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記憶いただきます  作者: 猫屋敷浜辺
第一章 記憶を失った兵士
12/26

12 希望の星

 それから、どれほどの月日が流れたろうか。数えることすらやめて久しいある日、運命は唐突に俺の前へと現れた。


 何かが砕けるいやな音とともに、体が宙を舞う。空が視界を埋め尽くした。満月の夜だった。見惚れたのも束の間、すぐに背中から地に叩きつけられ、肺から空気が消し飛ぶ。


 剣を地に突き立て、震える足で立ち上がり、眼前の敵を睨めつける。人の形を模してはいるが、まったく別の何か。丈高く、全身に骨の装飾を纏った異形。二本の角が生えた額の中央では、すべてを見透かすような赤い目玉が、ぎょろりと動いていた。まるで、悪夢がそのまま姿を得たかのような存在。


 ——魔王。奴は、確かに自らをそう名乗った。ついに現れたのだ。自らの手で俺を仕留めるために。


「面白い奴だ。人でありながら、神性をも内に宿している。魔物どもが、お前一人に手も足も出なかったのも道理だな」


 心に直に響くようなその声は、怒りでも憎しみでもなく、ただ冷徹な観察者のそれだった。


「貴様が人である以上、残党どもの希望の星になりかねん。惜しむらくは、貴様が魔族ではなかったことだ」


 そう言うと、魔王はゆっくりと手を掲げた。その一挙動だけで、大気が裂け、空が割れた。


「一人で、よくぞここまで戦い抜いた。だが……もう、眠るがいい」


 振り下ろされた腕の先で、世界が爆ぜた。


 俺はなす術もなく吹き飛ばされた。あらゆる種類の衝撃が、全身を貫く。悲鳴すら上げられぬまま、気づけば、瓦礫の中に埋もれていた。


 ふと見れば、左腕が肘の先から千切れてなくなっている。折れ曲がった右腕を伸ばし、剣を拾おうとする。震える指先が、ようやく柄に触れた。


 動け。体が言うことを聞かない。再生が追いつかない。それでも、立たねばならない。


 立たねば、俺も、リアも、死ぬ。


 獣のような雄叫びを上げ、気力だけで体を引き起こす。剣が微かに光を帯びた。右腕だけでそれを振るうと、光る斬撃が魔王めがけて飛んでいく。


 ただの、目眩ましにしかならなかった。だが、それで十分だった。俺はその隙に走った。奴に背を向けて。


 勝てない。それが残酷な事実だった。

 俺は、力を振り絞って砦へと駆け戻った。

 彼女を探すために。


**


 崩れかけた兵舎のそばで、俺はリアの姿を見つけた。彼女は俺を見るなり、叫び声を上げて駆け寄ってくる。ここまで悲痛な顔をさせるとは、今の俺は、よほど酷い有様なのだろう。


「やはり、魔王ですか?」


 リアの問いに、俺は頷いた。


「情けないことに、まるで、勝てる気がしなかった」


 俺は剣を地に投げ捨て、血にまみれた右手を、彼女へ差し出す。もう、戦う気力など、どこにも残ってはいなかった。


「二人で逃げよう、リア。どこか遠くへ……お前と二人だけの場所へ」


 俺の胸にあったのは、ただ二人で生きていたいという、それだけの願いだった。だが、彼女は静かに首を横に振った。


「ヴェイル。この状況こそ、あなたが望んだことなのです」

「……何?」

「あなたが、この砦で魔物と戦い続けていた、本当の目的。それは魔王を、ここへおびき寄せることだったのです」


 俺は、言葉を失った。


「ここで戦い続け、魔物をすべて屠れば、いずれは魔王自らが出てくるほかなくなる。そう考えたあなたは、この国が滅んだという記憶を……真実を、私に奪うよう頼みました。そうすれば、きっと、ここで戦い続けられるから」


 俺は魔王を殺すために、記憶を失う未来の自分に、その願いを託した。そして今の俺は、その筋書きどおりに、魔物を殺し続けてきた。


「ですから、ヴェイル。逃げることはできません。もうどこにも、逃げ場などないのです。あなたも、本当は分かっているはず」

「だが、このままじゃ、二人とも――」

「いいえ……まだ、方法があります」


 そう言うと彼女は、俺の差し出したその手をそっと握った。


「あなたの記憶、私にください」

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