第三話「翁と媼」(#31)
「蝸牛」は自分の好きなように読んで下さい。
時の流れは水の如し。例え気付かなくとも、濫觴が解らずとも流れる。
L’2039/4/20、オア共和国加納県加納市中山区青畠二丁目。暫く家を空けていたウィンは、家へ向かうと、隣の家の老夫婦が立ち話しているのに気付いた。
「あ、ウィンちゃん、御帰り」
然う彼れらは垣根越しに云い、戸を開けて彼れを招いた。
「ええ、只今。少し家を開けて居ました」
「まあ、理由は察するよ」加納中山変種の於亜語(「エケメシャ」化されていない合為語の兄弟)で、翁が彼れを斟酌した。「獣人は獣態でも運動しないといざと云う時に獣としての力を発揮できないからねえ」
「儂ら蝸牛人も、偶にしなかんとは分かっとるんだけんどねえ」媼が緑茶を注ぎながら心情を口にした。「此の歳になって、医者が蝸牛化したら死んでまう云うてねえ」
暢気な会話に呑まれ、ウィンは自分が数日前に考えて居た人の営みの別の面に気付いた。
「そう〳〵、もう蝸牛形態になるに充分な水分が無いのと、あと、ろ、ろ、……何ぢゃ」
「ロイコクロリディウム人」
ウィンはサイグサの話を思い返しながら答えた。ロイコクロリディウムは貴方達の方でも実在する寄生虫だが、此れは何んな意味なのか当時私にはわからなんだ。因み最後に「人」と云うのは人化可能の生物であることを示すらしい。例えばくつねやユクリフは狐人で、彼れは狼人だ。大体動物と此の前読んだ本に書いてあった。
「其れだ。其れが最近蝸牛人の間で流行って失明した蝸牛人が増えたとか。暫くは若いのも人の姿でしかいられないねえ」
翁は茶を一服し、こんな悩みも無い世の中にしたかったなあ、と詠歎した。其の詠歎に媼は忘れかけていたことを思い出した。
「あ、ウィンちゃん、実は昨日渡そうとしていたものがあってね。ほら、此の前此の御時勢だから、何時市場が封鎖になるかわからない云ってたじゃない。其れで家には野菜があるよと教えたの憶えてるかい」
其の時は確か数箇月前だったような気がすると、ぼんやりとした記憶が思い出された。蝸牛夫婦の野菜は旬が春の野菜が多く、少し待っててねと云われたのだった。ユクリフと話す少し前だったか。あのタドコロ老人に対する怒りで此方も忘れかけていたらしい。
「思い出しました。人参とか、と」
「そう〳〵。持ってくるから一寸待っててね」
数分経って、二人が持ってきたものは私の知る単位に置き換えるとするならば、数瓩程ありそうだった。籠の中に、出来るだけ隙間が出ない様に積み込まれている。殆どが青く、一日経ったとは言え瑞々しく、此れらもまた一生物、一生命体であることを訴えているかのように生きていた。
「植物ですよね」
「ああ、植物だよ。植物人じゃない」
翁は少し不安げに訊いたウィンに安心せよと微笑んで答えると、ならば安心だ、とウィンは感謝の言葉を口にし、礼をして籠を背負って蝸牛夫婦の家を出た。蝸牛は様々な方言名がある、と云うのは何処の言語だったか、不図過ぎった其の言語の話題を思い出すのは、少したってからの事である。
L’2039/4/22の昼間。川の流れの音を聞きながらの農作業を終えたウィンは、此の星の自転が起こす太陽の高さの変化を実感し、帰路につこうと畦道を歩いていると、何時もより蝸牛が多いことに気付いた。あの老夫婦が居ない事だけ確かな其の群がそろそろ苗を植える田圃から、森から、日向に出ない筈の動物が青畠の本通りへ動いている様子に訝りながら、無視して帰ろうとすると、其の触角に奇妙なものがあることに気付いた。此の前話題にした、ロイコクロリディウムだ。此の地域にても流行っていたのだ。
ウィンは怖気づいてしまい足が竦んだ。異常な数の蝸牛、而して其の触角で動く寄生虫。蜀の様に動く其れは、幾ら蝶人や蟷螂人の友人が居て彼れらの「出産」を見るのに慣れていると云っても恐怖を感じずにはいられない。体のつくりも違う生物をば嫌う人で無くとも、慣れていないものには斯うなる。何と云っても数が多ければ。何が起こっているかを直ぐに理解したウィンでも、彼らが集まる路へ歩き出すのは躊躇った。代わりに唯眺める。眺める。何をか。
ダルンデネトのに似た未舗装の道に出た蝸牛は自分が何をやっているか自覚していないだろう。道の上の宿主は寄生虫の操り人形だ。彼れらは、唯其の触角の中のものが求める儘に動かされているに過ぎない。――鳥に見つかる為に。
其れに以前の自分が重なって見えた。もう何年経ったか数えるのを疾うの昔に止めた、盲信の日々だ。過去が遠くなっていっても、其れは必ず見つかる。何億光年離れた遠い星の光が赤方偏移して此の星にやって来るのと同じように、自分の行いは拭えぬ汚点となって将来を穢す。将来に亘り己の意志でしたことが己の意志で消せず、身を縛る。――違う。ロイコクロリディウムを取り入れようとしていた訳では無い、然う払拭したが、後味の悪さは残り続けた。
考えを振り払い後ろを見ると、両触角をロイコクロリディウムに寄生された蝸牛が一匹近付いてくるのを見た。再び恐怖が訪れ、ウィンは気付くと道の真ん中にいた。彼方此方を蝸牛が動き回っている。狼になって逃げればいいものを、ウィンは全く動かず呆然と立ち尽くした。一体何うやって逃げるか考えもせずに、二本の足で立ち、二個の眼球から入ってくる光の情報と一対の耳から入ってくる音の情報を唯々然るべき処理をするだけで受け取っていた。
烏の声。其れが彼れを恐怖の思考停止の大海から引き揚げた。顔を上げると其の烏は「芋虫」を捕らえようと右横を通って行く所だった。咄嗟に右手で烏を捕まえてから、其れが友人であることに気付いた。烏はウィンの腕に留まり、人化して地面に降り立った。
「ウィン、何で急に」
然う云い掛けた烏人だったが、ロイコクロリディウムに寄生された大量の蝸牛を見て顔が一気に青ざめた。先程迄己が口にしようとしていた其の触角の虫に射すくめられたかのようだった。二人は既に包囲され、逃げ道は無く思えた。
「ムシロ、何うやって逃げる」
「飛ぶ」
烏人は自信満々だった。ウィンが彼れに摑まると、彼れは半鳥化して、ロイコクロリディウム人が二人を追おうと人化しだすのも構わず飛んで行った。
道に沿って植わる春の訪れを告げる花が散っていた。




