13 満たされた杯
「嫌だ」
俺は拒んだ。リアが求めたのは、これまでの彼女との記憶のすべて。俺の何より大切な、彼女と過ごした日々の記憶。
「もう、こうするより手はないのです、ヴェイル。その記憶をいただければ、魔王に抗うだけの力を、お与えできるかもしれません」
「嫌だ!」
彼女の手を振り払おうともがく。
だが、力が入らない。
「俺はもう、何ひとつ忘れたくない。お前のことを……お前へのこの気持ちを、なかったことになど、したくないんだ」
俺の言葉を、彼女は微笑んで聞いていた。だが、その青い瞳の奥には、哀しみが静かに揺蕩っている。それはきっと、俺には推し量ることすらできぬほどに、積み重ねられた記憶の地層。
「ありがとう、ヴェイル。あなたに、そう言っていただけて……私は本当に、嬉しかった。これだけは――これだけは、嘘ではありません。ですから、生きてください。生きて、魔王を、殺して」
リアは、血に濡れた俺の手の甲へ、そっと口づけた。
「さあ、思い出してください。あなたが私を想う、その気持ちを、私に教えて」
熱い涙が、こぼれ落ちるのが分かった。思い出すな。思い出したく、ない。
それなのに――俺の意に反して、リアと過ごした日々が、頭の中に浮かんでは、消えていく。
俺の想いを伝えた時に見せた、あの美しい顔。
怪我から目覚めた時の、少しやつれた顔。
酒に赤らんだ、月明かりに浮かぶ横顔。
飯を吹き出した時の、呆れ返った顔。
初めて彼女を見たときの、青い瞳。
その光景が、記憶が、少しずつ薄れていく。
すべて消える。もうすぐ、すべてを、忘れてしまう。
薄れゆく意識の中で、俺は、目の前のリアの顔を、瞼の裏に焼きつけようとした。
そして、誓った。
すべてを忘れても、またもう一度。
必ず、彼女のことを、愛してみせると。
**
「……え?」
思わず声が漏れた。
自分が今、どこに立っているのかすら、一瞬、分からなかったからだ。
「何だ……これは」
目の前に死体があった。月明かりに照らされているのは、巨大な体躯。骨の装飾を纏い、二本の角の生えた頭。額には、潰れた目玉が付いている。
おそらく魔物だろう。
やったのは、俺……なのか。
右手に握った剣には、紫色の血が、べったりとこびりついていた。
とにかく、何が起きたのかを把握せねばならない。確か俺は、魔物との戦争のために、東の砦に派兵されたはずだ。
その後は……駄目だ。
なにひとつ思い出せない。周りを見渡せば、ここが砦の中だということだけは分かった。よほど激しい戦いだったのか、建物のあちこちが崩れ落ちている。
俺はこれを生き延びたというのか。
体を検めても、傷ひとつ負ってはいない。
なぜ、何ひとつ思い出せないのだろう。
少し離れた場所に人影があった。その女は瓦礫の上に腰掛け、呆けたように空を見上げている。何か知っているかもしれない。そう思い、俺は声をかけた。
「おい、あんた……大丈夫か」
その女がゆっくりと、俺の方を振り向いた。薄汚れた服に、跳ねた長い髪。だが、微笑むその青い瞳だけは、ひどく綺麗で……なぜか、吸い込まれてしまいそうな心地がした。
彼女は、口を開き静かに言った。
「ありがとうございます、ヴェイル……私に、素晴らしい気持ちを教えてくれて」
何を言っているのか、まるで分からなかった。それに、どうして俺の名を知っている。だって俺は、この女のことなど、まったく覚えがない。
だのに……なぜだろう。俺の目から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それと同時に、何か大切なものの、最後のかけらが、一緒に流れ落ちていくような、そんな気がした。
その理由は、分からなかった。
胸を刺したその痛みは、一瞬で過ぎ去っていく。
俺は腕でそっと涙を拭い、彼女に問いかけた。
「お前は……誰だ」




