表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
記憶いただきます  作者: 猫屋敷浜辺
第二章 記憶を奪った女神
20/26

7 美しきもの

 その後に起きたことは、きっと、私の強欲が招いたものだった。


 勝利の酔いは一夜限り出終わった。夜明けの襲撃で、魔物の反撃は、ヴェイルの力を上回った。それでも彼は孤軍奮闘し、辛うじてそれを追い払った。


 血と汗の匂いが充満する、兵舎の奥。壁にもたれて座る彼を見つけて、私は息を呑んだ。全身に巻かれた包帯。赤黒い血の染み。そして、右の足首から下が、完全に失われていた。


「せっかく力をもらったのに、このザマだ」


 力なく笑う彼に、胸が痛んだ。


「魔物は本気だ。次の襲撃で、確実にここを潰す気だ」


 憔悴しきったその姿に、私は辛くなると同時に、どこかで安堵していた。これでもう、彼は戦わなくて済む。王都へ帰って、妻や家族と静かに暮らせばいい。


 けれど、顔を上げた彼の瞳は、まだ濁ってはいなかった。


「もう一度、記憶を渡す。また、力をくれ」


 異様な熱を帯びた声だった。


「……もう、いいじゃないですか。十分すぎるほど、頑張りました」

「俺がいなければ、ここはどうなる。俺しかいないだろう」

「酷なようですが、もう無理です。まだ動ける他の兵に力を渡します」

「だめだ」

「私が決めます。これは、私の力ですから」

「リア……頼む」

「……」 


 まっすぐに、私を見据える瞳。その奥に、何があるのか。何が彼を、ここまで突き動かしているのか。


 私は……彼のことを、もっと知りたいと願ってしまった。だから、言われるがままにその手を取った。

 後悔しても、もう遅かった。


**


 絵画のように抽象的な世界。ただ一点だけが、痛いほど鮮明に飛び込んでくる。誰かの墓石。雨に打たれ、冷たく濡れた肌。海の底のような悲しみが、胸の奥に棲みついている。


 大切な同志が、死んだ。同じ訓練兵だった人。酒を酌み交わし、夢を語り、時には喧嘩もして……それでも、互いを尊敬し合っていた。


 そんな日々が、雪崩のように溢れ出してくる。同士は人々を守って、死んだ。皆を助ける兵になる。血が滲むほど握りしめた拳で、ヴェイルはそう誓った。


 腑に落ちた。彼が、この記憶を手放してまで、戦い続けたかった理由が、痛いほどに伝わってくる。


 だからもう、これで終わりだと思った。彼がこの記憶を捨ててまで得たいものが分かったと思った。


 けれど、景色は歪み——また、別の風景が浮かび上がって、私は狼狽えた。


 柔らかな陽の差す、街路樹の道。行き交う人々の中、前を歩く後ろ姿だけが、くっきりと映る。さらりと長い、藍色の髪が風に揺れている。


 小走りに近づき、その肩にそっと手をかけると、女性がゆっくりと振り向いた。柔らかく微笑むその顔に、私の心が、幸せで満ちていって――


 だめ。これ以上は、いけない。

 この記憶は、この気持ちは、知ってはいけないものだ。


「やめて!」


 自分の叫びが、遠くに聞こえた。手が離れ、視界が戻ってくる。淀んだ空気の兵舎。怪訝な視線。でも、そんなことは、どうでもよかった。


 私は、呆けた顔の彼の肩を掴んで揺さぶった。


「ヴェイル! 今、何を渡そうとしていたの?」


 彼は、力なく首を揺らすだけだった。


「あれ、奥様ですよね。どうして、奥様の記憶を渡そうと……!」


 彼は答えない。記憶を失いすぎて、放心しているのかもしれない。周りの兵たちが集まってきて、私を、彼から引き剥がす。


「やめろ、何をしている」「怪我人だぞ」


 胸を鷲掴みにされたような感覚が、まだ心臓を打ち鳴らしている。取り押さえられた私を見て、彼はぽつりと呟いた。


「何を……怒っている?」


 誰のものとも知れない手を振り払い、外へと飛び出す。どこへ向かうのかも分からないまま、ただ走った。気づけば、建物の陰にうずくまり、声を殺して泣いていた。


 これは罰なのだ。

 彼の幸せな記憶を、奪いたいと願ってしまったことへの。


 ほんの断片だけだったから、彼はまだ、妻のことを覚えているはずだ。それなのに私は、それだけで、打ちのめされていた。


 彼が、こんなにも妻を愛しているなんて、想像もしていなかった。流れ込んできたあの想いは、蕩けてしまいそうなほど幸せで——


 だからこそ、付け入る隙など、どこにもなかった。あんな世界に踏み込もうとするなんて。まるで、醜い悪魔のすることだ。


 知らなかった……知りたくなかった。人を心から愛するという気持ちが、こんなにも綺麗で、儚くて、そして、残酷なものだったなんて。


 たとえ記憶をすべて奪ったとしても、これ以上に綺麗なものを、私が彼に与えられるはずがない。女神の力をもってしても、決して手に入らないものに手を伸ばそうとしていたのだと、私はようやく気がついた。


 次の襲撃は、奇跡の復活を遂げたヴェイルが魔物を一瞬で蹴散らしたから、犠牲者は出なかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ