11 致命傷
跳ね橋の向こう、地平を埋め尽くすように蠢く、黒い群れ。土煙が、まるで生き物のように大地を這っていた。その中心に、ひときわ巨大な影があった。
黒い甲殻に覆われた巨躯。月光を跳ね返すその表皮は、鈍く濡れたように光っている。これまで見てきた、どの魔物とも違う。
一目で分かった。あれは、格が違う。魔王が差し向けた、恐ろしい刺客なのだと、肌が粟立つほどに直感した。
「ヴェイル……今日は、行かないでください」
思わず、そう口にしていた。声が震えているのが、自分でも分かった。
けれど彼は、いつものように剣を抜いた。その横顔には、迷いも、恐れも、何ひとつ浮かんではいなかった。
「行かなければ」
なぜ、仲間がいないのか。
なぜ、たった一人で、これほどの数と戦い続けているのか。
それすら、もう思い出せないはずなのに。
理由を失ったまま、それでも彼は、戦うことをやめようとしない。剣を握る手には、迷いなど、微塵もなかった。
それを止める言葉を、私はそれ以上持たなかった。何度口にしても、彼の答えは変わらないと知っていたから。
その背中を、私は、ただ見送ることしかできなかった。跳ね橋を渡り、闇の中へと消えていく、その後ろ姿を。
戦いは、凄惨だった。
群れを斬り伏せながら、ヴェイルはあの異形へと迫っていく。剣が閃くたび、周囲の魔物が次々と地に崩れ落ちていった。だが、彼の刃がいよいよ黒い甲殻に届いたその時、手応えの無さを、私は遠目にも感じ取った。
刃は、甲殻の表面で鈍い音を立てて弾かれた。それだけでは済まなかった。振るわれた怪物の剛腕が、ヴェイルの体を、まるで木の葉のように吹き飛ばす。地響きとともに、彼が瓦礫の中へと叩きつけられるのが見えた。
息が止まりそうになった。
それでも彼は、立ち上がった。折れた腕が、みるみるうちに繋がっていく。裂けた肉が、盛り上がるようにして塞がっていく。何度でも、彼は剣を握り直した。
腕が折れても、肉が裂けても、彼はすぐに再生し、また立ち上がる。だが、怪物もまた死なない。斬りつけても、突き刺しても、その黒い甲殻は致命傷にはほど遠かった。
終わりの見えない削り合い。
血と、怒号と、絶叫だけが夜の戦場を満たしていく。
どれほどの時が過ぎたのか、もう、分からなかった。私は跳ね橋のたもとで、ただ、その行方を見守ることしかできなかった。
祈ることさえ、もう虚しく思えたとき、最後の瞬間が訪れた。
振り下ろされた怪物の腕が、ついに、ヴェイルの体を捉えた。骨の軋む音が、ここまで届いた気がした。だが彼は、その一撃をまともに受けながら、なお、渾身の力を振り絞り剣を突き上げた。
刃は、甲殻のわずかな隙間を、正確に縫って進んだ。怪物の眉間へ、深々と突き刺さる。
断末魔の咆哮が、夜気を裂いた。巨体が、ゆっくりと、まるで山が崩れるように崩れ落ちていく。そしてその傍らに、ヴェイルもまた、糸の切れた人形のように力なく倒れ込んだ。
辺りに、静寂が戻る。
あまりに、唐突な終わりだった。
**
私は、戦場を駆けた。
脚がもつれ、何度も瓦礫に躓きながら、それでも走った。魔物の亡骸を越え、まだ生温かい血だまりを越え、ただ、彼のもとへ。
彼の名を、何度も叫びながら。
ヴェイルは、まだ、かろうじて息をしていた。だが、その胸は深く抉れ、あふれ出す血が止まる気配を見せない。再生が追いついていないのだ。
あの怪物を打ち倒すために、彼は力のすべてを、根こそぎ使い果たしてしまっていた。
このままでは、死ぬ。
「リア……」
血の泡を吐きながら、ヴェイルが震える手で、私の手を探した。私はその指を、両手でしっかりと包み込んだ。掌に伝わる体温は、驚くほど冷たかった。
「頼みが……ある」
「喋らないで……お願いだから」
「力が、いる。生き延びて、戦い続けるための、力が。国を……妻を、守らなければ」
死にかけてなお、その瞳の奥には、昏い炎が消えることなく燃えていた。まるで、それだけが彼をこの世に繋ぎとめているかのように。
「だから……俺の記憶を、奪ってくれ……妻の」
心臓が凍りつく。
「だめ……そんなの、だめです! それを奪ったら、あなたは今度こそ、何のために生きているのかさえ、忘れてしまいます」
「ああ……かまわない。頼む、お前が……導いてくれ。すべてを忘れた、俺を」
「いったい、どこまで――」
自分勝手な人。そんな言葉が、喉元まで込み上げたけれど、それをぐっと飲み込んだ。
自分勝手なのは、私も同じだった。彼に愛する人がいると知りながら、それでもなお、私は彼を愛してしまった。
彼を生かしたい。ただ、それだけのために、私はヴェイルの人生のほとんどを、この手で奪い尽くしてしまった。今さら、彼を責める資格などあるはずもなかった。
私が、本当に恐れているもの。
それはもっと、別のところにあった。
もし、ヴェイルの心から、最愛の人が跡形もなく消えてしまったら。
その、ぽっかりと空いた隙間に、私がするりと、すべり込んでしまうかもしれない。
ずっと押し殺してきたはずの、浅ましい願いが、また鎌首をもたげてしまうかもしれない。
「たのむ……たのむ」
口から血の泡を吹きながら、虚ろな目で、譫言のように繰り返すヴェイル。もう、迷っている時間は残されていなかった。命が指の間から、砂のようにこぼれ落ちていく。
私は血だらけのその手を、強く握り返した。
「条件が、あります」




