3 茨の冠
見渡すかぎり、一面の花畑だった。その中央で、俺と、あの自称女神は、向かい合って立っていた。
「おめでとうございます、ヴェイル」
彼女は静かに歩み寄ると、編んだ花の冠を、そっと俺の頭に載せた。
「ありがとう」
礼を呟いて、その顔を見つめる。海の波のように、たえず揺らめく碧い瞳。知っている。この女を、俺はどこかで知っている。
だが、それがいつ、どこでのことだったのか。いくら手繰り寄せても像を結ばない。
もっと近くで、確かめたかった。
俺は、そっと顔を寄せる。
その刹那、彼女は変わり果てていた。
タールを塗り込めたような、漆黒の肌。眼窩には、ぎらりと濡れ光る、ルビーの赤。
気づけば、花畑は掻き消えていた。ひび割れた枯れ野に、血に濡れた剣が幾千と突き立っている。頭上の花冠はいつしか茨と化し、幾本もの棘が、俺の額へ深く食い込んでいた。
目の前のそれが、耳元まで裂けた口を、ぐぷりと開く。そうして、ゆっくりと、顔を寄せてくる。かつての彼女の面影など、もう、どこにも残ってはいない。
それはまるで――
「悪魔だ」
目を開けた瞬間、視界を覆い尽くすその顔へ向かって、俺はそう呟いていた。小さな悲鳴とともに、女が弾かれたように仰け反る。
俺はゆっくりと上体を起こした。
固い寝台のシーツには、びっしりと汗が滲んでいた。見回せば、幾筋ものひび割れが走る、見慣れた石壁。間違いない。ここは、砦の中にある兵舎だ。
「そんなに恐ろしい顔をしていましたか、私」
少し不服そうな声色の、自称女神の女。フードを下ろしたその面差しは、悪魔とは似ても似つかぬ、年若い娘のものだった。
「変な夢を見た……ここはあの世か?」
「いいえ、現実です。あなたは見事、ガルムの群れからこの砦を守り抜きました。途中で、気を失ってしまいましたが」
全身にまとわりつく、濃い血の匂い。それが、あの戦いが、幻でなかったことを証している。腹には幾重にも包帯が巻かれていた。血こそ滲んでいたが、どういうわけか、痛みはまるでない。
「この腹……手当てをしたのは、お前か」
「いいえ。私は大したことはしていません。傷が塞がったのは、すべて、あなた自身の力によるものです」
「俺自身の?」
「ええ。記憶と引き換えにお授けした力は、剣の冴えや膂力ばかりではありません」
言われて、改めて腹を撫でる。腸がこぼれ落ちるほどの傷を負ったとは、とても思えぬほど、肉は隙間なく再生していた。
「お前は……いったい、何者だ」
「ですから、女神です」
しれっと言ってのける。
だが、やはり得心はいかない。見てくれは、どこからどう眺めてもただの人間だ。とはいえ、ここで問答を重ねたところで埒は明くまい。
俺は眉間を揉みほぐしながら、問いを変えた。
「では……その女神様が、この地上に、何の用だ」
「あなたを、助けに来ました」
「なぜ、俺を」
「あなたに死なれては困るのです」
「……なぜ」
「決まっています。魔物を殺すため」
そこまでして魔物の死を望む、その理由はなんだ。
胸の奥でそう問いかけて、俺はふと思い至る。
「その理由も……お前が、俺から奪ったのか」
「奪った、のではありません。取り引きしたのです」
「なぜ、そうまでして記憶を欲しがる」
「別に、欲しいわけではありません。いくら女神とて、力をただで授けるわけには、まいりませんから」
「そういうものなのか」
「ええ。そういうものです」
魔法だの、加護だの、奇跡だの。
その理は、俺にはまるで見当もつかない。
「俺は、どれほどの記憶をお前に渡した」
「それはもう……たくさんです」
女はそう言って、どこか遠くを見るように少し上を向いた。
「本当に、数えきれぬほどの記憶をいただきました。あなたが私に記憶を渡したという、その記憶さえも」
言うとおりだった。俺の裡に残された記憶は、虫の食った葉のように穴だらけだ。思い出せぬというのは、どうにも据わりが悪い。
「それは……返してもらう、というわけにはいかないんだろうな」
「残念ながら。ですが、お話しして差し上げることは、できますよ」
「……ならば」
その時、ぐぅ、と情けなく、腹の虫が鳴いた。こんな時でも、律儀に空腹は訪れるものらしい。女は口元に手を添え、少し、笑ったように見えた。
「続きは、まずその空腹を満たしてから、といたしましょうか」




