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記憶いただきます  作者: 猫屋敷浜辺
第二章 記憶を奪った女神
25/26

12 記憶を失った兵士

 震える声で、私は言った。

 

「私と過ごした記憶も、一緒に。この二年半を、全部、私にください」

「……何?」

「奥様の記憶だけを奪うなんてこと、できません。私のことも一緒に忘れてください。そうでなければ……私は、私を許せない」

 

 ヴェイルは戸惑うように眉を寄せた。血の気の失せた唇が、わずかに震えている。

 

「お前を……忘れろというのか」

「ええ、そうです。大丈夫、ヴェイルの復讐は、私が導きます。さあ、早く。もう時間がありません」

 

 もう、これしか道はなかった。彼から奥さんだけを奪って、その空いた場所に自分がすべり込むなんて。そんな浅ましい真似をするくらいなら、いっそ、私ごと消えてしまったほうがいい。

 

 彼は、長いあいだ迷っていた。荒い息の合間に、何度も口を開きかけては、やめた。

 やがて、静かに目を閉じた。

 

「……すまない。ありがとう、リア」

 

 きっと最後になるであろう、彼の口から出た私の名を聞きながら、私は彼の手を強く握りしめた。

 

**

 

 奔流が、私の中へ流れ込んでくる。

 

 藍色の髪の女性が、朝の光の中で笑っている。出征の朝、袖を掴んで離さなかった細い指。

 「必ず帰る」と交わした約束。守りたかった、王都の街並み。市場の喧騒。夕暮れの鐘の音。

 

 彼が愛し守ろうとした、すべての人たち。

 その記憶のどれもが、眩しいほどの輝きに満ちていた。

 

 私は幸福感に満たされていく。私のものではないはずの幸福に。人を心の底から愛することが、こんなにも豊かで、こんなにも美しいのだと。

 皮肉にも、それを私に教えてくれたのは、彼のこの記憶だった。

 

 そして……その流れの果てに、私自身の姿があった。

 

 炎の夜、彼に抱きかかえられた煤だらけの顔。初めて皿を運んだ日の、真っ赤な私の顔。ワインを月の下で酌み交わしたあの夜。

 

 ヴェイルは、ちゃんと私を見ていてくれた。

 

 鬱陶しがるでも、疎むでもなく。頼りにして、少しだけ、大切に思ってくれていた。彼の記憶の中で笑う私は、思っていたよりもずっと、幸せそうな顔をしていた。

 

 それは、私がずっと欲しかった、燃えるようなものではなかった。けれど……確かに、温かかった。

 

 それで、よかったのだと思う。

 

 彼のくれたこの温もりは、確かに本物だった。それだけで、あの日死ぬはずだった私の、この二年半はきっと必要なものだったのだと思う。

 

 人を愛するという気持ち。そして、こんな私を想ってくれる気持ちを。教えてくれて、ありがとう。

 

 涙が頬を伝った。

 

 嬉しいのか、哀しいのか。

 もう、自分でも分からなかった。

 

**

 

 大量の記憶を奪われ、ヴェイルは気を失った。

 

 けれど、その体はみるみるうちに癒えていく。抉れた胸が塞がり、砕けた骨が繋がり、失われた血の色が頬に戻ってくる。


 妻への愛を糧にした、人ならざる治癒の力。彼が世界で一番大切にしていたものが、今、彼の命を繋ぎとめている。

 

 次に目を覚ました時。彼はもう覚えていない。この二年半のことも。リアという、一人の人間のことも。

 

 私はその寝顔をそっと見下ろした。

 

 驚くほど穏やかで、あどけなくさえあった。それは、初めて出会ったあの夜、炎の中から私を救い出してくれた、あの優しい兵士の顔だった。

 

 夜風が、頬を撫でていく。魔物の亡骸の向こうで、白々と、東の空が明けはじめていた。

 

 決めた。もう、「リア」とは名乗らない。

 

 彼が忘れてしまったその名前で、彼の前に立つのは、あまりにもつらいから。それに、名乗ってしまえば、きっとまた期待してしまう。いつか思い出してくれるのではないか、と。そんな未練は、もういらなかった。

 

 私は女神になる。

 

 彼を導き、生かすための、ただそれだけの存在に。名前も、心も、この二年半も。私に関わるすべてを、あの日の女神像のように、静かに打ち捨てよう。この胸に抱えた想いは、女神の衣の下に今度こそ完全に封じてしまおう。

 

 あの日、あの女神様は言っていた。授かる力は、その人が一番必要としているものを与えてくれるのだと。

 だとしたら、私が一番必要としていた力とは、愛する人に、自分自身を忘れさせることだったのだろうか。

 

 そんな皮肉に、もう、笑う気にもなれなかった。

 

 フードを目深に被る。冷たくなった手で、私は彼の頬にそっと触れた。


 この手が温もりを失っていく代わりに、あなたが生きるのなら。それでいい。それが、私に授けられた役目なのだから。


「ヴェイル……起きなさい、ヴェイル」

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