第11話 私の推しが尊いようです
「うわっ」
校舎の入口、ピカピカの大理石の廊下で一人の男子生徒が派手に転んだ。それは見事に尻もちをついて、大変痛そうである。普通に転んだって痛いのに、よりにもよって大理石である。クッション材もないのだから、ダイレクトに石である。強かに打ち付けたその男子生徒は、まゆ根を寄せて痛みに耐えているようだった。
(今更出会いイベント?夏休み明けにこんなイベントあったかしら?……ん?)
オープニングで起こるイベントであって、夏休み明けに起こるイベントではなかったはずである。なにしろ攻略対象者たちはとは全員出会っている。隠しキャラはアンジェリーナの推しであるクラウディオだけだ。
(え?待って)
アンジェリーナは転んだ男子生徒をじっくりと観察した。その時間は実は対した時間ではない。腐女子であるならじっくりと観察とはもはや秒である。一瞬の判断で行動に移さなくては、出遅れるのがオタクの道。
「お怪我はございませんか?」
アンジェリーナは、脊髄反射で春先と同じく膝をついて顔を下に向けてクラウディオの前に座した。
「不敬だぞ」
そう言い放ちつつも、しっかりとアンジェリーナの肩に手を置き、立ち上がる。前回とまったく同じ構図。だがしかし、一点、ただ一点が大きく違っていた。クラウディオは乙女ゲームに置いてショタ枠であったから、声は変声期前の少年らしくアルトの音域であった。だがしかし、今しがたアンジェリーナの頭上に降り注いできた声はどうだろうか?ほんの数か月前に聞いたまったく同じセリフとは思えないほどに、別人級に違っていた。いうならば、声優変えた?というレベルである。幼少期を女性の声優が担当し、青年期を男性の声優が担当したかのごとく、まるで違う。アンジェリーナの耳に届いたクラウディオの声は、バリトン。高すぎず低すぎない。なんとも耳に心地の良い魅惑のバリトンボイス。まさに隠れ攻略キャラにふさわしい声を聞いただけで妊娠しそうなやつである。
「申し訳ございません。平民ゆえの御無礼をお許しくださいませ」
アンジェリーナが一語一句同じ口上を述べると、やはり深いため息が聞こえてきた。
「許そう……またお前か」
アンジェリーナの視界に何やら白い物がちらついたので思わず顔をあげると、目の前には白いハンカチがあった。当然それを持っている手の主はクラウディオである。そして、アンジェリーナの目の前にある白いハンカチはアルテマに習った通りにレースで縁取られ、絹の布地には白い糸でアルディルモ侯爵家の家紋が刺繍されていた。
「使え」
そう言われたのでアンジェリーナはまたもや恭しく差し出されたハンカチを受け取った。これで二枚目。乙女ゲームであるならば、攻略が順調に進んでいる証のアイテムである。だがしかし、アンジェリーナは攻略対象者を攻略しないと決めている。まして、クラウディオは推しであり、隠し攻略キャラで難攻不落とまで言われていたのだ。そのクラウディオから二枚目のハンカチをもらってしまった。それはすなわち好感度が50パーセントを超えたということに他ならない。
「ありがとうございます」
心臓が飛び出しそうなほどドキドキしているアンジェリーナを、クラウディオが見つめていた。その視線はずいぶんと高い。出会った時と大違いで確実に頭一つ分は上にいた。
(いやいや、成長しすぎでしょう。思春期男子が夏休み明けに大化けするのはテンプレだけれども。異世界物でやることはないでしょう)
アンジェリーナは内心大パニックである。なにしろ乙女ゲームにおいて貴重なショタ枠であったクラウディオが、休み明けに大人の男に大変身していたのだ。これではまるで、詐欺にあった気分である。アンジェリーナの推しのクラウディオはショタ枠であって、こんなイケメン爽やか好青年ではないのである。だがしかし、生前アンジェリーナは散々妄想してきた。醜いアヒルの子が美しい白鳥になるがごとく、ショタっ子クラウディオがイケメン王子様になって白馬に乗って現れることを。もちろん、その手の作品は読んで読んで読みまくってきたアンジェリーナである。あれこれ妄想大爆発してきた前世である。だがしかし、妄想とは所詮想像なのである。
(前世の妄想族が追い付かないぐらいにイケメン。しかも想像の斜め上をいく耳が妊娠するレベルの美声)
決して聞こえてはいけないアンジェリーナの心の声であった。
「庶民。ついてこい」
絶賛妄想大爆発中のアンジェリーナの思考をぶった切るがごとく、クラウディオが言い放った。名前を教えたはずなのに、庶民呼びである。これはもう、御馳走様なのである。アンジェリーナはおかしな笑みを隠すために、今しがた受け取ったハンカチで口元を押さえるのであった。
(嗚呼、推しのにほひ)
決して聞こえてはいけない以下略。
そんなこんなでクラウディオに連れてこられたのは学校内にある厩舎の前だった。
「あの、クラウディオ様。こんなところに来て、授業に遅刻してしまいます」
控えめにアンジェリーナは抗議した。平民の生徒が授業に遅刻するなんて、絶対にしてはいけないことである。まして、サボるなんてあってはならないことである。
「庶民、何を言っている?」
いら立ちを押さえるようにクラウディオが口を開いた。
「ですから、こんなところに来てしまっては、授業に遅刻してしまいます」
もう一度、アンジェリーナがはっきりと申し伝えれば、今度こそクラウディオは深いため息をついたのだった。
「庶民、お前は時間割をまったく把握していないのだな。休み明けで寝ぼけているのではあるまいな」
そうはっきりとクラウディオに叱責されて、アンジェリーナはハタと気が付いた。夏休み明け、授業は乗馬が始まるのだ。貴族の生徒は自宅から愛馬を学校に持ち込んでいるのだが、平民の生徒が馬など持っているはずもなく、まして乗馬などしたこともないことから、攻略対象者からマンツーマンで乗馬を教わるというイベントが発生するのだ。この時までにハンカチを二枚受け取ったキャラがいなかった場合、自動的に担任のジャンパオロが相手となる。
(もしかしなくても?)
アンジェリーナはハタと気が付いた。攻略しないと決めて推し活をすると誓ったのに、なぜだかわからないが隠しキャラで最高難易度と言われていたクラウディオの攻略が進んでしまったらしい。アンジェリーナが攻略をしないと心に決めて、悪役令嬢アルテマと親密度を高めることがまさかクラウディオの攻略につながるだなんて、誰がしれただろう。将を射んとする者はまず馬を射よ。なんてことわざがあったけれど、まさか乙女ゲームの世界でそんな攻略法が存在するとは夢にも思わなかった。
ただ、アンジェリーナ的に想定外だったのは、ショタ枠だと信じ切っていたクラウディオが、攻略が進むと好青年になってしまったことだ。前世ショタっ子が大好物だったアンジェリーナにとっては誤算も誤算、大誤算である。
「乗馬の授業と言ったら馬が必要だろう」
「はい」
返事はしたものの、クラウディオが何をしようとしているのか全く分からないアンジェリーナは、落ち着きなく目だけで辺りを警戒した。
「庶民。お前の助言を取り入れ、日の出とともに起き、護衛騎士たちと共に運動をし、朝のうちに執務を行い、夜は早めに就寝することを心掛けた」
「素晴らしいと思います」
「うむ」
クラウディオは大変満足そうな顔で頷いた。
「護衛騎士たちと訓練を通して交流が図れた。朝の明るい時間に執務を行ったことで明かりの魔石を消費することがなくなり経費が抑えられた。執務内容も一晩寝かせたことにより、新しい考えが浮かぶようになった。領民のほとんどは農民であるため、朝早くから仕事をしている者が多い、おかげで現場を確認しやすかった。夜に早く就寝することにより、メイドたちが生き生きとし始めた。そして、ひと夏続けただけで、俺の懸念材料であった身体的短所が改善された。改めて礼を言おう庶民」
長々とした演説の?後、クラウディオはアンジェリーナの手を取った。
「お前は素晴らしい才能を持っている。母上もサンマリーノの社交にて、お前の評判を耳にしたそうだ」
そう言ってアンジェリーナの手を固く握りしめた。
「あら、困りますわ」
そこに割って入ってきたのは、誰あろうアルテマだった。
「ロドリゲス公爵令嬢、何用だろうか」
「あら、随分ないいようですわね。アルディルモ小侯爵」
アルテマのクラウディオに対する呼び方が変わっていた。
「アンジェリーナさんはわたくしのメイドでございましてよ」
「それは夏の間の試用期間の話だろう」
「次回もお願いするつもりでしてよ。わたくし、アンジェリーナさんのことを大変気に入りましてよ」
アルテマがそう言うと、クラウディオが軽く鼻を鳴らした。
「我が母もアンジェリーナを気に入っている。アンジェリーナの助言のおかげで俺がこのように成長できたからな」
クラウディオがどや顔でそんなことを言うものだから、アルテマはハンカチで口元を押さえつつクラウディオのことを頭から足元までじっくりと観察した。本来ならそんな不躾なことはしてはいけないのだけれど、アルテマもサンマリーノの社交で耳にした噂を目の前にして、抑えきれなかったのだろう。
「噂は耳にしておりましたけれど、まさかここまでとは思いもよりませんでしたわ」
アルテマはそんなことを口にしながらも、どこか愉悦感を滲み出していた。
「だからだな。我がアルディルモ侯爵家からの最大限の謝意を込めて、アンジェリーナに馬を貸し与えることにした」
クラウディオがそう言うのに合わせて、馬ていが一頭の馬を連れて現れた。
「この馬は我が母の愛馬だ。乗馬が好きだったのだが、近年はあまり乗ってやる機会がなく領地で放牧していたのだ。母が感謝の意を込めて、学校に在学中はアンジェリーナに特別に貸与する。とおっしゃられたのだ」
よどみなく説明をされたところで、アンジェリーナにはちんぷんかんぷんだった。表現が回りくどくて、理解力が追い付かない。
「え、ええと?」
アンジェリーナが困っていると、馬ていがすかさず口を開いた。
「ご安心ください。馬の世話は責任をもって私共が致しますので、お嬢さんは授業に専念してくださればよろしいのです」
それを聞いてアンジェリーナはほっと胸を撫でおろした。いくら平民でも、アンジェリーナには馬の世話なんかできるはずがない。まして、馬の世話にかかる費用や、学校への委託金なんて払えるはずがないのだ。
「わかったか、庶民」
「はい」
アンジェリーナは素早く返事をした。
「お前が学校を卒業するまで好きなだけ乗馬を楽しむといい。練習も好きな時に好きなだけすればいい。馬の管理については我がアルディルモ侯爵家がするから気にしなくていい。これは謝意だ」
「つ、謹んでお受けいたします」
アンジェリーナがそう返事をすれば、クラウディオは満足そうに頷いたのだった。
「それではアンジェリーナさん。授業のために着替えましょう」
アルテマが嬉しそうにアンジェリーナのことを更衣室に連れて行った。乙女ゲームの世界とは言えど、さすがに女子生徒が制服のスカートのまま乗馬する行為は許されないのである。
その後、アンジェリーナに乗馬を教えてくれたのはアルテマだった。理由は簡単で、未婚の女性とタンデムなんてはしたない。という理由だった。そう考えると、アンジェリーナが生前に見たイベントはとんでもないことのようである。




