10 昏い真実
将校が姿を消した砦から、脱走者が相次いだ。残ったのは、わずか三十人ほど。彼らが選ぶリーダーは、当然のようにヴェイルになった。彼らにとって、ヴェイルはもはや神も同然の存在だった。
私はその神に仕える、たった一人の使用人。襲撃のたびに彼は記憶を私に渡し、それを力に変えて魔物を屠っていった。
怒り、恐怖、悲しみ。彼が本当は手放したくなかったはずのものまで、私は、その手から受け取り続けた。
彼が忘れていくぶんだけ、私の中には、彼の人生が降り積もっていく。
残酷かもしれない。でも、それでヴェイルが壊れずに済むのなら。私は、いくらでも受け入れる。
そう思っていた。
そんな、ある日のこと。
跳ね橋の向こうから、何かが砦に近づいてくる。それは魔物ではなく、一頭の馬。よろめきながら歩くその背に乗るのは、王立軍の伝令だった。
その姿は、とてもまともとは言えなかった。鎧は砕け、矢が幾本も突き立ち、半ば死人のようだった。
兵たちが駆け寄り、その体を抱え下ろす。伝令は虚ろな目で、譫言のように同じ言葉を繰り返していた。
「王都が……王都が、落ちた……」
砦の時間が、そこで止まった気がした。
「魔王軍が、城門を……民も、兵も、皆……もう、どこにも……」
そこまで言って、伝令は事切れた。最後の力を振り絞って、ここまで報せに来たのだ。誰も、何ひとつ守れなかった、その事実を。
静寂のあと、兵の一人が力なく膝をついた。別の一人が、声を殺して泣き始める。三十人の、最後の砦。その守るべきもの自体が、もう、どこにも存在しなくなってしまったのだ。
私は、人混みの中にヴェイルの姿を探した。彼は不気味なほど静かに、そこに立っていた。表情がすっかり抜け落ちていた。怒りも、悲しみも、何も浮かんでいない。ただ、翡翠の瞳が、ゆっくりと、暗く翳っていくのが見えた。
王都は落ちた。民は死んだ。
そして、おそらく――彼の妻も。
私は、駆け寄ることができなかった。
かける言葉が、どこにも、見つからなかったから。
**
その夜、ヴェイルは将官の部屋の窓辺に立っていた。
私が入っていっても、振り向きもしない。月明かりに照らされたその背中は、岩のように動かない。机の上には、皺だらけの手紙が一通。
きっと、何度も読み返したのだろう。
「ヴェイル……」
「妻はな」
私の声を遮るように、彼が口を開いた。掠れた、低い声だった。
「臆病な奴でな。俺が出征する朝も、ずっと、袖を掴んで離さなかった。必ず帰る、魔物どもを倒して。そう、約束したんだ」
窓に映る顔は、笑っていた。泣くよりも、ずっと苦しそうな笑みだった。
「俺は無力だ。お前がくれた力があるのに、国も、仲間も……たった一人の妻すらも、守ることができなかった」
かける言葉なんて、なかった。あの炎の夜、何もできなかった私には。私はただ、その背中を見つめることしかできなかった。
長い沈黙のあと、ヴェイルは振り向いた。その瞳は涙ではなく、もっと冷たい何かで、昏く澄んでいた。
「なあ、リア。俺は、決めたよ」
「……え?」
「最後の一匹まで、魔物を殺す。死んでいった仲間のために。そして、魔王をこの手で殺すために。そのためだけに、俺はここに残る」
業を煮やした魔王は、いつか必ず自ら現れる。
その時こそが、唯一の好機。
彼は、そう言った。
たった一人で、魔王を討つ。正気の沙汰ではない。けれど、止められないことも分かっていた。彼にはもう、その憎しみしか、残されていないのだから。
きっともう、私の声は届かない。
彼は、悲しみを憎しみに変えることで、辛うじて立っていた。
妻を失った痛みすらも、復讐の薪にして、自らの体ごと燃やし尽くそうとしていた。
**
季節が、いくつも巡った。
当然のように、援軍は来ず、兵は一人、また一人と倒れていった。ついに、砦に残ったのは私たち二人だけになった。
食糧はとうに尽きた。だから生きるために、私たちは魔物を食べた。最初はとても食べれたものではなかったけれど、人は工夫次第で、何でも喉を通す事ができるのだと知った。
ヴェイルは、戦い続けた。怒りも、恐怖も、悲しみすらも、抱えきれなくなった記憶は、私がその手から受け取り力に変えていった。
そして彼は、王都が既に落ちた事すら、忘れた。
絶望的な状況の中、彼はまだ守るべきものがあると信じ、ただ戦った。
けれど、彼の妻の記憶にだけは、決して手を伸ばさなかった。それすら忘れてしまったら、私は彼と向き合うことは、きっともう、出来ないだろうから。
彼の体は、人ならざる領域へと近づいていく。それに呼応するように、その瞳は、日に日に昏くなっていく。
私は、女神像にまだ祈っていた。
彼が死にませんように。
女神は、もう来ない。
私が本当に恐れていたのは、彼が、彼でなくなっていくこと。憎しみだけの何かに、変わっていってしまうことだった。
その祈りも虚しく——終わりは、唐突に訪れた。




