第一話「しんがう」(#29)
今回から五人と、章末とに続く三番目の主要な視点人物が登場します。
怒りと云うものは従わぬ他者を従わせる為のものと聞いた事がある。人にとっての怒りとは排除すべきものであったり、自然なものであったりと様々な考えがあるだろう。自分にとって怒りとは、もう二度と出会わぬものであるとばかり思って居た。此の日迄は。
怒号。其れが響き渡って、やっと自分の感情に気付いた。怒号の主は、くつねの「先生」、ウィンだ。彼れが怒ったのには当然理由がある。其の原因が彼れが向き合っている、老人と、女との二人が云った言だった。
L’2039/2/28、ウィンの家に音信不通だった嘗ての仲間、ユクリフが老人と共に訪ねてきた。ユクリフとウィンとは、数十年前於合両国で合法であった奴隷を「解放」する為に活動していた。其の目的が成し遂げられてから、此の黒狐人ユクリフは家さえも残さず踪跡を晦ました。
「ウィンパー・ロバートさんですね」
併し、其の再会の感慨に浸る暇も無く、ユクリフの保護者の様に振る舞う白髪の翁が云った。朗らかな顔。笑顔は能面の様に全く動かず、奥にある本心を一切出していない。彼れは本当にユクリフの保護者なのか。ウィンは然う疑問を持った。ユクリフ自身が家族は「此処には」全く居ないと云っていた。翁が此の数十年で出来た新しい知人であることは間違いないだろうが、何故彼れが先に話し始めるのかわから鳴った。
「わたくし、タドコロと申します。本日はお話があって参りました。」
ウィンの考えを遮るように翁は名乗った。此処での穿鑿は無用だと告げるかのようにユクリフが視線を此方に動かしたのを見て、ウィンは二人を家に入れた。
翁タドコロはエフューラ・テサノタと云う組織の於亜支部代表者で、ユクリフは其の部下となっていた。エフューラ・テサノタは最近設立されたAFNFテサノタ派の宗教団体で、最近勢力を伸ばし始めたらしい。又支部によって熱意に差があるらしく、於亜支部は可也過激なのだそうだ。
「最初に云っておきますが、勧誘ではありません」翁は然う前置きしてから、語り出した。「今日此処を訪れたのはユクリフが貴方に個人的に話したい事があると云ったからなのです。併し組織の都合上一人にさせるのは危ないと云う事でわたくしが付き添うことになりました。ですので、此れからはお二人で好きにお話をなさって下さい。…………お手洗いを借りてもよろしいですかね」
「どうぞ。外の、あの畑の青色の仮設のが其れです」
ウィンが仮設廁を指差すと、翁はではと云って足を其方へ向けた。家の中のウィンとユクリフとの二人の間には束の間の静寂が訪れた。椅子に座る二人は互いに見つめ合った。先に口を開いたのはユクリフだった。久しぶりだね、との言に、以前の懐かしさは殆ど感じられなかった。微かに残る嘗ての雰囲気。まるで何かに上書きされてしまったかのようだ。其の上書きが何に拠るものかはわからなくても、ウィンには何となく、誰かへの、恐らくはタドコロへの信頼であることが何となく理解できた。
「ああ、久しぶりだな。十年振り位になるか」
「然うね」
上書きによる違和感で質問をするべきか迷ったが、此れ迄の処事の問題はなさそうだと思い訊ねる。
「あの爺さんとは何んな関係なのか」
「タドコロさんね」其の確認に然うだと云うと、目を泳がせながら続けた。「あの奴隷解放運動の後、私の家にも隕石が降って来てね。戸籍が無かったから乞食に逆戻りしちゃったのよ。まあ慣れていたから以前の様に生活をしていたわ。然うしたら、前は貴方だったけど、今度はあのタドコロさんに助けられたという事よ。タドコロさんも其の隕石で実家を失ったらしくて、今の〈エフューラ・テサノタ〉に救われたらしいわ。
彼れの曰くには、私は魔法とも違う、星と星とを繋ぐ力があるそうなの。彼れがエフューラ・テサノタの於亜支部部長を始めてから暫くして、力が他の人にも認められたから補佐になったわ。彼れ、貴方が解き明かせなかった私の過去を身ぐるみ剝がそうと色々努力してくれているのよ」
邪まな関係が何も無い事に一先ず按堵したウィンだが、何か客体的な見方に上書きされた何かを感じた。彼れはくつねと同じ狐人で、しかも隠し事をするのが巧い人であった。此れ程迄に視線を合わせないのはおかしい。目は流石に合わせないとは言え、目の焦点は顔の辺りにあったが今は――――何処を見ていたのだろうか。
「ああ、此方からも聞きたい事があった」
「何かしら。急に連絡を杜絶えさせたのは此方の責任だし、どうぞ」
「強制的に入らされたのか」
ユクリフはゆっくりと頷いた。
「然うよ。でも其れ以上は聞かないで頂戴。『おじさん』に洩れるとまずいのよ」
ユクリフは廁を指差した。束の間の沈黙。
「俺に話したい事て何だ」
其の質問を受けて、ユクリフはやっと視線をウィンの猩々緋の虹彩の近くへ合わせた。躊躇いか、溜息をして、話さなと、もう薄れて数語しか覚えていない彼れの故郷の言葉で呟いた後、ユクリフは其の狐の尻尾を思い出した様に立たせて、語り出した。
「此れ迄の事に対しての改めての感謝。当然其れ以外の事もある。主にエフューラ・テサノタに就ての事で。」
ウィンはタドコロが長く廁に居ることが気がかりだったが、静かに話を聞いていた。
「奴隷解放運動で、私達がしたことは正しいと今でも思う。唯の人間でしかないことを示して直ぐに、別の組織との抗争で拠点を壊されたことがあったけど、あれも今ではいい思い出の一つになっている。貴方には実行力があり、私には思考力があった。私が居なくなってから、貴方は天文学への興味を生かしてダイヌ天文台で働いていたそうじゃない。其れも貴方の実行力の高さの現れだと思う。
そんな貴方ならばと、私から一つ云いたい事があってね。『エフューラ・テサノタ』の本部は天文台があった、デルトアのダイヌ島にある。其処に異世界からの転生者の特区があることは新聞紙にも大々的に取り上げられたから知っているでしょう。此の組織、AFNFとは表向きだけで本当は何の繋がりも無い。だから、なのだけれども、『エフューラ・テサノタ』は此れから酷い組織になるわ。私達の拠点を破壊したあの烏合の衆以上の、にね。」
其処迄云って二人は茶を一服した。青い葉が白い湯呑に映えた、薄めの緑茶だ。此れを淹れた水をとった井戸は丁度ウィンからユクリフ越しにある窓の先に見える。其の奥には今タドコロが入っているであろう仮設廁がある。鍵は閉まった儘だ。
「其れは、一体何う云う……」
「ううんと、彼れは結構指導者として評価を得る為にと、憎悪を煽る為に、転生者が受けてきた仕打ちを集めている最中なの。其れ以外にも、合為支部では鯨人を食べる風習を非難する記事を書いたり、出十亜本部では出流兎亜時代の魔王を神格化を批判する記事を書いたりしているらしい。だから其の内真っ向から対立することになるし、東側の出於合枝介に混乱が生じると思う。だから其の際には、貴方が……中心で無くとも、エフューラ・テサノタの危険性を訴えて欲しいの」
「自分が居るなら抜ければいいのでは無いのか」
其の質問に、云い淀んだ後、喋り出した。
「彼れには、主に家族の事で弱みを握られているから、然うは出来ないの」彼れの脳裏に人質と云う字が浮かんだのを見透かすように、噺を続けた。「家族は此処にはいない。西側にも、離島にもね。でも彼れは私の家族の居場所の目星を既につけているわ。其れに、幾ら勧誘が強制的だったとは云え、彼処の生活に自分は満足っしちゃってるもの」
然う云って、ユクリフは、ウィンが知っているであろう方向を指差した。天文台に勤めていた彼れにしか判らない特殊な方法で。
「此れで私が云いたかったことは終わり。貴方とは此れが最後になるかも知れないけど、何か云いたいことはあるかしら」
ウィンは其の言に咄嗟に言葉が出てこず一瞬詰まったが、決心して口に出す。
「君にも自由が訪れることを願うよ」
ウィンは其の言葉を云ってから、扉が閉まる迄の暫く、尻尾と耳とを立たせ続けていた。此の二人の獣人の別れは、時計の如く、或いは惑星状星雲が形作られるときのガスの噴出の様に、ゆっくりと時間が流れていた。
――記録場処:オア共和国加納県加納市中山区青畠二丁目524番地




