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記憶いただきます  作者: 猫屋敷浜辺
第二章 記憶を奪った女神
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3 降臨

 私の春は、瞬く間に、通り過ぎていった。


 ヴェイルには、愛し合う人がいた。妻を王都に残し、たった一人、この戦地にいる。


 こんなこと、冷静になれば分かるはずのことだった。私は、ただ一人で勝手に舞い上がっていただけ。それだけに過ぎなかった。


 それでも、彼が命の恩人であることに変わりはない。だから、この気持ちに蓋をして、心の箱にそっと鍵をかけた。

 せめて、彼の生還を祈ろう。いつか、愛する人と幸せに暮らせるように。


 戦争が始まって、半年。砦は、これ以上ないほどの窮地に立たされていた。補給は完全に途絶え、兵は飢え、流行り病まで広がっていく。

 それでもヴェイルは、国のため、仲間のため……そして妻のために、毎日戦い続けていた。


 援軍は、もう来ない。逃げ出す者も多かったけれど、私には他に行く当てなど、どこにもなかった。


**


 いったい何度目だろう。私はまた、女神像の前で祈っていた。願いは、いつも同じ。


 ――ヴェイルが、死にませんように。


 目を開け、帰ろうと背を向け――ふと、立ち止まった。頭の隅に浮かんだ、ある思いつき。

 私はもう一度、像に向き直り、そっと手を合わせた。


 これは、ただのけじめだ。本気ではない。あり得ないことだから。過去の自分への、せめてもの餞別のようなものだ。そう、自分に言い聞かせながら、祈った。


 ――もしも、彼の心が、私に傾くことがあるならば。その時は、私は……


「また、辺鄙なところに出ちゃったわね」


 澄んだ声が、静寂を切り裂いた。私は驚きのあまり、思いきり尻もちをついた。


 そこに佇んでいたのは、光をまとった女性だった。絹のような髪、すらりと伸びた指先、この世のものとは思えない美しさ。それでいて、纏う気配はひどく厳かだった。


「ずっと、私のことを呼び続けていたのは、あなたかしら」


 軽やかで、けれど、どこか透き通るような声だった。私は返事もできない。


「あ、あの……」

「そんなに驚かなくてもいいの。毎日、毎日、熱心に念を送ってきていたでしょう」


 こくこくと、頷くしかなかった。


「それにしても、ずいぶんとひび割れた像ね。少し、直しましょうか」


 彼女が、そっと指を振ると、像はたちまち、真新しく、白く輝いた。私は、言葉を失う。


「これで、少しは見られるようになったかしら……それで、あなたは?」

「あの……もしかして、女神……様、でしょうか」

「ええ、そうよ。あなたが、あまりに熱心に呼ぶものだから、様子を見に来たの」


 彼女は、静かに顔を近づけてくる。


「あまり、休めていないようね。少し、疲れた顔をしているわ」


 咄嗟に、髪を押さえた。水浴びすら、まともにできていない。


「忙しい中、わざわざ来てあげたのよ。あなたの願いを叶えにね。確か願いは、『もし、彼の気持ちが私に――』」


 私は叫んで、慌ててその声をかき消した。


「どうしたの真っ青になって」

「そ、その願いは……違うんです! 本当の願いは、その前の――」

「前? ああ、『ヴェイルが死にませんように』というほう?」


 ぶんぶんと頷く。


「まあ、どちらでもいいのだけれど……ヴェイルというのは、誰?」

「私の恩人で、今、この砦が魔物に襲われていて……」

「ストップ。説明はいいわ。今、この世界のことを、少し見せてもらいましょう」


 彼女は、額にそっと指を添え、しばし目を伏せていたが、やがて小さくため息をついた。


「……この世界も、あと少しで滅びてしまいそうね。放っておくと、いつもこうなの……本当は、力を貸してあげたいのだけれど、あまり大きく手を貸すと、上の方々が、うるさくて」

「お、お願いします! このままでは、皆、死んでしまいます! どうか、助けてください!」


 地面に額を擦りつけるほど、深く頭を下げた。


「そんなに、畏まらなくてもいいのよ。そう、あなたは毎日、健気に祈り続けてくれていたものね。一度だけ、力を分けてあげましょう」


 彼女は、そっと指を立てた。


「何を……でしょうか」

「決まっているでしょう。授かりの儀よ」

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