1 記憶を奪った女神
「ヴェイル……起きなさい、ヴェイル」
名を呼ぶ声に、俺は目を開けた。瞬きを繰り返すたび、滲んでいた視界が、少しずつ輪郭を結んでいく。瓦礫の中に、見知らぬ女がひとり、立っていた。
纏っているのは、薄汚れた茶色のローブ。フードを目深に被っているせいで、顔は陰に沈んで見えない。
「ここは……あの世か」
戦場にはあまりに不釣り合いなその姿に、俺は思わずそう零していた。
「いいえ。まぎれもなく、この世です」
返ってきたのは、ぞっとするほど抑揚のない声だった。
――そうだ、グロルド。あの異形に吹き飛ばされ、俺は城壁に叩きつけられた。目の前で、小隊は全滅したのだ。巨漢のエドガーも、カルロ兄弟も、ビョルン爺も。誰ひとり守れないまま、俺だけが、無様に生き延びたというのか。
握りしめた剣の柄。その感触だけが妙に遠く、指先には、まだ力が戻らない。首をめぐらせ、辺りを見渡す。崩れた城壁、その奥に佇む砦、荒れ果てた戦場。
だが、何かがおかしい。俺を取り囲んでいたはずのグロルドの群れも、味方の兵の姿も、どこにも見当たらない。
代わりに、すぐ傍らに、見たこともない魔物の骸が転がっていた。黒い甲殻に覆われた、グロルドの倍はある巨躯。眉間は深々と裂け、紫の血だまりが広がっている。
こんな化け物がいただろうか。まるで覚えがない。思い出そうとすると、頭の芯が鈍く軋んだ。
「魔物は……兵たちは。皆、どうなった」
女は答えない。枯れ木のように、ただ立ち尽くしている。
「お前は、誰だ。どうして俺の名を知っている」
しばしの沈黙のあと、女は、ゆっくりと口を開いた。
「私は……女神です」
「……何?」
思わず聞き返す。
女神?
どこからどう見ても、ただの人間にしか見えない。
「女神ですから、あなたの名くらい、分かります」
「答えになっていないだろう」
「よく聞きなさい、ヴェイル。私は、あなたに力を与えに来たのです」
「力……だと」
「はい。魔物を殺す力です」
心臓が、大きく跳ねた。脳裏に、あの醜い異形と、なす術なく蹂躙されていく仲間たちの姿が、まざまざと蘇る。
「私には分かります。何もできず、ただ指をくわえて仲間の死を見送るしかなかった、あの、惨めな気持ちが」
胸の底から、仄暗いものが湧き上がってくるのが分かった。何ひとつできなかった、自分自身へ。そして、こともなげに命を奪っていった、あの魔物どもへ。
「あなたは、大切なものを何一つ守れなかった」
「……黙れ」
声が震えた。腹の底から怒りが込み上がる。だが、この女の言葉は、何ひとつ間違っていない。だからこそ、返す言葉も見つからなかった。
「悪いのは、あなたではありません。魔物でもない。無力であること。それだけが、すべての元凶なのです。だから私は、あなたにその力を与えました」
あまりに荒唐無稽な話だ。それなのに、なぜか、耳を塞ぐことができない。女はゆっくりとしゃがみ込み、俺の鼻先へ、ぐいと顔を寄せた。
「もちろん、ただではありません。その対価としていただいたのは……あなたの記憶です」
フードの奥が露わになる。煤に汚れてはいたが、そこにあったのは、やせ細った顔立ち。そして、深い海を思わせる青い瞳。その目の周りは、泣き腫らしたあとのように赤い。
「記憶を……この俺から、奪ったというのか」
「ええ。信じられませんか? でしたら、試しになにか思い出してみてください」
「なんで、そんなことを」
「いいから」
気圧されるように、俺は言われるまま、これまでのことを手繰り寄せた。
激化する魔物との戦いのため、王都から、この国境の砦へ送られたこと。日ごとに苛烈さを増す攻撃を、仲間とともに、歯を食いしばって耐え忍んできたこと。
だが、終わりの日は唐突に訪れた。俺の目の前で、仲間たちは、醜い魔物になぶり殺しにされた。
そして俺も……
黒い袖口から伸びた白い手が、俺の頬に触れた。そのひやりと冷たい指先が拭ったのは、いつのまにか零れていた、俺自身の涙だった。
「まだ……残っていたのですね」
そう呟いた女の瞳が、儚げに揺れた。だが、そう見えたのは、ほんの一瞬のこと。女はふたたび立ち上がると、もとの抑揚のない声に戻って告げた。
「今、あなたが思い出したその記憶を、私にください。そうすれば、それに見合うだけの力をお渡しします」
「何を言って……」
「力が欲しくないのですか? それとも、いらない?」
突きつけられたその問いは、とても戯言とは思えなかった。
「……いいだろう」
掠れた声で、俺は答えた。剣を地に突き立て、それを支えに、震える足で立ち上がる。まるで、もう何年もこの場に座り込んでいたかのようだった。
「記憶でもなんでもくれてやる。その代わり、俺に力をよこせ」
このとき俺の胸の内を支配していたのは、郷愁でも、死んでいった仲間への哀悼でもなかった。
復讐。ただそのどす黒い衝動だけが、蛇のように、体中を這いずり回っていた。
女が、ほんのわずか、目を細めた気がした。そして、黒いローブの下から、白い手を俺の方へと差し出す。
「それでは――あなたの記憶、いただきます」




