第七話「幻覚と韜晦」(#35)
坏が割れ、垙が混む。にわかに五人の姿は消え、やおら実感がやって来た。自分は在った。併し大事なものが欠如してしまったと、此の真黒な空間にいると濃く感ぜられた。其の実感の中、自分の外套が目の前に現れた。自分を包隠すもの、併し今は要らぬものだった。然う思うと、外套は消え、目の前に自分が現れた。外套羽織らず、白い肌を曝け出す白皙の狐人。右手には奴隷として操る為の所謂魂を消す魔法と服従の魔法とが組み込まれた円の紋章があった。私の右手には其の痕跡が残るのみだったが、其の物がある自分は、何も云わず、無理な笑みをした。自分に嘘を吐くのか、然う見えた其の動作は自我を護る様に動かなくなり、魂を消す魔法が動作しても暫く変らなんだ。永い時間が過ぎた様な静寂の後、誰かが其の「くつね」の第二の魂となった。……其れが「前世」の記憶の持ち主であことは明かであった。
私は貴方なのかと云う私の問いに彼れは何を思ったのか疾うに過ぎ去った事だと返し、変化の濁流を破壊するかの如くに超然と、今生で生きていることを感じて何かに耽る様な表情を見せた後、俄然頷いた。脈理が薄い意味の解らぬ謎な行動を見ている内に自我が緩と融解を始めたのを感じた。其の熱エネルギーは恐らく此の数年間の記憶が与えているのだろうと直ぐ私は理解した。五人の事が気が気でならなかった筈だが、私は悦に浸る様に其れを忘れ、「くつね」であることに感謝した。
煌々たる星々の様に、つい先刻宇宙の中から湧き出てきた様な心持がする。其れが間違いである事は直ぐに理解したが、自分と云う此の存在の誕生は最前だった。胎生な筈の狐人が使うのも変だが、まるで卵の殻を割って生れ出たかの様な心地だった。恰も自分が以前の事を忘れているかの様に聞こえるかも知れないが、本当は覚えている。寧ろ明瞭した。
此の場所は先程迄居た場所に入った路地とは異る森の中の道、所謂樵路だった。体は「くつね」だ。右手の紋章には依然と同様傷が入っている。此処が夢で無い事、若しくばあの奇妙な空間で無い事を祈り乍ら飛行の魔法で森林の葉の層を越えて見下ろすと、幸運な事に波無津であった。然して、其処からはサラが居たと云う喫茶店も見えた。其の屋根が此方へ来いと云っているかのように、太陽の光を反射してきらりと光った。
サラ・アンソニー。種族も何もかも、私以上に韜晦する青い目の少女。何処で生れたのかさえ明かさぬ人。此の私が出来たあの奴隷の市場で、陋態の子を探し、私を見てぴったりだと発言した人。其の時の顔は蝋燭の光でもよく見えなんだ。サイグサと共に私を受け入れ、利用価値が無いと解ると直ぐ普通の教育へ方向転換し私を学校へ行かせたあの優しい人。人間である事すら怪しい、まるで古の物の怪の様に妖艶な笑みに冷汗を幾度もかいた。若しかしたら何かを教えてくれるのかも知れないが、然うでない可能性も当然あり、全ては確率の分岐に託された。
自分が何処から来たかが判っても、何処へ行くのかは誰も知らず、神さえ然うだ。私と彼れとを引き寄せる原因は一体何なのだろうか。此れに就て考えるのはマコトが自分の過去を知ろうと思案を巡らせるのと似た様なものかも知れない。先程の新たに生れた感覚も幻で、現は非情なものなのかも知れない。
我々と云うものは天を量るのには余にも小さ過ぎるのだ。負けぬ様に為るのみだ。




