12 記憶を失った兵士
震える声で、私は言った。
「私と過ごした記憶も、一緒に。この二年半を、全部、私にください」
「……何?」
「奥様の記憶だけを奪うなんてこと、できません。私のことも一緒に忘れてください。そうでなければ……私は、私を許せない」
ヴェイルは戸惑うように眉を寄せた。血の気の失せた唇が、わずかに震えている。
「お前を……忘れろというのか」
「ええ、そうです。大丈夫、ヴェイルの復讐は、私が導きます。さあ、早く。もう時間がありません」
もう、これしか道はなかった。彼から奥さんだけを奪って、その空いた場所に自分がすべり込むなんて。そんな浅ましい真似をするくらいなら、いっそ、私ごと消えてしまったほうがいい。
彼は、長いあいだ迷っていた。荒い息の合間に、何度も口を開きかけては、やめた。
やがて、静かに目を閉じた。
「……すまない。ありがとう、リア」
きっと最後になるであろう、彼の口から出た私の名を聞きながら、私は彼の手を強く握りしめた。
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奔流が、私の中へ流れ込んでくる。
藍色の髪の女性が、朝の光の中で笑っている。出征の朝、袖を掴んで離さなかった細い指。
「必ず帰る」と交わした約束。守りたかった、王都の街並み。市場の喧騒。夕暮れの鐘の音。
彼が愛し守ろうとした、すべての人たち。
その記憶のどれもが、眩しいほどの輝きに満ちていた。
私は幸福感に満たされていく。私のものではないはずの幸福に。人を心の底から愛することが、こんなにも豊かで、こんなにも美しいのだと。
皮肉にも、それを私に教えてくれたのは、彼のこの記憶だった。
そして……その流れの果てに、私自身の姿があった。
炎の夜、彼に抱きかかえられた煤だらけの顔。初めて皿を運んだ日の、真っ赤な私の顔。ワインを月の下で酌み交わしたあの夜。
ヴェイルは、ちゃんと私を見ていてくれた。
鬱陶しがるでも、疎むでもなく。頼りにして、少しだけ、大切に思ってくれていた。彼の記憶の中で笑う私は、思っていたよりもずっと、幸せそうな顔をしていた。
それは、私がずっと欲しかった、燃えるようなものではなかった。けれど……確かに、温かかった。
それで、よかったのだと思う。
彼のくれたこの温もりは、確かに本物だった。それだけで、あの日死ぬはずだった私の、この二年半はきっと必要なものだったのだと思う。
人を愛するという気持ち。そして、こんな私を想ってくれる気持ちを。教えてくれて、ありがとう。
涙が頬を伝った。
嬉しいのか、哀しいのか。
もう、自分でも分からなかった。
**
大量の記憶を奪われ、ヴェイルは気を失った。
けれど、その体はみるみるうちに癒えていく。抉れた胸が塞がり、砕けた骨が繋がり、失われた血の色が頬に戻ってくる。
妻への愛を糧にした、人ならざる治癒の力。彼が世界で一番大切にしていたものが、今、彼の命を繋ぎとめている。
次に目を覚ました時。彼はもう覚えていない。この二年半のことも。リアという、一人の人間のことも。
私はその寝顔をそっと見下ろした。
驚くほど穏やかで、あどけなくさえあった。それは、初めて出会ったあの夜、炎の中から私を救い出してくれた、あの優しい兵士の顔だった。
夜風が、頬を撫でていく。魔物の亡骸の向こうで、白々と、東の空が明けはじめていた。
決めた。もう、「リア」とは名乗らない。
彼が忘れてしまったその名前で、彼の前に立つのは、あまりにもつらいから。それに、名乗ってしまえば、きっとまた期待してしまう。いつか思い出してくれるのではないか、と。そんな未練は、もういらなかった。
私は女神になる。
彼を導き、生かすための、ただそれだけの存在に。名前も、心も、この二年半も。私に関わるすべてを、あの日の女神像のように、静かに打ち捨てよう。この胸に抱えた想いは、女神の衣の下に今度こそ完全に封じてしまおう。
あの日、あの女神様は言っていた。授かる力は、その人が一番必要としているものを与えてくれるのだと。
だとしたら、私が一番必要としていた力とは、愛する人に、自分自身を忘れさせることだったのだろうか。
そんな皮肉に、もう、笑う気にもなれなかった。
フードを目深に被る。冷たくなった手で、私は彼の頬にそっと触れた。
この手が温もりを失っていく代わりに、あなたが生きるのなら。それでいい。それが、私に授けられた役目なのだから。
「ヴェイル……起きなさい、ヴェイル」




