第二十二話「初夢」(#50)
元日の明けた其の時、時の流れを無視するかの様に糠星が輝いていた。しんしんと降り積もった雪の、暗き中でも必死に光を反射する様を見る……狼の耳を頭巾の中に隠しながら、流れ行く雲と、人工灯――大晦日で神殿に例外的に灯ったあの忌むべき灯火――のない景色を眺め、"nostalgic"と云う言葉の見た目をした眺望に似た城壁の中の、一国の首都での幾年を想う。自己の由来は未だ分からず、地球との見立ての真偽も解らず、繁い森に韜晦した一匹のごきぶりを探している感覚の檻に囚われていた。出来てから肌身離さず持ち続ける旅券に記された「種族:獣人」の記述が禊いでも禊いでも取れぬ強力な社会的圧力を以て魘す。心の底の感情は澱の様には刮げず、寧ろ黴が比喩として適当だった。
「……」
吹雪はなく、雲も流れ、観測には適切な空だった。首も手首も、足先迄も厚く着て、其れでも漏れる白い吐息が顔にかゝる。其れも気にせず片手に本を持ち、摑んだ筆で空を描く。――空に散り在る星を見晴るかしても、隠れた内側は決して透かせず、分かるは表面のみだ。然れど色と明るさとは重要なものだ……
硯から筆を紙へと動かす途中に墨汁が落ちて雪を染めた。模様が浮かぶ。墨は雪を、世界の法則に従って動いていた。雪の結晶や森、地形、美しきものも醜きものも自然が創り出したのだとは、ミツグは時々思う。
併し其の全てを知るヿ抔到底出来ぬし知らうともしていない。唯、自分の好きな事をしている。屋上に座して、天へと其の筒を向けて。
「……くつね」
其の筒を買ってくれた人が邪魔せぬよう少し遠くから此方を見ていた。
「何かしら」彼れは身動がず此方を見た。
「マコトは何うしたのよ」
「毎日添い寝している訳ぢゃないわ。今は一人にさせてる。確かにマコトは気になるけど、一人で居たい時間もあろうからね」
「マコトが気になる理由は教えてくれるのかな」
私は立ち上がり、赤い目の狐人を見つめた。
「確かに貴方に話した事が無かったわね。丁度いいから教えませう。貴方達三人が、『転生者』ぢゃないかと考えているからよ」
私の頭に彼れが以前話した文句が蘇る。地球(ちきゅう)と云う名の嘗ての母星と、異星人との戦争と、転生と……其の過去を飲み込むには幾度もの反芻が必要だった。而して、自分の知りたい過去への仮説が立てれたのは嬉しい事であったが、ずばりと尖り過ぎた理由の事は感情の糸迄傷つけた。
併し、此れは私の話である。シルは探求の歩みを止めた——少なくとも私には然う見えた——が、マコトはそんなヿを思っているのか、其れだに分からない。
「……此の仮説が成り立っているかなぞ気にはしとらんさ」緊張を解いて白皙の狐人は横を向いた。「直感でしかねぁし」
「貴方の気持ちは何となく分かった」
漠然とした感覚で未だ摑めていないものを言い切ったものの、矢張り自信はなかったらしく、くつねは横目で此方を見て、赧くなった。其処へ、正子を告げる時鐘が聞こえた。
「……マコトが特に気になる理由は、教えてくれるかな。くつね」
「私の拘りさ」くつねは尻尾を微動だにせず、此方へ目をやった。「……昔、遥か昔、地球と云う星で私が見た戦争の顛末……其れを思わせる遺跡、遺物、人物が此処には仰山ある。私は別に、真実として語ったわけぢゃない。でも、あの子は知ろうとしている。だから、気になった」
「……地球の話を真に受けたわけぢゃないでしょう」
「然うね」
雪上の明るい宵闇に、くつねは何かを重ねていた。
「――貴方は」彼れは言葉を選んだ。「貴方は、明日が記憶の中の昨日の続きであると確信していたヿを自覚したときは何時かしら」
私には意味の解らない言葉だった。考え付いたのは、彼れが然うなったことが、地球での前世にあったのかもしれないと云うものだった。マコトはくつねにこんな言葉許り受けていたのだろうか。
「マコトには然う云うのを教えてたのか」
「全てぢゃないが、肯定するわ。混乱する様な言は避けて、抽象化した物言いにしたけどね」
「……マコトには悪手よ。抽象と云うものが使える具体を混同しがちだもの。だから……」
「だで、何か」
「否、難解な言葉遣いはくつねの癖だろうから、変え強いる必要はないか」
「あめぁさんがええなら……」
弱気になったくつねの言葉の意味を訊ねる前に、羽音が二人の会話を遮った。北のヒジリ地区から、ごきぶりが飛び始めた様だった。
「『儀式』だわ。餘り邪魔しちゃかんね。ミツグ、そろ〳〵寝よまい。初夢を見に、ね」
くつねの言に、私は頷いた。
地球で見えたと云う星空を町で見た。
星が天に張り付いた儘揺れ、白みが濃い月と共に煌々と光っていた。群れて街中の糸に留まる鳥が鳥の姿の儘鳴いていた。雪は降らず、あの「空港」の様に、夜である事を忘れさせる程の強烈な光が灯っていた。
不意に光が切れ、天体がくっきりと姿を現す。其れは曖昧などとは無縁の、相互作用する世界への窓とも言えそうだった。間に障壁は無い。見惚れて時間を忘れる。望遠鏡が無く、目で見るしかなかったが此の目で眺めたから此れが記憶に鮮明に刻まれたのかも知れない。一つ、清かな星が目についた。其の視線を下げていくと、赤く朧げに光る星があった。
「――……」
何を呟いたのか、何故其れを呟いたのかはもう覚えていない。唯思えている事は、其の星は――少なくともあの夢の中では――未だ光り続けると云う事だけだ。
自分が何故此処に居るのか唐突に疑問に思い周囲を見渡すと、白皙の狐人が幻出した。少し前迄何かに囚われて居たのか、ぐったりとしていた。抱き寄せると、赤い目が此方を向いた。普段、而して昨夜も"gnostical"な振舞いをする彼れが見せた面は、根性とは異なる、前世のものだったのだろうか……
闇の中、微かに見えた景色は陽炎の如く揺れ降る様に思えて、何時か見た海底の輝く「マリンスノー」を思い出した。




