5 血の匂い
魔獣ガルムを斬った、あの瞬間。断末魔とともに崩れ落ちていく姿を目の当たりにして、確かに、感じたのだ。胸の奥が満ちていく、あの、名状しがたい感覚を。
「あなたは、この戦争で大切なものを失い、復讐を誓った。記憶をいただいた際、私にも分かりました。あなたの苦痛が、絶望が、復讐心へと形を変えていくのが」
大義名分よりも、よほど、腑に落ちる話だった。個人的な復讐のために、俺は力を欲した。そういうことか。
「その記憶の中身も、お前は覚えているのか」
「もちろんです。お知りになりたいですか。あなたが、手放した記憶の中身を」
大切な記憶を手放した理由。力を得るためであったのは、間違いない。だが、それ以上に、忘れたかったのかもしれない。あまりにも、つらい記憶を。
「……いや、いい」
俺は、椅子から立ち上がりながら答えた。
「過去がどうであろうと、関係ない。命ある限り、魔物を殺す。今の俺が望むのは、それだけだ」
今さら知ったところで、失ったものが戻るわけではない。ならば、余計なことは、知らずともいい。
「賢明なご判断です」
女も静かに立ち上がり、微かに微笑んだ。
「ですが……お聞きになりたくなったら、いつでも仰ってください。私はこの砦に、あなたのそばに、ずっとおりますから」
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それからの日々は、血と死の匂いに満ちていた。身を焦がす復讐の渇望。それだけが、俺を生かしていた。
魔物の襲撃は、二、三日に一度。砦の周囲に仕掛けられた検知魔法はまだ生きていたから、やつらがそれに引っかかると警報が砦中に鳴り響く。
その度に、俺はひたすら斬り、殺し、嬲った。復讐心が満たされ、痛みすらもが、生きている実感として俺を支えた。
王都からの便りはなく、世界がどうなっているのかも分からない。だが、それでよかった。ここは、俺ひとりの戦場であり、舞台だ。砦を離れるという選択肢など、はじめからありはしなかった。
襲撃のない日は、ただ時間を持て余した。黴臭い兵舎で独り寝起きし、あてもなく砦をさまよう。かつて兵たちが技を磨き合っただろう訓練場にも、今は、人影のひとつすら見当たらない。
女神は、主塔の将官室に住んでいるらしい。彼女もまた、俺と同じように砦を歩き、時折、外へ出ては薬草を摘んで戻ってくる。言葉を交わすのは、もっぱら食事の折だけだった。日に二度、彼女は俺を大広間へと誘う。
魔物の肉にも、もう慣れた。人は結局、食欲には抗えぬ。そう思い知らされた。
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さらに一月が過ぎた。この日も、押し寄せた群れを、いともたやすく葬った。死骸はあとで山奥へ捨てねば、腐って酷い臭いを放つ。
そんなことをぼんやりと考えながら、俺は砦への帰路を辿った。
「おかえりなさいませ」
大広間へ入ると、女神は、すでに夕餉の支度を終えていた。席につき、鉄靴を脱いで裏返すと、溜まっていた紫の血が床にどばりと跳ねた。さすがの女神様も、眉をひそめる。
「ヴェイル。少し、水を浴びてらしてください。ずいぶんと酷い有様ですし、なにより……臭います」
俺は自分の体を嗅いでみた。
「飯を食ってから行く」
「いいえ。今すぐ、行ってきてください」
「……分かった」
この女は時折、有無を言わせぬ迫力を持つ瞬間がある。俺はそのまま砦を後にした。山道を登れば、やがて、川のせせらぎが聞こえてきた。
傍らには、やけに真新しい女神の像が立っている。
(似ていないな……)
あの自称女神とは、似ても似つかない。もっとも、どうせ本物ではあるまい。俺は身に纏うものを脱ぎ捨て、流れに身を沈めた。清らかな水が、みるみる紫に染まっていく。
しばらくすると汚れは落ちた。
だが、この身に染みついた臭いだけは、どうにも消えてはくれそうになかった。




