7 美しきもの
その後に起きたことは、きっと、私の強欲が招いたものだった。
勝利の酔いは一夜限り出終わった。夜明けの襲撃で、魔物の反撃は、ヴェイルの力を上回った。それでも彼は孤軍奮闘し、辛うじてそれを追い払った。
血と汗の匂いが充満する、兵舎の奥。壁にもたれて座る彼を見つけて、私は息を呑んだ。全身に巻かれた包帯。赤黒い血の染み。そして、右の足首から下が、完全に失われていた。
「せっかく力をもらったのに、このザマだ」
力なく笑う彼に、胸が痛んだ。
「魔物は本気だ。次の襲撃で、確実にここを潰す気だ」
憔悴しきったその姿に、私は辛くなると同時に、どこかで安堵していた。これでもう、彼は戦わなくて済む。王都へ帰って、妻や家族と静かに暮らせばいい。
けれど、顔を上げた彼の瞳は、まだ濁ってはいなかった。
「もう一度、記憶を渡す。また、力をくれ」
異様な熱を帯びた声だった。
「……もう、いいじゃないですか。十分すぎるほど、頑張りました」
「俺がいなければ、ここはどうなる。俺しかいないだろう」
「酷なようですが、もう無理です。まだ動ける他の兵に力を渡します」
「だめだ」
「私が決めます。これは、私の力ですから」
「リア……頼む」
「……」
まっすぐに、私を見据える瞳。その奥に、何があるのか。何が彼を、ここまで突き動かしているのか。
私は……彼のことを、もっと知りたいと願ってしまった。だから、言われるがままにその手を取った。
後悔しても、もう遅かった。
**
絵画のように抽象的な世界。ただ一点だけが、痛いほど鮮明に飛び込んでくる。誰かの墓石。雨に打たれ、冷たく濡れた肌。海の底のような悲しみが、胸の奥に棲みついている。
大切な同志が、死んだ。同じ訓練兵だった人。酒を酌み交わし、夢を語り、時には喧嘩もして……それでも、互いを尊敬し合っていた。
そんな日々が、雪崩のように溢れ出してくる。同士は人々を守って、死んだ。皆を助ける兵になる。血が滲むほど握りしめた拳で、ヴェイルはそう誓った。
腑に落ちた。彼が、この記憶を手放してまで、戦い続けたかった理由が、痛いほどに伝わってくる。
だからもう、これで終わりだと思った。彼がこの記憶を捨ててまで得たいものが分かったと思った。
けれど、景色は歪み——また、別の風景が浮かび上がって、私は狼狽えた。
柔らかな陽の差す、街路樹の道。行き交う人々の中、前を歩く後ろ姿だけが、くっきりと映る。さらりと長い、藍色の髪が風に揺れている。
小走りに近づき、その肩にそっと手をかけると、女性がゆっくりと振り向いた。柔らかく微笑むその顔に、私の心が、幸せで満ちていって――
だめ。これ以上は、いけない。
この記憶は、この気持ちは、知ってはいけないものだ。
「やめて!」
自分の叫びが、遠くに聞こえた。手が離れ、視界が戻ってくる。淀んだ空気の兵舎。怪訝な視線。でも、そんなことは、どうでもよかった。
私は、呆けた顔の彼の肩を掴んで揺さぶった。
「ヴェイル! 今、何を渡そうとしていたの?」
彼は、力なく首を揺らすだけだった。
「あれ、奥様ですよね。どうして、奥様の記憶を渡そうと……!」
彼は答えない。記憶を失いすぎて、放心しているのかもしれない。周りの兵たちが集まってきて、私を、彼から引き剥がす。
「やめろ、何をしている」「怪我人だぞ」
胸を鷲掴みにされたような感覚が、まだ心臓を打ち鳴らしている。取り押さえられた私を見て、彼はぽつりと呟いた。
「何を……怒っている?」
誰のものとも知れない手を振り払い、外へと飛び出す。どこへ向かうのかも分からないまま、ただ走った。気づけば、建物の陰にうずくまり、声を殺して泣いていた。
これは罰なのだ。
彼の幸せな記憶を、奪いたいと願ってしまったことへの。
ほんの断片だけだったから、彼はまだ、妻のことを覚えているはずだ。それなのに私は、それだけで、打ちのめされていた。
彼が、こんなにも妻を愛しているなんて、想像もしていなかった。流れ込んできたあの想いは、蕩けてしまいそうなほど幸せで——
だからこそ、付け入る隙など、どこにもなかった。あんな世界に踏み込もうとするなんて。まるで、醜い悪魔のすることだ。
知らなかった……知りたくなかった。人を心から愛するという気持ちが、こんなにも綺麗で、儚くて、そして、残酷なものだったなんて。
たとえ記憶をすべて奪ったとしても、これ以上に綺麗なものを、私が彼に与えられるはずがない。女神の力をもってしても、決して手に入らないものに手を伸ばそうとしていたのだと、私はようやく気がついた。
次の襲撃は、奇跡の復活を遂げたヴェイルが魔物を一瞬で蹴散らしたから、犠牲者は出なかった。




