かるイチカを無理矢理に引き止める。


「っ…離してくれ!」


 身体を強く抱き抱える様に縛る先生に、懇願する様に命令する。振り払おうとすれば、それは簡単な事だが、それをイチカの自制心が許す事はない。ただ、手を離す事を懇願する事しか出来ない。


「ダメだ!どんな理由があっても、武力行使(それだけ)だけは肯定出来ない!」


「はっ…優等生様が…!」


 耳元で煩く聞こえる綺麗事に、思わず愚痴を吐き捨てるが、それでも先生の事を振り払う事はしない。だが、ハッキリと見えた武力行使の意思に、正司は厳格な表情で口を開く。


「やはり、交渉は決裂だな」


「アンタの所為でな。和葉は無理矢理にでも連れ戻す」


「そうか。だか、お前は赤眼寄りはマシな眼をしている。まだ、お前に命を賭ける方が随分と納得がいくな」


 先生が少しでも手を離した瞬間に襲われそうな状態でも、正司の余裕綽々といった様子に、振り上げた拳を強く握りしめるが、先生に止められている為か、確かに残る自制心からか、それを振り下ろす事はない。


「職業柄、鬱陶しい腹の探り合いなんかが多くてな。目を見れば、そいつがどんな奴かは大体分かる様になる。だがな赤眼。この状況になってもお前からは何も感じねぇ。死人でも相手にしてる気分だ。そんなんじゃ、俺の心は動かない」


 その言葉に、イチカの顔には怒りが浮かぶ。それに対して、先生からは怒りの一切は感じられない。確かに、正司の言葉に間違いはない様だ。こんな緊張走る状況下で、先生は誰よりも冷静を保っていた。


「聞きたい事がある」


 落ち着いた言葉で、立ち去ろうとしていた正司の足が止まる。どうやら、口では何も話さないが、その聞きたい事にだけは答えてくれる様だ。先生もそれを理解し、返事を待つ事なく言葉を続ける。


「オレ達を取り囲む人数を見たところ、貴方が権力争いなんかに遅れを取るとは思えないが、どうして和葉が必要なんだ?世代交代と言うにはお互い若過ぎる上、此処まで強硬的な手段を使う理由も無かっただろう?」


「…ったく。何処で知り得たかは知らんが、そう言う力を持っているのは称賛出来る。だが、お前さんがそれを知ってどうなる?お前さんと(スメラギ)家。何の関係も無いだろう?」


「さぁ?それはどうかな。親友が困ってたら助ける。人として当然の事だろう?」


 先生の言葉に、正司は豆鉄砲に撃たれたかの様な惚けた顔を見せた後、誰よりも高らかに笑い上げた。


「くくっ、()()か。そうかそうか。面白い奴だな。どうやら、頭の良さと記憶力ってのは比例しない様だな」


「…何が言いたい?」


「お前は大事な事を忘れちまってんだよ。それが思い出せたらまた来い。その時はもっと真面目な話が出来るだろ。見送ってやれ」


 正司の命令を受け、取り囲むだけで待機していた黒スーツ達が2人の身柄を抑え、玄関へと追い出していく。抵抗しようにも、それが更に事態の悪化を招く事になるのは嫌でも分かっている故、お互いそんな事はしない。静かに、自ら帰路に着く。


 周りを取り囲まれながら帰路を辿る中、先生が考えていた事はただ1つ。非情を嘆く無力感では無く、正司が去り際に残した「大事な事を忘れている」と言う発言。先生は、その意図を図りかねていた。


 嗚呼、貴方の疑問は尤もだろう。その発言の意味も分かってはいない筈だ。それもその筈、何故なら、貴方はソレを忘れているのだから。忘れているのだから、貴方が思い出すまで、ソレは分からないままだろう。


 だが、しかし。貴方がそんか心配する必要はないのだ!貴方が悩まずとも、その答えを教えてくれる者が居るかもしれないからだ。例えば、今目の前に立つあの者がそうかも知れない。


「ソイツだけはいい。用がある」


 見覚えのある人物がそこに立っている。どうやら、彼は先生に用がある様で、黒スーツ達に先生1人を残す様に命令した。黒スーツ達も、困惑を顔に浮かべるも、相手の命令に背く事は立場上出来ず、苦言を呈す事なく応えた。


「…ついてこい」


———

——


 彼が和装に身を包むその姿は、今までに見た事が無く、浴衣などは有るが和装の姿は初めてだった。それは、先生の前で彼が興味を示さなかったから故では有るが、和装姿の彼も庭園の中にいる為か、確かに似合っている。


 久方振りに目にする彼は、以前とは纒う雰囲気を含め、大きく変化していた。癖が付いて彼方此方に跳ねていた髪は、今や微風にサラリと靡くようになり、その容姿も合わさってか、多くの人を惹きつけるモノになっている。


「…何で、オレだけ?」


 目の前を無言で先導する彼に、聞きたい事も、言いたい事も、最早数えるのも億劫な程に存在していた。だが、今、口にする事が出来たのはその一言がようやくだった。


「少しだけ話がしたかった」


 庭園の中、ただ静かに響く声。以前の様な屈託のない笑顔ばかりを浮かべていた彼の姿は、まるで一世一代の大勝負を目前に控えたかのごとく、この上ない真剣な表情に一変している。


 石畳の上を歩く2人を包み込む沈黙と、空気を読まない蟲の喝采。果てしない緊張感か、はたまた、陽が輝く夏の季節故か、先生の額から静かに線を描く汗が滴った。


「…此処は、いつも人が居ない。しかも、こんな夏でも涼しい。とてもいい場所だ」


 池を跨ぐ様に造られた小さな架橋の上で、(スメラギ)家次代家長の和葉が呟く。柵の外から水面を覗き込めば、彩豊かな鯉の群れが、己が思うままに泳いでいる。


(雰囲気だけで、語彙力は据え置きなんだよな…)


「それで…オレと話したい事って?」


 今の和葉の姿を見るに、家督を継ぐ事に対して無闇矢鱈に反対している訳では無い事が分かる。その様な相手に、どうして「戻って来い」等と無責任な事が言えるだろうか。今は喉に突っかかるその言葉を、強く飲み込む事しか出来ない。


 橋の近くに生えた松の木は、青々とその身を構え、焼け付く様な日差しを一身に受ける。先生からすれば、変わり映えのしないただの一輪の木に過ぎないが、和葉には違う。この一輪の松には、いつかの思い出が残っている。


「俺は…この家は嫌いだ。それは今も変わらない。もしかしたら、この先もずっとそうかもしれない。それに、お前等との生活が嫌な訳でも、嫌いになった訳でもない。寧ろ、何よりも楽しかった」


「なら……」


 それ以上の言葉は紡ぐ事が出来ない。彼の事は誰よりも自分が一番分かっている。そう思う程に先生と和葉の付き合いは長い。彼の意志の強さが、その固さがいかほどなものか。最早、何を言っても無駄だと言うのは試すまでもない。


「……多分、俺達ならこの家から逃げる事も簡単だ。でも、それじゃダメなんだ。…あの頃の俺達は多分、無敵だったんだよな。でも、そうだな…歳を取った。俺達は歳を取ったんだ」


「嗚呼…そうだね…」


 先生はその言葉で理解した。和葉は家から逃げるのでは無く、真っ向から向かい合う選択をした事を。そして、彼は受け入れたのだ。好きな事をして、嫌な事は投げ出す。そんな身勝手はもう許されない事を。


「…オレ達は大人になったんだ。あの頃とは違う。無邪気な子供じゃなくなって、全ての行動に責任が伴う大人になった。ただ、それだけなんだよな…」


「——。俺は俺のやるべき事をやる。だから、全て忘れてくれ。そして、いつか何もかもを忘れた頃に、その時になって昔を笑い合うんだ」


 数年振りに先生の名前を口にした和葉は、決して変わってなどいなかった。もしも、成長を変化と呼ぶならそうであるが、成長は変化ではない。彼は自分を取り巻くしがらみと向き合う事を決め、今になって成長したのだ。


「その時はお前が側に居てくれると嬉しい」


 時が経ち、いつもの豪快な彼の笑顔はなくなり、穏やかで清爽とした笑顔に変わった。それが、燦々と輝く太陽よりも何よりも眩しく写り、先生の紅の眼を酷く焼き付けた。


(嗚呼…やっぱり、オレは変われないんだな)


 橋の中腹に立つ彼と、橋へと足を踏み入れる事を躊躇う先生の距離は、目に見える以上に果てしなく遠い。いや、元はと言えば隣り合っていた。ただ、知らず知らずの内に限りなく遠のいてしまっただけなのだ。


 それは、一体いつからだったのだろうか。今となっては、それすらも。既に思い出す事が出来なくなった事の1つだった。


———

——


「あれ?そんな神妙な顔してどうしたんだい?」


 合流を約束していたファミレスにユリウスが姿を現す。頬杖をついて、窓の外を闇雲に眺める先生の向かい側に、ユリウスは腰を下ろして、店員からのお冷とおしぼりのサービスを受け取る。


「まぁ、見たところ2人とも色々あったんだろうけど。詳しく聞いた方がいいかい?」


「嗚呼、好きにしろよ」


「じゃあ、一体どうしたって言うんだい?そんなシケた面をぶら下げて。まぁ、そんなしおらしい姿も、ママやパパに叱られて、不貞腐れてる子供みたいで可愛らしいけどね」


「チッ。口煩くて教える気が湧かねぇよ。バーカ」


 2人がお互いの気に入らない所をギャーギャーと騒ぎ立てている中でも、先生は心ここに在らずと言った様に、遠くを静かに眺める。そこに何かある訳でもなく、意味も無くただ眺め続ける。


 おや?会話に参加しないとは一体何事だろうか。そんな事では、大切な彼等に嫌われてしまうかも知れない。貴方は気を取り直し、笑顔で会話に参加するべきだ。そうだ。そうしよう。さぁ、笑みを浮かべ、その重い口を開くのだ。


(しないよ。今はね)


 なんて事だ!その口ぶりからして、とっくに気を取り直していたのか?全く、心配していたと言うのに。だが、それもまた貴方の魅力の1つなのだろう。それを肯定する事はあれど、否定する事はない。


(白々しいね。嗚呼、そうだ。君、正司さんの言っていた意味が分かるんだろう?今、ここで教えてくれてもいいんじゃないかい?)


 まさか!それは何の冗談なのだろうか?そんなカンニングを許せる程、私は寛大ではない。それに、この答えは貴方自身が辿り着くからこそ、意味があるのだ。既にピースは揃っている、後は一筋の閃きさえあれば、貴方の明晰な頭脳で辿り着けるだろう!


(いやはや、全く…崇拝されてるのか、馬鹿にされてるのか分からないな。いや、意味の分からないナレーションなんかが頭に棲みついてる時点で、元よりオレの頭が可笑しいだけかな?)


 朗らかな笑顔を浮かべて、静かに溜め息を吐いた。誰も気付かないくらいの小さな溜め息。だが、2人はそれに気付き、騒ぎ立てるのをやめて先生を見つめる。


「青くん。そっちは上手くいった?」


「まぁね。こう見えて、誇れる事じゃないんだけれども、こう言うのは得意だからね」


「はっ。どっからどう見えても苦手そうには見えねぇよ」


「君ねぇ…突っかかるにしろ、何にしろ。後先は考えた方がいいんじゃないかい?言い負かされて赤っ恥をかくだけだよ?それに、その癖やめないと、昔みたいに暴力に頼るなんて事になっちゃうよ?」


「うぜー。ちゃんと反省してるだろ。一言も二言も余計なんだよお前」


「えぇ?まさかぁ!君、本当に暴力に頼ったのかい?その歳で暴力だなんて、頭に何かしら問題でもあるんじゃないかい?嗚呼、短絡的な性格なのもそれが原因だったかな?」


「うるせー、未遂だよ。イブのお陰で振るってねぇ。イブには本当に感謝してるんだよ。これでも」


 そのやり取りに、時に物足りなさを感じた。時に寂しさを感じた。しかし、今は喉につっかえた小骨の様な存在として、それを見逃す事しか出来ない。悔しくても、どんなに悔しくても、今はただ。


(オレは…そんなに長く待てないよ。和葉)


 後少しもすれば、長い長い7月が終わる。だが、案ずるまでも無く、この夏の終わりはまだまだ果てしない。時間は幾らでも残っている。焦らずにいこう。たった1人。気持ちを改めるのだった。


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