3 降臨
私の春は、瞬く間に、通り過ぎていった。
ヴェイルには、愛し合う人がいた。妻を王都に残し、たった一人、この戦地にいる。
こんなこと、冷静になれば分かるはずのことだった。私は、ただ一人で勝手に舞い上がっていただけ。それだけに過ぎなかった。
それでも、彼が命の恩人であることに変わりはない。だから、この気持ちに蓋をして、心の箱にそっと鍵をかけた。
せめて、彼の生還を祈ろう。いつか、愛する人と幸せに暮らせるように。
戦争が始まって、半年。砦は、これ以上ないほどの窮地に立たされていた。補給は完全に途絶え、兵は飢え、流行り病まで広がっていく。
それでもヴェイルは、国のため、仲間のため……そして妻のために、毎日戦い続けていた。
援軍は、もう来ない。逃げ出す者も多かったけれど、私には他に行く当てなど、どこにもなかった。
**
いったい何度目だろう。私はまた、女神像の前で祈っていた。願いは、いつも同じ。
――ヴェイルが、死にませんように。
目を開け、帰ろうと背を向け――ふと、立ち止まった。頭の隅に浮かんだ、ある思いつき。
私はもう一度、像に向き直り、そっと手を合わせた。
これは、ただのけじめだ。本気ではない。あり得ないことだから。過去の自分への、せめてもの餞別のようなものだ。そう、自分に言い聞かせながら、祈った。
――もしも、彼の心が、私に傾くことがあるならば。その時は、私は……
「また、辺鄙なところに出ちゃったわね」
澄んだ声が、静寂を切り裂いた。私は驚きのあまり、思いきり尻もちをついた。
そこに佇んでいたのは、光をまとった女性だった。絹のような髪、すらりと伸びた指先、この世のものとは思えない美しさ。それでいて、纏う気配はひどく厳かだった。
「ずっと、私のことを呼び続けていたのは、あなたかしら」
軽やかで、けれど、どこか透き通るような声だった。私は返事もできない。
「あ、あの……」
「そんなに驚かなくてもいいの。毎日、毎日、熱心に念を送ってきていたでしょう」
こくこくと、頷くしかなかった。
「それにしても、ずいぶんとひび割れた像ね。少し、直しましょうか」
彼女が、そっと指を振ると、像はたちまち、真新しく、白く輝いた。私は、言葉を失う。
「これで、少しは見られるようになったかしら……それで、あなたは?」
「あの……もしかして、女神……様、でしょうか」
「ええ、そうよ。あなたが、あまりに熱心に呼ぶものだから、様子を見に来たの」
彼女は、静かに顔を近づけてくる。
「あまり、休めていないようね。少し、疲れた顔をしているわ」
咄嗟に、髪を押さえた。水浴びすら、まともにできていない。
「忙しい中、わざわざ来てあげたのよ。あなたの願いを叶えにね。確か願いは、『もし、彼の気持ちが私に――』」
私は叫んで、慌ててその声をかき消した。
「どうしたの真っ青になって」
「そ、その願いは……違うんです! 本当の願いは、その前の――」
「前? ああ、『ヴェイルが死にませんように』というほう?」
ぶんぶんと頷く。
「まあ、どちらでもいいのだけれど……ヴェイルというのは、誰?」
「私の恩人で、今、この砦が魔物に襲われていて……」
「ストップ。説明はいいわ。今、この世界のことを、少し見せてもらいましょう」
彼女は、額にそっと指を添え、しばし目を伏せていたが、やがて小さくため息をついた。
「……この世界も、あと少しで滅びてしまいそうね。放っておくと、いつもこうなの……本当は、力を貸してあげたいのだけれど、あまり大きく手を貸すと、上の方々が、うるさくて」
「お、お願いします! このままでは、皆、死んでしまいます! どうか、助けてください!」
地面に額を擦りつけるほど、深く頭を下げた。
「そんなに、畏まらなくてもいいのよ。そう、あなたは毎日、健気に祈り続けてくれていたものね。一度だけ、力を分けてあげましょう」
彼女は、そっと指を立てた。
「何を……でしょうか」
「決まっているでしょう。授かりの儀よ」




