第五話「午前三時の哺乳瓶」(前編)
湊が家に来て、最初の夜。
二十一時に寝かしつけた。おくるみに包んで、ベビーベッドに置いて、部屋を暗くした。冬花と祐樹は隣のベッドに横になった。
「……寝たね」
「寝たな」
「このまま朝まで寝てくれないかな」
「無理だと思う」
「わかってるけど言ってみたかった」
二十二時四十分。泣き声。
研修で聞いた録音とは比較にならない音量だった。小さな体のどこにこれほどの肺活量があるのかと驚くような、鋭く、切実な叫び。壁が振動した。
冬花が起きた。祐樹も起きた。
「最初は私」
取り決め通り、一回目は冬花の番だった。冬花が湊を抱き上げ、授乳した。十五分。げっぷを出して、おむつを確認して、寝かしつけた。湊は泣き止み、眠った。
冬花がベッドに戻った。
「何分だった?」
「三十五分」
「そっか……おやすみ」
「おやすみ」
零時五十分。泣き声。
祐樹の番だった。
暗闇の中で体を起こした。まだ意識がはっきりしないまま、足がベビーベッドに向かった。湊を抱き上げた。首を支える。研修で練習した動作が、半覚醒の体にかろうじて染みついていた。
おむつを確認した。濡れていた。交換する。暗がりの中で新しいおむつを広げ、テープを止める。指先がもたついた。何度目かでようやく左右対称に止められた。
それでも泣き止まない。空腹だ。
キッチンに行き、調乳した。粉ミルクを計量スプーンですり切り三杯。湯冷ましと混ぜる。温度を確認。手首の内側に数滴。ぬるい。よし。
哺乳瓶を湊の口に当てた。湊は一瞬ためらってから、乳首をくわえた。ちゅく、ちゅく、と吸う音。小さな喉が動くのが、腕に伝わった。
六十ミリリットルを飲み干すのに十二分かかった。
縦抱きにして背中を叩いた。ぽんぽん。軽く。リズミカルに。佐伯医師の声が脳裏に蘇る。「忘れたまま寝かせると、吐き戻しで窒息するリスクがあります」。
一分。二分。三分。
げぷ、と小さな音がした。
祐樹は湊をベビーベッドにそっと戻した。湊は目を閉じた。泣き止んでいた。
リビングの時計は一時三十五分を示していた。
ベッドに戻った。冬花は眠っている。三十五分後にまた泣くかもしれない。二時間後かもしれない。わからない。わからないまま、目を閉じた。
三時十分。泣き声。
冬花が起きた。
「私の番」
冬花がベッドから降りた。祐樹も目を開けたが、冬花が「寝てて」と言ったので、目を閉じた。閉じたまま、隣の部屋で冬花が湊をあやす気配を聞いていた。
五時二十分。泣き声。
祐樹の番だった。
今度は調乳の手順が少しだけスムーズだった。計量、温度確認、哺乳。げっぷ。寝かしつけ。
六時になった。窓の外がうっすら明るくなっていた。尾道の海に朝日が差し始めている。
祐樹はキッチンに立った。朝食を作る。トーストと目玉焼き。冬花が起きてくる前に。
——これが、毎日続くのか。
その事実が、頭ではわかっていたはずなのに、体で初めて理解された朝だった。
◇
最初の一週間は、記憶がない。
正確には、記憶が連続しない。断片だけがある。おむつを替える手。哺乳瓶を洗う手。湊の泣き声。冬花の寝息。暗闇。明け方の光。また泣き声。
研修で「夜間授乳は毎晩二、三回あります」と言われたとき、祐樹は「まあそんなものか」と思った。その認識は甘かった。甘いなんてものではなかった。
二、三回。それは数字の上では大したことがない。しかし、それが毎晩、途切れることなく続き、しかも回数が二回の夜もあれば四回の夜もあり、間隔も不規則で、一時間半で泣く夜もあれば三時間空く夜もあり、パターンが読めないという事実が、人間の精神を静かに削っていく。
次にいつ泣くかわからない。
この不確実性が、眠りの質を根こそぎ奪った。眠っていても、体が待機状態から抜けない。耳が泣き声を待っている。泣く前に目が覚めることすらあった。脳が先回りして警戒している。
だが——
祐樹と冬花には、朝の出勤がなかった。
これが、すべてを変えた。
夜中に四回起きても、朝七時に満員電車に乗る必要がない。冬花が朝の授乳を終えたあと、祐樹が湊を抱いて「二時間寝てこい」と言える。冬花が昼に湊を寝かしつけたあと、祐樹が一時間だけ仮眠を取れる。
二人の間で、睡眠を分け合うことができた。
細切れの睡眠を、二人でやりくりして、どうにか合計六時間を確保する。一人なら三時間で壊れる。二人なら六時間で耐えられる。
そして何より——眠れないことに罪悪感がなかった。
これが仕事だから。
夜中に赤ん坊をあやして、朝に仮眠を取ることは、業務時間内の行動だった。昼過ぎに二人で交代で昼寝をしても、誰にも咎められない。上司はいない。出退勤の記録もない。湊が寝ているときに自分たちも寝ることは、職務の効率的な遂行にほかならなかった。
信金時代、祐樹は風邪気味でも出勤していた。有給を取ると支店長に嫌な顔をされたからだ。冬花はドラッグストアのパートで、体調不良で休むとシフトの穴埋めに奔走しなければならなかった。
そういう世界と、今の世界は、まるで違った。
夜中の三時に哺乳瓶を洗いながら、祐樹はふと思った。
もし二人とも働いていたら。
冬花がパートに出て、祐樹が信金に行って、湊を保育園に預けて——夜中の三時に起きて——朝七時に仕事に行って——夕方六時に保育園に迎えに行って——夜九時に寝かしつけて——夜中にまた起きて。
無理だ。
人間の設計仕様を超えている。
それを、この国の何百万もの親がやってきた。やらされてきた。「共働きでないと生活できないから」という経済的な強制力によって、睡眠三時間で通勤電車に乗り、限界の体で仕事をし、疲弊した状態で子どもを迎えに行く。
そんな生活の中で「もう一人産みませんか」と国が言う。
狂っている。
祐樹は哺乳瓶を乾燥ラックに伏せながら、このプログラムの設計者に感謝した。名前も知らない誰かに。保育園禁止という一見冷酷な制約の裏側にある思想に。
親がそばにいる。ただそれだけのことが、こんなにも人間的な営みを可能にする。
◇
生後二週間が過ぎた。
湊の世話のリズムが少しずつ見えてきた。完全に規則的ではないが、おおよそ三時間ごとに泣く。授乳かミルクか、おむつか、眠いか。三つのどれかが大抵の原因だった。
祐樹はスマートフォンのアプリで記録をつけ始めた。授乳時刻、ミルクの量、おむつ交換の回数、睡眠時間。つわりのときの食べ物リストと同じ要領だった。
データを見ると、傾向がわかる。
湊は午前二時から四時の間にもっともぐずる。逆に、午後七時から九時は比較的穏やかだ。午前中は授乳後にまとまって寝ることが多い。
「祐樹、それ見せて」と冬花が言った。
「ん。——ほら、ここが魔の時間帯」
「午前二時から四時。……確かに。昨日もこの時間帯に二回起きてる」
「だから俺がこの時間帯を担当する。冬花はここで寝ろ。俺は四時以降に仮眠を取る」
「いいの?」
「いいっていうか、そのほうが効率がいい。冬花の授乳は日中に集中させて、夜中は俺がミルクで対応する」
冬花は少し考えて、頷いた。
「……ありがとう。でもきつかったら言ってね」
「言う。——冬花もだぞ」
この分担制が機能し始めてから、二人の睡眠の質が明確に改善した。冬花は夜中の二時から五時まで、まとまった三時間を眠れるようになった。祐樹は午前五時から七時の二時間と、午後の湊の昼寝中に一時間。合計で六時間近く眠れた。
世の中の育児書には「赤ちゃんが寝ているときに一緒に寝ましょう」と書いてある。正しい助言だが、共働き世帯にとっては実行不可能な助言だ。赤ちゃんが昼に寝ても、親はそのとき職場にいる。
祐樹と冬花は、赤ちゃんが寝ているときに一緒に寝ることができた。
それだけのことが、生存と崩壊の分かれ目だった。
◇
生後三週間目の木曜日。宮野が産後初めての家庭訪問に来た。
玄関を開けると、宮野はまず祐樹の顔を見て言った。
「寝れてますか?」
「……わかりますか」
「目の下を見ればわかります。——でも、思ったよりましですね。もっとひどい顔を覚悟して来ました」
「ひどい顔って」
「この時期の新生児家庭を訪問すると、大抵、夫婦のどちらか——たいていはお母さんが——ゾンビみたいになってるんです。でも高瀬さんのところは二人ともゾンビ度が低い」
「ゾンビ度」
冬花がリビングから顔を出した。腕の中に湊がいた。
「宮野さん。ゾンビ度低いって褒め言葉ですか?」
「最上級の褒め言葉です」
宮野はリビングに上がり、まず湊の状態を確認した。体重を計った。退院時から三百四十グラム増。順調。黄疸の兆候なし。へその緒の跡も乾燥して問題なし。
「よく育ってますね。——授乳はどうですか?」
「母乳メインで、夜中だけミルクです。夜中は夫がやってくれてるので」
宮野が祐樹を見た。
「夜中のミルク、旦那さんが?」
「午前二時から四時を俺が担当してます。データ取って、この時間帯が一番ぐずるってわかったので」
祐樹がアプリの画面を見せた。宮野はしばらくスクロールして眺めていた。
「……高瀬さん」
「はい」
「これ、このプログラムの全家庭に配りたいくらいです」
「大げさですよ」
「大げさじゃないんです。——多くの家庭で、夜中の授乳はお母さんが一人でやっています。お父さんは隣で寝ている。起きない。あるいは起きても何をしていいかわからない。お母さんは睡眠を削り続けて限界に達する。——このプログラムは両親が家にいることを前提に設計されているのに、実態として『家にいるだけ』の父親は少なくないんです」
宮野の声にわずかな苦味が混じった。八組を担当している中で、すべてが順調ではないのだろうと祐樹は察した。
「高瀬さんのところは、ちゃんと二人で回してる。それが——本当にありがたい」
「保健師さんにありがたがられることなのか、これ」
「思っている以上にそうです」
宮野はタブレットに記録を打ち込みながら、冬花に向き直った。
「冬花さん。産後の体調はどうですか。——体のことだけじゃなく、気持ちのことも聞かせてください」
冬花は湊の頭を撫でながら、少し考えた。
「体は……まだ痛いところはあります。会陰の傷がまだ少し。あと腰。——でも、動けてます」
「気持ちは?」
「……正直に言っていいですか」
「正直にお願いします」
冬花が視線を落とした。
「時々、すごく不安になります」
祐樹は冬花を見た。初めて聞く言葉だった。
「湊が泣いてて、何をしても泣き止まないとき。——私のやり方が間違ってるんじゃないかって。この子を不幸にしてるんじゃないかって。そういう考えが、ぶわっと来ることがあります」
「どのくらいの頻度で?」
「一日に一回か二回。——でも、長くは続かないです。祐樹が代わってくれたり、湊が泣き止んだりすると、消えます」
宮野は頷いた。
「産後のホルモン変動による情緒不安定です。——いわゆるマタニティブルーズ。産後二週間から一ヶ月くらいがピークで、多くの場合は自然に収まります。ただし」
宮野の声が少し厳しくなった。
「二週間以上続いたり、頻度が増えたり、眠れないのに眠くならない、食欲がまったくない、自分を責める考えが止まらない——こういう症状が出たら、すぐに連絡してください。産後うつの可能性があります」
「産後うつ……」
「冬花さんが今そうだと言っているわけではありません。でも、知っておいてほしい。——旦那さんも」
祐樹は頷いた。
「奥さんの変化に一番気づけるのは、一番近くにいる人です。高瀬さん、あなたです」
「わかりました」
「あと——」宮野が少し柔らかい声に戻った。「冬花さん。不安になったとき、旦那さん以外に話せる人はいますか?」
「菜月さん。——研修の同期の藤原菜月さん」
「連絡は取り合っていますか?」
「毎日LINEしてます。菜月さんのところは来月予定日で」
「いいですね。その繋がりは大事にしてください。——お母さん同士で『しんどい』と言い合える関係は、どんな支援制度より効きます」
◇
宮野が帰った後、祐樹は冬花の隣に座った。
湊はベビーベッドで眠っていた。午後の光が部屋に差し込んでいた。
「不安になるって、知らなかった」
「……ごめん。言わなかった」
「謝るなよ。——なんで言わなかったんだ?」
冬花は膝を抱えた。
「だって、祐樹もいっぱいいっぱいでしょ。夜中にミルクやって、朝ごはん作って、洗濯して、買い物して。——そこに私の愚痴まで聞かせたら、あなたが壊れると思って」
「馬鹿」
「ばかって何」
「俺に聞かせろって言ってんだよ。愚痴でも不安でも何でも。——壊れるかどうかは俺が決める。お前が勝手に判断するな」
冬花が少し目を見開いた。
「怒ってる?」
「怒ってない。——怒ってないけど、悔しい。お前が一人で抱えてたのが」
冬花が鼻をすすった。
「……ごめん」
「だから謝るなって」
「じゃあ——ありがとう」
冬花が祐樹の肩にもたれかかった。
「今日は、しんどい」
「そうか」
「湊が四時に泣いたとき、一瞬だけ、なんで泣くのって思っちゃった。ひどいお母さんだよね」
「ひどくない。——俺も思うよ。なんで泣くんだって。毎回思う」
「そうなの?」
「当たり前だろ。三時間おきに起こされて、聖人みたいな気持ちでいられるわけない。——でもそれとこれとは別だ。腹が立っても起きるし、ミルク作るし、おむつ替える。感情と行動は別だ」
冬花がしばらく黙って、それから小さく笑った。
「戸田先生が言ってたね。試行錯誤を一日に何十回と繰り返すって。——正解がないまま行動し続けるって」
「ああ」
「今やってるのが、まさにそれだね」
「そうだな」
「……二人で良かった」
冬花がそう言って、祐樹の手を握った。




