2 塵のように
脅威は東からやって来た。
魔王の率いる魔物の軍勢がこの国へ攻め込んできたのは、半年ほど前のことだ。その日を境に、王立軍の兵士は皆、終わりの見えない戦禍へと身を投じることになった。俺も、その一人だった。
魔王は、烏合の衆でしかなかった魔物どもを一つに束ね、統率の取れた軍勢へと造り変えた。戦線はじりじりと押し下げられ、今やこの東の砦こそが、王都を守る最後の砦となっている。
俺は、この砦で小隊を率いていた。誰もが頼れる、かけがえのない仲間たちだった。
だが、あの日。
巨大な盾を構える、エドガーの広い背中。いつも俺たちを守ってくれたその盾が、骨の砕ける音とともに、目の前でひしゃげた。
乾パンを半分こにしてくれた、カルロ兄弟の屈託のない笑み。その二人が、耳から血を噴いて崩れ落ちる。
連夜の見張りを代わってくれた、ビョルン爺の、ぶっきらぼうな横顔。それが巨腕に潰され、ただの肉塊と化す。
温もりも、断末魔も、何もかもが入り混じって溢れ出し、端から溶けるように薄れていく。手を伸ばしても、もう、何ひとつ掴めない。
ただ、そんな感覚だけが、俺のすべてを呑み込んでいく。
そして――
「はい……終わりました」
その声に、はっと顔を上げる。目の前に、女の顔があった。鈍く痺れていた感覚が、少しずつ、鮮明さを取り戻していく。
俺は改めて、自分が今どこにいるのかを確かめた。瓦礫の山、荒涼とした大地、そして、崩れかけた砦。左手は、いつのまにか、女の細く白い指を握っていた。俺は弾かれたように、その手を振り払う。
「俺に……何をした」
「記憶を、いただきました。私に触れて、忘れたい記憶を思い出すだけでいい。そう申し上げたはずです。どうです? 今しがた思い出していたことも、もう、思い出せないはずですよ」
俺は頭を押さえ、たった今まで考えていたことを、必死に手繰り寄せようとする。何か、とてつもなく重要で、大切なことだったはずだ。それなのに——
「……思い出せない」
その代わりに、まったく別のものが、内側から溢れ出そうとしていた。腕に、脚に、芯から力が漲っていくのが分かる。重かったはずの体が、嘘のように、軽い。
「本当にこれで……魔物を殺せるのか」
胸の奥に、得体の知れない感情がわだかまっている。理由は、分からない。だが、はっきりと感じる。魔物への、灼けつくような憎しみを。
女は何も答えず、ただ静かに、微笑んだだけだった。
その時、地鳴りが足の裏から這い上がってきた。
土煙の向こう。地平を埋め尽くすように、群れが駆けてくる。狼に似た筋骨隆々の魔物。名も知らぬそれが、十ダースは下らぬ数で、一つの巨大な生き物のように、こちらへ迫ってくる。
「ちょうどいい。試し相手が、来たようですよ」
いつの間にか、女が俺の背後に立っていた。
「今のあなたなら、あの程度、造作もありません」
無責任にそう言い放つ。
俺は剣を構えた。たった一人で、勝てるはずがない。自分の実力くらい、心得ている。剣を握る手が、細かく震えた。
だが――もし、この女の言葉が本当なら。俺はここで、死ぬ定めではないはずだ。
先陣の一体が、岩陰から躍りかかってきた。半ば自棄になって、俺はその鼻先へ、がむしゃらに剣を薙ぐ。
手応えはなかった。
いや、軽すぎて、無いように感じたのだ。熟し切った果実に刃を沈めたように、その巨体は、肩から腰まで両断されていた。
「……まさか」
戸惑う間もなく、次が来る。考えるより先に、体が動いていた。剣を振るうたび、魔物が裂ける。肉が飛び、骨が砕ける。
これが、力。これが、あの女の言っていた力か。
いつしか、恐怖はまったく別の何かへと姿を変えていた。斬って、斬って、ただ斬りまくる。ただ己の復讐心を満たすために。
地獄があるとすれば、きっと、こんな光景だろう。血と肉と臓物の混ざりあった何かが、広場一面を、埋め尽くしていた。
魔物の群れは全滅した。やってのけたのは、ほかでもない、この俺だ。気づけば俺だけが血の海に立ち、荒い息を吐いていた。
「……ははは!」
込み上げてくる、笑い。戸惑いもある。だがそれ以上に、仄暗い愉悦が、胸の奥の空っぽのグラスへと注がれていくのが分かった。
「お見事です、ヴェイル」
背後から声。自称・女神が、拍手をしながら歩み寄ってくる。
「いかがでしたか。ガルムを、塵のように屠る心地は」
ガルム。俺が斬り殺した魔物は、そんな名だったか。もはやそれは、どうでも良いことだった。
「ああ……最高だった」
「それは何より。これで、信じていただけましたね」
「そうだな……だが」
俺は、返り血に濡れた切っ先を、彼女の華奢な喉元へと突きつけた。
「次は、お前の番だ、女神様。死にたくなければ、洗いざらい、真実を話してもらおうか」
彼女は動じない。
「もちろん、構いませんよ。何なりと、お答えします。ですが……その前に。そのお腹、大丈夫ですか?」
視線を下げる。魔物の紫ではない。俺自身の赤い血が、べったりと腹にこびりついていた。真鍮の鎧は砕け、肉は抉れ、臓物がだらりと垂れ下がっている。
「何……」
さっと、血の気が引いた。いつこんな傷を負ったのかすら分からない。
景色が溶ける。足元がふらつき、俺は、仰向けに倒れ込んだ。
急速に光を失っていく視界の中、俺を見下ろす、あの青い瞳だけが、最後まではっきりと映っていた。




