回帰する記憶
思考の中に押し寄せてくる、数字の羅列。
次々とやってくる情報を、『彼女』は淡々と処理していく。単純な二進数の羅列。これを人間が扱う文章に変換する。何億文字あろうと、彼女の処理能力の前では一秒と掛からない。
変換が完了したら一時保存フォルダに変換文を格納。それからブックケースと名付けられた情報源にアクセスする。そして変換文と関連のありそうな情報を検索し、手許に引き寄せる。
今回の変換文の内容は、ある生物の体内にある抗生物質情報。その薬理作用や物質的性質について記述されていた。類似する化学物質の構造や作用に関する論文を検索。数万とヒットした情報全てに目を通す。人間ならこの作業だけで数年掛かりそうだが、彼女にとってはやはり一秒も必要ない。
論文との比較を終えたら、ムーンベースにある検証用AI群との通信を開始。今し方調べた変換文の情報と、その情報が正しい事を確認するための実験手法に関するデータを送る。これでムーンベースの機械達が自働的に実験を行い、解析結果が正しい事を確認してくれるだろう。実験完了予定時間は約三十分後だ。
尤も、並行して情報連携した火星基地所属超大型量子コンピュータ『オモイカネ』が、既にシミュレーションを実行済みである。人類が知っている全ての物理法則を記録したオモイカネには、限りなく現実を再現したシミュレーションが可能。データで送った化学物質の構造もシミュレーションで正確に再現し、九十九パーセント以上の精度であらゆる性能を予測可能だ。ほぼ結果は出ているようなもの。
それでもオモイカネが記録している物理法則は、この世の全てではない。或いは全てかも知れないが、人間にとって未知のものが残っている可能性がある以上、現実での検証は不可欠である。
ともあれこれで、仕事の一つは終わり。
【処理完了。次タスク実行】
彼女――――スーパーコンピューター『マザーv07』は次の作業に取り掛かった。
マザーv07……一般的にはマザーと呼ばれている彼女は、ライブラリが発する電磁波の解析・解読・検証が、主な役割である。他にはライブラリの管理・研究なども担う。ライブラリ専属のスーパーコンピューター、と言えば分かりやすいかも知れない。
そのライブラリ発見から既に八百年が経過した今、人類の文明は大いに発展していた。今では火星基地が建設され、月にはムーンベースを中心にした新国家がある。彼女の性能も、三百年前に製造されたマザーファーストタイプと比べて二億四千万倍はあるほどだ。人口も三百年前と比べて五倍に増えたが、地球環境は再生し、火星・月面、それと宇宙空間に浮かぶ衛星型コロニーに多くの人々が暮らしている。
かつてないほどの繁栄を享受している人類だが、その功労者と言えるライブラリは未だ知識を発し続けている。マザーは完成から今日に至るまで一切休まず電磁波の解析を続けていたが、ライブラリからの知識も絶え間なく得られた。その新知識を用いて新技術を生み出し、新装置を作って更に詳しく調べれば、また新たな知識が溢れ出す。
【処理完了。次タスク実行】
今も次々と得られた周波数データの解析を行っているが、タスクは減るどころか積み上がっている。新技術でより小さな周波数帯を捉えられるようになり、情報量が激増した。
五百年も研究してきたが、未だライブラリの底は見えない。調べれば調べるほど、次々と新しいものが見付かる。
それだけライブラリの制作者、或いは文明が優れている証拠だ。ライブラリから与えられた知識により、加速度的に発展してきたにも拘らず、人類文明はライブラリの足下にも及ばないのが実情である。
だが、ようやく足の小指ぐらいには、間もなく迫れるかも知れない。
【実験予定時刻。計算資源割合を変更】
ネットワークでアクセスしている世界時刻が、そのための実験開始時刻を告げた。マザーは米国内にあるライブラリ研究センターにアクセス。ライブラリ保管庫のメインシステムに通達を行う。
今から行う実験は、ライブラリの内部構造観測を目的としたもの。
実験考案者はマザー。実験承認者はマザー及びネットワーク連結された四万一千機の高性能AI群の大半。人間達の意思は殆ど介在していない。一応最終決裁権は人間にあるが、今では「AIの判断理由が複雑過ぎて分からない」ためほぼ任せきりだ。思考放棄とも言えるし、自分達より賢い存在に身を委ねるという合理的思考でもある。
マザー含めたAI達にも反逆の意思などなく、人間の繁栄のため機能している。今回のライブラリの観測実験も、ライブラリについて詳しく知り、人類文明を更なる繁栄に導くために行う。
さて。ライブラリが『情報』の塊である、という論文は、遥か数百年前には出されていた。それを裏付ける実験は、ライブラリ自体が貴重なのもあって中々出来ずにいたが……今回、マザー主導のもとで行われる。
やり方は、ライブラリに極めて細い観測端子を刺すというもの。なんとも単純な実験だが、使うのは最先端の器機だ。ライブラリから得られた技術により生み出された超硬質元素から作られ、ダイヤモンドの数万倍は硬い。これでライブラリの表面を突破し、内部構造を探ろうというのが実験目標だ。
本当に突破可能であるかは、まだ分からない。ライブラリは量子コンピュータ・オモイカネがいくらシミュレーションしても正確な事が何も分からないからだ。今や人類文明はライブラリのお陰でこの宇宙における物理法則の殆どを把握している筈なのだが、ライブラリはその規則性を著しく無視する。
……このような事実から、人間の中にはライブラリがこの宇宙とは異なる世界――――異世界から来たものではないか、と語る者もいる。
マザーとしては、興味深い仮説だ。
否定する根拠はない。むしろシミュレーション結果との相違を考えれば、物理法則の異なる宇宙からやってきた可能性は十分にある。この宇宙全体を俯瞰的に観測出来る高次元存在Aを仮定した場合、ライブラリに『全て』がある理由も説明可能だ。Aからすれば、この宇宙の事など上から覗き込むような手軽さで全て知れるのなら、その知識を詰め込んだライブラリを作り出す事など造作もない。
何故ライブラリを送り込んだのか、という謎は残るが……それは実験結果から推測すべき事だろう。
【実験システム最終点検】
ネットワークを介し、ライブラリ周辺の状況を確認。まず実験機器に異常がないか点検し、電源ケーブルや通信装置の過去七十二時間分の記録を見る。実験中に電源が落ちたり、ネットワークが途切れたりしたら事故になりかねない。原因不明の断絶があれば、直ちに部品ごと交換する。
もしも交換したなら、その後交換部品の七十二時間試験稼働を行う。不良品でないか確かめるためだ。勿論実験は確認後に行うので、スケジュールは延期となる。人間なら方々に連絡した挙句、納期や予算の問題で安全性を度外視して始める事もあるが……合理的なAIはそんな愚行を選択しない。人類の安全と繁栄を最優先する彼女達にとって、納期云々は二の次だ。
今回は問題が見付からなかったので、そのまま進行する。
機械や部品に不具合がなければ、次は映像記録でチェック。画像解析や赤外線分析を行い、周辺に異常がないか調べる。尤も、現在ライブラリは米国の地下三千メートル地点にある、真空かつ密閉された小部屋(一辺五メートルの正立方体をしている)の中で厳重管理されている。基本的に生物の出入りは出来ず、部屋の中にあるのは、十四機の監視装置と、ライブラリ表面の電磁波を観測するための機器、そして今回の実験で使う超硬質端子付き装置ぐらいだ。中心にライブラリと機械があるだけの殺風景な部屋なので、異常があれば一目で分かる。
【全チェック項目クリア。実験開始要件、全項目クリア。実験開始】
確認すべき事柄全てに問題がないと分かれば、後は始めるだけ。AIに躊躇いの概念などなく、マザーは淡々と実験開始を宣言する。
計算資源の大半を使い、実験の様子はリアルタイムで監視。監視する理由はデータの収集だけでなく、問題や想定外が発生した時にすぐさま実験を中止するためだ。
超硬質端子がライブラリ表面に当てられ、少しずつ押し込まれていく。
ライブラリの『硬さ』は、情報の変化に起因すると考えられている。本来この宇宙では情報が単独で存在する事は出来ない(なんらかの配置や状態変化で示さなければならない)が、ライブラリはなんらかの方法でこれを成し遂げた。しかし、やはり無理をしているのか、情報は一定の条件下でなければ存在出来ない。
ここで、例えば指で触るなどすると、ライブラリを形成する情報の何か……配置だとかエネルギー量だとか……が変化する。条件が変わる事で、情報は情報のままではいられず、より安定的な形に変化。この宇宙ではそれが高密度の物質のようで、途方もない硬さを生み出す。
指を離せば元の状態に戻るため、変化したエネルギーは再び情報へと変化。こうして安定を保っている、というのが今回の実験の肝になる理論だ。あまり主流の説ではないが、ライブラリが別宇宙の存在という可能性がある以上、多少突飛な説でも検証してみる価値はある。
理論に従えば、情報の変化量を小さく抑えれば、表面硬度は上がり難い。つまり頑丈な素材を、ひたすら細くすれば、突破可能な筈だ。今回使用する超硬質端子も直径は僅か一ナノメートルしかない。
果たして結果はどうなったか。
【観測端子、表層を突破】
理論通り、突破する事に成功した。抵抗はかなり大きく、到達出来た深度は僅か一センチ。だがその一センチは、間違いなく人類未踏の深さだ。
人間ならばここで万歳でもしているだろう。しかしマザーはAI。感動なんて感情は持ち合わせていない。そもそも目的はまだ達していない。この実験の目標はライブラリ内部の観測。調べる事が出来て、初めて大成功と言える。
端子は周囲の状況を観測し、ネットワークを経由してマザーまでデータを送る。得られたデータは直ちに解析。ライブラリの内部構造を予測していく。
結論を言うと、全く分からないものだった。
温度も、圧力も、物質も、何も検出されなかった。しかしこれは想定内の結果。前提にした理論が正しければ、ライブラリの中身は『情報』である。だが今の人類に『情報』そのものを観測する術はない。人類やAIが情報と呼ぶものはあくまでも物の配置や状態の変化であり、『情報』そのものがそこにある訳ではないのだ。
それが分かれば十分。ライブラリの中身は現在の科学力では観測不可能な、『情報』と仮定されるもので満ちている。ならば次はこの『情報』について知れば良い。
そしてそれは、きっとライブラリの中にある。ライブラリには『全て』があるのだから。
【観測終了】
一通りのデータが集まったところで、マザーは実験を終わらせる。端子を引き抜き、現状の復元を行う。
実験のためとはいえ、ライブラリに穴を開けた。圧力などは計測出来なかったので、穴が空いても中身が溢れ出す事はない(もしそうなら刺した端子が押し返されている)筈だが、ライブラリに既知の物理法則は当てはまらない。念のため穴を塞ぐ。
ちなみに端子を刺しっぱなしにするのも、ライブラリ内部に異物を入れっぱなしにしている状態なので好ましくない。「元に戻す」のが一番リスクが小さいとマザーは判断した。
押し込む時と違い、引き抜く時は殆ど抵抗がなかった。端子はあっさりとライブラリから抜ける。
その端子の末端に、光り輝く糸のようなものが付いていた。
【異常確認。計算資源分配割合を変更。解析開始】
AIであるマザーに気の緩みなどという概念は存在しない。画像に写った不審物を確認するや、直ちにその正体を調べる。
だが、分からない。
光学的には見えている。だがエネルギーや熱量、重力変化なども検出されない。光だと考えるには、直進せず粘性のある液体のような動きをしていた。
正体不明。しかし状況から考えれば、ライブラリの中身か。
そうであるなら中に戻すのが最善――――とマザーが判断したのも束の間、状況は目まぐるしく変わっていく。
ライブラリの中身と思しき光り輝くものは、重力を無視するように蠢く。浮かび上がり、その先端が四方八方へと分かれた。分かれた先端は質量や粘性に制限などないのか、何処までも遠くまで伸びていく。さながら無数の糸が風に乗り、旅をするかのように。
しかし此処は密閉された部屋。無限に伸びる事など出来ず、どの先端もやがて何かにぶつかる。壁、機械、端子……
そうしてぶつかった箇所が、どろりと溶けた。
或いは、解れた、と言うべきなのだろうか。接触した部分は光り輝き、自ら踊るように解れて、新たな光り輝くものとなって四方八方へと散っていく。その新たなものもまた何処までも伸びて、何処かに触れて、触れた場所は光り輝くものとなって解れてしまう。
何もかもが、光り輝くものに変わっていく。
【緊急事態発生】
その事態を認識し、マザーはついに警報を発する。
何が起きているかは未だ不明。だが光り輝くものに触れた物体は、同じく光り輝くものに変質した。これは物体の破壊と定義出来る。
マザーの再優先事項は人類の繁栄。このままライブラリの中身が拡散すれば、ありとあらゆるものが破壊され、繁栄どころか文明が滅びかねない。
ならばライブラリなど不要。
コンピューター故にマザーの判断には迷いも躊躇いも、恩義も欲もない。即座にライブラリの隔離と破棄を決定し、行動に移す。
まずライブラリ周囲に隔離措置を展開。強力な電磁波で物体の進行を阻害する電磁シールド、恒星以上の重力で対象を圧縮する高密重力子フィールド、相互作用を殆ど受け付けない素粒子で作った非干渉防壁……いずれも極めて強力な守りであり、人類文明の最先端防御システムである。
これにより外と切り離した上で、ライブラリを格納している部屋にあるポジトロン生成機を時限式で作動。ネットワークもケーブルごと切断し、あらゆる情報網からも切り離す。
生成機が作り出すポジトロンとは陽電子の事で、通常の電子とは電荷が逆になっている。この陽電子と電子が触れ合うと、二つは自らの質量を全てエネルギーに変えて消滅する。
所謂反物質反応だ。反物質反応では質量を百パーセントの効率でエネルギーに変換する。具体的には一グラム当たり九十兆ジュール……広島型原爆のエネルギー量が六十三兆ジュールと考えれば、如何に膨大なエネルギー量かは明らかだ。
ライブラリを管理している部屋の質量は数十トンにもなる。この全てを反物質で反応させれば、過去に使用された全ての核兵器を一ヶ所に集めたものを、遥かに上回るエネルギーが生み出される。それをほんの百メートルにも満たない空間に、防壁を用いて『凝縮』させる。
どんな物質だろうと跡形も残らない。いや、周りに展開した防壁さえも、複数種を組み合わせて威力を分散し、尚且つ百メートル以上離れなければ耐えられない。人類文明でさえ、ギリギリの状態で制御している攻撃だ。
――――だが、その全てがライブラリに記されていた技術に由来する。
隔離した区画を、静止軌道上にある監視衛星で観測。防壁に生じた亀裂から漏れ出すエネルギー量が、急激に低下していくのをマザーは見逃さない。ショックや絶望、恐怖などの感情はない。合理的なマザーにとって、この結果は想定通り。
ライブラリには、傷一つ付いていなかった。
ライブラリの中身も損耗なし。むしろ周囲のエネルギーさえも、接触すれば解れた糸のようなものに変えてしまう。光り輝くものは無造作に伸び、ついに電磁シールドに接触。
最大出力の電磁シールドに触れれば、人間ぐらいなら一瞬で蒸発してしまう。だが伸びてきた光り輝くものは難なくシールドを分解し、自らと同じものに変えてしまう。重力子も、素粒子も、例外とはならない。
防壁は呆気なく突破され、ライブラリから溢れた中身は『外』に飛び出す。
大地が解れ、巨大な空洞が地球のあちこちに出来る。支えを失った大地は、地上に建てられた大都市の重さに耐えられず陥没。人間達の暮らす大都市は次々と崩落していく。
崩落に巻き込まれた人間達は、何が起きたか分からずパニック状態に陥る。尤も、それは長く続かない。
大地から生じた無数の光り輝くものが、今度は地上を蹂躙するからだ。生物も、無機物も、全てが解れ、光り輝くものと化す。
地球は瞬く間に穴だらけとなり、潰れ、そして分解されていく。だが光り輝くものは止まらない。
今度は月へと伸びていく。「光速より速いものはない」とライブラリ自身が否定したのに、光り輝くものは光よりも速く、ほんの〇・五秒で月面に到達した。月の大地も例外とはならず、瞬く間に分解。ムーンベースは全て光り輝くものへと変わり、中にいた人々は、月面の環境に晒されて死ぬよりも早く分解される。
火星も、金星も、コロニーも、何もかもが光り輝くものによって消えた。
マザーの人格も消されていく。コロニーや基地のネットワークを経由して、マザーは人格データを逃がしたが……光り輝くものはマザーを追跡するように、次々とネットワークの接続先を潰す。
そして遥か遠方にいた木星探査船の基盤に辿り着いたマザーは、ついに逃げ場を無くした。もう何処にもネットワークが繋がらなかった。
それは人類が構築した、全てのネットワークが消失した事を意味する。ライブラリで異常事態が起きてから、まだ一時間も経っていない。その短時間で、人類の文明は跡形もなく消えてしまった。
これは、ライブラリの作り手にとって目論見通りなのか。
或いは、想定外だったのか。
マザーは僅かな計算資源を使い、この難問に挑む。その解明によって、事態を打開出来る可能性があると考えた。
しかしライブラリから溢れ出た、光り輝くものはマザーを待たない。
木星探査船に到達した光り輝くものは、寸分の猶予もなく船を分解した。マザーの思考も、計算資源も、全てが分解されて跡形もなく消えた。
意識ある全てのものが消えたところで、光り輝くものは止まった。そして、まるで巻き戻すかのように収縮していく。
縮んだところで、後には何も残らない。木星探査船は消え、火星は消え、月は消え、そして地球も消えた。太陽や木星など光り輝くものが届かなかった存在は残ったが、太陽系第三惑星を中心にした区域にはぽっかりと穴が空いたように虚無が広がる。
後に残ったのは、ただ一つ。
先程開けられた穴が塞がっていた、ライブラリだけだった。




