手紙
鳥のさえずりで、目が覚めた。しばらく、自分がどこにいるのか分からなかった。
見慣れた、木の天井。染みの浮いた壁。それなのに、目を開けてからしばらくは、体がここにあることを理解するのに、いつも、少しの間がかかる。まるで、自分の輪郭だけが、ふわふわと部屋に漂っているような感覚。今朝も、やはり同じだった。
起き上がり、狭い寝台を軋ませる。窓を開け放つと、ひんやりとした朝の空気が流れ込んできた。木々の間から、いくつかの粗末な屋根が見える。
小さな集落だった。生き延びた者たちが、身を寄せ合って暮らしている。
たった1年前。魔王軍によって、この国の都は完全に陥落し、滅びかけたらしい。らしい、としか言えないのは、それすらも、他人から聞かされた話でしかないからだ。俺には、この国で生きていた証も、何をしていたのかの記憶も、何ひとつ残ってはいなかった。
どうやら俺は、王都を守る東の砦で、兵士をしていた。魔王の亡骸が見つかったのも、その砦の中だという。俺は、その砦のただ一人の生還者だった。
何ひとつ覚えておらず、夢遊病のように砦の周囲を彷徨っていたところを、誰かがこの集落へ連れてきてくれた。皆はそんな俺を英雄と呼んだ。
人々は畑を耕し、井戸を掘り、少しずつ以前の暮らしを取り戻しつつある。この村にもようやく平穏と呼べるものが根付きはじめていた。
それなのに、俺だけがいつまで経っても、この土地に根を張れずにいる。
英雄と呼ばれても実感はない。畑仕事を手伝い、井戸端で言葉を交わし、この村の暮らしに溶け込もうと努めてはみた。それでも、ふとした瞬間、自分だけが少し離れた場所から、この光景を眺めているような気がする。地に足のついた感触が、いつまで経っても戻ってこない。
長老は、俺の記憶喪失を、極限状態での健忘だと言った。だが、失われたのは記憶だけではないのかもしれない。俺という人間の芯そのものが、どこかに——あの砦の中に、置き去りにされてしまったようだった。
だが、仕方のないことだ。そう、自分に言い聞かせて生きてきた。これからの日々を、新しく生きていくしかないのだと。そう、思っていた。
「おうい、ヴェイルさん」
玄関口から声がした。出てみると、長老が目を丸くして、突っ立っている。
「なあ、おい。これを見てくれ」
促されるまま、粗末な郵便受けを覗く。そこには、不釣り合いなほど分厚い便箋が、押し込まれるように入っていた。
「一体、誰がこんなもんを入れたんじゃろうな」
引っ張り出して検める。表にはただ一言、ヴェイルへ、とだけ記されていた。
「なんだか不気味じゃのう。呪具か何かじゃなかろうか」
長老の言葉は、ほとんど耳に入っていなかった。その文字を見た瞬間から、妙な胸騒ぎを覚えていた。
便箋を持って、家の中の、日当たりのいい場所に腰を下ろす。そして、ただ独り、封を切った。
「……うわっ」
中から、どっさりと手紙が溢れ出した。一枚一枚に、細かな字がびっしりと綴られている。
おそるおそる読み始めて、息を呑んだ。
「俺のこと……か」
そこに記されていたのは、俺の人生そのものだった。
幼い日の風景。両親のこと。馬上の騎士に憧れ、兵士を志した日のこと。訓練兵の頃、酒を酌み交わし夢を語り合った、大切な同志のこと。
砦での日々。巨大な盾を構える大男。乾パンを半分こにしてくれた兄弟。夜の見張りを代わってくれた、ぶっきらぼうな老兵。
そして、藍色の髪の、一人の女性。出征の朝、袖を掴んで離さなかった、その細い指のこと。必ず帰る、と交わした約束のこと。
——妻。
俺はその存在を、文字の上でしか知らなかった。だが、読み進めるほどに、疑いようもなくなっていく。
俺には、確かに、妻がいた。顔も、声も、思い出せない。それなのに、手紙の中の彼女は、確かに俺と、過去を生きていた。
そして手紙は、その先を綴る。王都が陥落したあの日、彼女もまた、その炎の中で命を落としたのだと。
文字を追うほどに、情景が、匂いや温度までもが、手に取るように胸へ流れ込んでくる。まるで、誰かがずっと俺のすぐ隣に立って、それを見つめていたかのように。
宙に浮いたような感覚が、少しずつ、地面に降りていく。ぼやけていた自分の形が、線を取り戻していく。
胸がいっぱいになって、どうしようもなかった。涙が零れ、紙の上に、いくつもの染みを作っていく。
存在すら忘れていた人たちのことを、俺は今、確かに悼んでいた。
俺は、これを探していたのか。
自分の悲しみの、置き場所を。
日が暮れるまで、俺は手紙を読み耽った。窓の外で、どこかの子どもたちの笑い声が響いていたが、それすら、遠い世界の音のようだった。
やがて手紙は、俺が砦でどんな戦いをし、どう生き延びてきたかを描いて、終わっていた。
最後まで読んでも、二つの謎だけが残った。
この語り部が誰なのか。
それは、一言も書かれていなかった。
そして、どうして俺が記憶を失い、魔王を屠るほどの強大な力を得たのか。その核心だけが、まるで誰かの手によって、そっと伏せられているようだった。
これほど俺を知り尽くしているのだから、よほど近しい誰かに違いない。なのに、その正体だけが、霧の向こうに隠れている。
俺は手紙を一枚ずつ、丁寧に便箋へ戻し、木箱の底にしまった。誰に見せるつもりもない。これは俺だけの、ようやく取り戻した、大切な記憶だから。
立ち上がると、ふと、足取りが、いつもより軽いことに気づいた。
これはもしや、神様からの贈り物なのかもしれない。天界からずっと俺を見守っていた神様が、記憶を失った俺を哀れに思って、書き送ってくれたのだ。そう考えれば、すべて、腑に落ちる。
窓辺に立ち、暮れなずむ空を見上げる。今朝までの、あの宙ぶらりんな感覚は、まだ、消えてはいない。
俺のこの物語を、いつか誰かに語り継ぐ日も、誰かに知ってもらうことも、きっと望めない。
それでも。
顔も名も知らぬ誰かが、俺の人生を、俺の生きた証を、忘れずにいてくれる。
それだけで、もう、十分だった。
おわり
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