5 月下の美酒
ぽかんとするヴェイルに、私は構わず、続けた。
「何でもいいので、記憶を思い浮かべてください」
「なんで、そんな……」
「いいから! そうすれば、魔物に打ち勝つ力を、差し上げられるんです」
剣幕に押されたのか、彼は頷き、目を閉じた。
「記憶って、何でもいいのか。昨日の晩飯とか、でも」
だめだ。思い入れが深い記憶ほど、加護も強くなる。
「小さい頃の、忘れられない思い出とか。そういうもの、ありませんか」
「……そうだな」
彼が唸ったのも束の間、私の頭の中に、何かが、奔流のように流れ込んできた。
絵の具を混ぜ合わせたような景色の中、一点だけが、鮮明に浮かび上がる。馬上の騎士が、道をゆっくりと進んでいく。それを路傍で見上げる、幼い日の……私。
胸に湧き上がる、憧れと希望。逸る気持ち。私も、なりたい。皆を守り、導く、強く格好いい存在に。
そうだ。だから、兵士になろうと決めたのだ。村を出て、王都で訓練兵になって、そして――
気づくと、私はぬかるんだ地面に立っていた。
砦の隊列の脇。ヴェイルと二人きり。心臓が激しく鳴り、息が上がっている。
「おい、大丈夫か。急に叫んで、手を離したから」
「覚えていませんか。今、思い浮かべていたこと」
「いや、なにも……」
「ヴェイルは、どうして兵士になったのか、覚えていますか」
「……いや。どうしてだろうか」
やはり。彼はもう、その記憶を失っていた。
今、私が見たものは、間違いなく彼の記憶だ。自分自身が体験したかのような手触りが、まだ、体の内側に残っている。
「何か、体に変わった感じは、ありますか」
「いや……特には」
その時、再び角笛が鳴った。雄叫びと、揺れる大地。
戦いが、始まる。
「リア、避難しろ。ここは、必ず守るから」
剣を抜き、戦場へと駆けていくその背中に、私は叫んだ。
「気をつけて!」
そして彼は、この日、戦争が始まって以来の大戦果を挙げたのだった。
**
その夜の砦は大騒ぎだった。地下に眠っていたワインが開け放たれ、兵たちは、勝利の美酒に酔いしれていた。
その赤い水を独占する権利を与えられたのは、ヴェイルだった。
波のように押し寄せる魔物を、彼はたった一人で、斬り伏せたのだという。戦死者の出なかった戦いは、久しぶりだと誰かが言っていた。
皆が彼と話したがり、その強さの秘密を知りたがっていた。私も話したかった。けれど、近づくことができない。仕方のないことだった。彼は、もう、英雄になってしまったのだから。
私は建物の陰に腰を下ろし、遠くからその騒ぎを眺めていた。自信と誇りに満ちた、彼の顔。無事に帰ってきてくれた。それだけで、心がほっと緩んでいく。
その時、ふと、遠くの彼と目が合った気がして、私は咄嗟に俯いた。ばれてしまった。この気持ちだけは、決して悟られてはいけないのに。
足元を見つめていると、誰かの影が、月を遮った。私は……心のどこかで期待していた。今、目の前に立っているのが、彼であることを。
「なあ、リア」
顔を上げる。酒に上気した顔。
肩で息をしながら、私を見つめる、翡翠色の瞳。
「少し、話せないか。二人だけで」
彼は、私の運命の人などではない。頭では、分かっていた。それなのに、この胸の高鳴りが収まってくれなかった。




