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産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


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第四話「湊」(後編)


 分娩室は陣痛室の隣だった。


 移動の距離は十メートルほどだったが、冬花にとっては果てしなく長かった。陣痛の波と波の間に、祐樹と山根に支えられて歩いた。


 分娩台に上がった。脚を開いて固定された。天井の無影灯が白い。医師が入ってきた。かかりつけの産婦人科医、四十代の男性。落ち着いた声で言った。


「高瀬さん、もうすぐですよ。赤ちゃんも頑張ってます」


 祐樹は冬花の頭の横に立った。ここが自分の場所だ。冬花の手を握り、顔を見る。それだけが自分の仕事。


 ——平気な顔をしていてください。内心はどうでもいいので。


 宮野の言葉を思い出して、祐樹は唇を引き結んだ。怖かった。冬花の顔が蒼白で、汗で前髪が貼りついていて、目は充血していた。こんな冬花を見たことがなかった。


 だが、平気な顔をした。


「冬花。大丈夫。お前は大丈夫だ」


 冬花が祐樹を見た。目が合った。恐怖と痛みと、それでも消えない何かが、その目にあった。信頼、だろうか。


「子宮口全開です。——いきんでください」


 医師の声。


 冬花が歯を食いしばった。山根助産師が「はい、いきんで。そう、そのまま——」と声を張った。


 冬花が叫んだ。


 祐樹は手を握り返した。全力で。骨が折れてもいいと思った。


「頭が見えてます。もう一回」


 冬花がもう一度いきんだ。喉が裂けるような声だった。祐樹の視界がぼやけた。泣いていた。平気な顔をしていろと言われたのに、泣いていた。


「はい、出ますよ——」


 ずるり、と。


 それは異様な感覚だった。


 分娩台の向こうで、何かが生まれ出る気配。医師の手が動き、山根の手が動き、その間から——


 声が聞こえた。


 小さく、しかし力強い。


 この世に初めて放たれる音。


 産声。


 それは泣き声だった。不満そうな、怒ったような、しかしどこまでも生きることに必死な声。肺に初めて空気を入れた人間の、最初の抗議。


「——おめでとうございます。男の子ですよ」


 医師の声が、遠くから聞こえた。


 祐樹は目の前が真っ白だった。涙で何も見えなかった。手だけが、冬花の手を握り続けていた。


「——冬花」


「聞こえた」


 冬花も泣いていた。汗と涙でぐしゃぐしゃの顔で、それでも笑っていた。


「聞こえたよ。泣いてる。——湊が泣いてる」


 山根が処置を終えた赤ん坊を冬花の胸の上に載せた。カンガルーケア。肌と肌を合わせる。生まれたばかりの、しわくちゃで、赤くて、小さくて、信じられないほど温かい生き物が、冬花の胸の上で泣いていた。


 冬花が震える手で赤ん坊の背中に触れた。


「湊。——やっと会えた」


 赤ん坊の泣き声が、少しだけ小さくなった。母親の声を聞いたのか、心音を聞いたのか。それは誰にもわからない。ただ、冬花の胸の上で、湊は泣きやまないまでも、少しだけ落ち着いた。


 祐樹は冬花の隣にかがみこんで、初めて我が子の顔を見た。


 小さかった。


 目は閉じていた。拳を握って、口を開けて、全身で泣いていた。皮膚は赤くて、産毛が生えていて、頭の形はいびつだった。


 それが、世界で一番美しいものだった。


「……湊」


 祐樹の声はほとんど声にならなかった。喉が詰まって、音が形を失った。


 指先で、湊の握った拳に触れた。拳は祐樹の小指の先ほどしかなかった。触れた瞬間、湊の指がわずかに開き、祐樹の指先を握った。把握反射。新生児が生まれながらに持つ原始反射。研修で習った。


 知識としては知っていた。


 だが、我が子の指が自分の指を握る感触は、知識の外にあった。


 どんな教科書にも研修にもエコーにも書かれていない、この圧倒的な実感。


 小さな指が、祐樹の指にしがみついている。


 生きている。


 ここにいる。


「——よく来たな」


 祐樹は言った。


「待ってたよ、湊」


 分娩室の時計は午後一時二十分を指していた。


 陣痛開始から約十二時間。令和十年四月十一日。高瀬湊、誕生。体重三千百二十グラム。身長四十九・五センチ。


 尾道の春の、よく晴れた日だった。



 冬花が分娩後の処置を受けている間、祐樹は廊下のベンチに座った。


 手が震えていた。


 スマートフォンを取り出した。宮野に報告しなければ。和真にも。研修の同期にも。冬花の両親にも、自分の両親にも。


 だが、しばらく指が動かなかった。何を書けばいいのかわからなかった。


 「生まれました」——それだけのメールに、この十二時間のすべてを込められるはずがなかった。冬花の叫び、産声、胸の上に載せられた赤い命、指先にしがみついた小さな拳。それを一言で伝えることは不可能だった。


 でも、それだけしか出てこなかった。


 宮野にメッセージを送った。


『生まれました。男の子。湊です。3120g。母子ともに元気です』


 宮野からの返信は速かった。


『おめでとうございます!! お父さんもお疲れ様でした。——今夜はゆっくり休んでください。明日以降のことは、追って連絡します。今は、湊くんと奥さんのそばにいてあげてください』


 和真に送った。


『生まれた。男の子。湊。元気です』


 和真からの返信。


『!!!!!おめでとう!!!!!高瀬先輩!!!!!やばい泣きそう!!!!菜月も泣いてる!!!!!!写真!!!写真ください!!!!!!!』


 感嘆符の数に、和真の人柄が出ていた。


 両家の両親に電話した。冬花の母は電話口で泣いた。祐樹の父は「そうか」とだけ言って、しばらく黙った。その沈黙の中に、言葉にならない何かがあった。


 電話を切って、祐樹はベンチに背中を預けた。


 廊下の窓から、尾道の海が見えた。四月の午後の光を受けて、海面が金色に輝いていた。フェリーが向島に向かっていた。


 ——俺は今日、父親になったのか。


 実感はまだ追いつかない。ただ、指先に残る湊の握力の感触が、じんじんと消えずにあった。



 入院は五日間だった。


 冬花は産後の回復が順調で、湊の体調にも問題はなかった。初日の夜、新生児室から湊が冬花の病室に連れてこられた。


 初めての授乳だった。


 冬花が湊を胸に抱き、乳首を含ませた。湊は最初、吸い方がわからずに口をぱくぱくさせていた。助産師が冬花の乳房の角度を調整し、湊の頭の位置を直した。数分後、湊がようやく乳首をくわえた。


 ちゅ、ちゅ、と小さな音が病室に響いた。


 冬花が息を飲んだ。


「——吸ってる」


「飲んでるよ」と祐樹が言った。


「飲んでる。……すごい。教えてないのに」


「本能だな」


「本能ってすごい」


 冬花は湊の顔を見つめた。目を閉じて、頬をふくらませて、一心不乱に乳を吸う小さな生き物。その必死さに、冬花の目からまた涙がこぼれた。


「なんで泣くの」と祐樹が聞いた。


「わかんない。——ただ、この子が生きてるのが嬉しくて」



 入院中、祐樹は毎日面会に来た。病院の規則で面会は午後二時から七時までだったが、祐樹は二時きっかりに来て、七時ぎりぎりまでいた。


 冬花が昼寝をしている間、祐樹は湊を抱いた。研修で何度も練習した抱き方。首を支え、後頭部を手のひらで包む。三キロの人形で練習したときより、本物はずっと軽く感じた。そしてずっと温かかった。


 湊は大抵寝ていた。新生児は一日の大半を眠って過ごす。だが時折、うっすらと目を開けることがあった。焦点の合わない瞳が、祐樹のほうを向いた——ような気がした。新生児の視力は三十センチ先がぼんやり見える程度。抱いている人の顔がちょうどその距離にある。


「見えてるか?」


 湊はまばたきもせずに祐樹を見ていた。


「俺だよ。父さんだ」


 返事はない。当たり前だ。しかし祐樹は話しかけることをやめなかった。研修で戸田が言っていた。「赤ちゃんに話しかけてください。返事はなくても、声は届いています。言語の発達は、生後すぐから始まっています」


 湊は祐樹の声を聞きながら、またゆっくりと目を閉じた。



 四月十六日。退院の日。


 冬花が着替えを済ませ、湊をおくるみに包んだ。病院のスタッフが玄関まで見送ってくれた。山根助産師が最後に言った。


「湊くん、いいお名前ですね。——何かあったら、いつでも来てください」


「ありがとうございました」


 冬花が深く頭を下げた。祐樹も頭を下げた。


 軽自動車にチャイルドシートを取り付けてあった。湊を慎重にシートに乗せ、ベルトを締めた。小さすぎてベルトが余った。新生児用のクッションで隙間を埋めた。


 冬花が助手席に座った。祐樹が運転席に座った。バックミラーに、後部座席のチャイルドシートが映った。おくるみの中で、湊が眠っていた。


「——帰ろうか」


「うん。帰ろう」


 車が動き出した。尾道の海沿いの国道を、祐樹は今までの人生で一番慎重に運転した。制限速度の十キロ下。段差があるたびに減速。カーブではブレーキを早めに踏んだ。後ろの車がじれったそうにしていたが、知ったことではなかった。


「飛ばさないね」と冬花が笑った。


「当たり前だろ。大事な荷物乗せてんだから」


「荷物って言わないで」


「大事な国家公務員の業務成果物」


「もっとひどい」


 二人で笑った。


 アパートに着いた。


 祐樹が湊を抱いて階段を上った。冬花が鍵を開けた。玄関を入ると、五日前に出たときと同じ部屋がそこにあった。ただ一つ違うのは、リビングの隅にベビーベッドがあること。出産前に組み立てておいたものだ。


 湊をベビーベッドにそっと寝かせた。眠ったままだった。


 冬花がベッドの柵に手をかけて、湊を見下ろした。


「……いるね」


「いるな」


「この部屋に、三人いる」


「ああ」


 冬花が祐樹を見た。


「——始まるね」


 祐樹は頷いた。


「始まる」


 窓の外で、尾道水道をフェリーが渡っていた。汽笛が遠くで鳴った。四月の午後の光が、ベビーベッドの上に柔らかく落ちていた。


 湊が小さく身じろぎした。拳を口元に持っていき、ちゅぱちゅぱと吸った。


 何も起きていないのに、それだけのことが、世界の全部のように見えた。


 高瀬家の「仕事」が——本当の意味で始まった。


第四話 了

第五話「午前三時の哺乳瓶」に続く

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