第四話「湊」(前編)
年が明けた。
令和十年。一月の尾道は底冷えがした。瀬戸内は温暖だと言われるが、海からの風が坂道を吹き上げるとき、空気は刃物のように鋭くなる。
冬花の腹は目に見えて大きくなっていた。二十四週。妊娠七ヶ月。もう隠しようがない。近所のスーパーに行くと、顔見知りのレジのおばさんが「あらあ、もうすぐねえ」と目を細めた。冬花は「四月の予定です」と答えて微笑んだ。
胎動が始まったのは、二十週を過ぎた頃だった。
最初に気づいたのは冬花だった。夜、布団の中で「あ」と声を上げた。
「動いた」
「え?」
「今、動いた。——ここ」
冬花が祐樹の手を自分の腹に導いた。祐樹は息を詰めて待った。何も感じなかった。
「……わかんない」
「もう止まっちゃった。——でも確かに動いた。ぽこって。泡がはじけるみたいに」
それから数日、祐樹は手のひらを冬花の腹に当てて待つのが寝る前の日課になった。三日目の夜、ようやくそれを感じた。
こつん。
小さな、しかし明確な衝撃。皮膚の内側から、何かが押し返してくる感触。
「——いる」
祐樹の声が掠れた。
「いるでしょ」と冬花が笑った。
「いる。本当にいる」
エコーで見た。心拍を確認した。性別も知った。名前もつけた。それでも、手のひらに伝わるこの一撃は、それらすべてとは別の次元の実感だった。
ここに、人がいる。
冬花の体の中で、拳を握り、足を蹴り、生きている人がいる。
「湊」と祐樹は呟いた。
返事のように、もう一度、こつん。
◇
二月。二十八週。妊娠後期に入った。
冬花の体は日に日に重くなった。腰痛が出始め、夜中にこむら返りで目が覚めるようになった。トイレが近くなり、一晩に三回は起きた。
祐樹は夜中に冬花がベッドから出る気配を感じるたびに目を開けた。
「大丈夫か」
「トイレ。——寝てていいよ」
「いい。起きてる」
冬花がトイレから戻るまで、祐樹はベッドの上で体を起こして待った。冬花が布団に潜り込むと、祐樹が掛け布団を直して、腰のあたりにクッションを差し入れた。研修で宮野に教わった。妊婦は横向きに寝るとき、膝の間と腰の下にクッションを挟むと楽になる。
「……祐樹、毎晩付き合ってたら寝不足になるよ」
「生まれたらもっと寝れなくなるんだろ。予行演習だ」
「予行演習って。こんな地味な予行演習ある?」
「国家公務員の訓練だと思え」
冬花が鼻で笑った。
二月の家庭訪問で、宮野が出産準備のチェックリストを持ってきた。
「そろそろ入院の荷物をまとめておきましょう。——ここにリストがあります。母子手帳、保険証、診察券、パジャマ二組、産褥ショーツ、授乳ブラ、タオル、洗面用具、退院時の赤ちゃんの肌着とおくるみ——」
冬花がリストを見ながらメモを取った。祐樹はその横で、自分用のメモを作った。冬花の陣痛が始まったらどう動くか。病院までの車のルート。夜間の場合の道順。連絡先の優先順位。
「高瀬さん」と宮野が言った。「旦那さんのほう」
「はい」
「立ち会い出産のご希望は?」
祐樹は冬花を見た。冬花は祐樹を見た。
「する」と二人が同時に言って、少し笑った。
「即答ですね」と宮野も笑った。「では、立ち会いの際の注意点をお伝えしておきます。——お産は、長くなることがあります。初産は特に。十時間、二十時間かかることも珍しくありません」
「二十時間」
「その間、奥さんは痛みと戦い続けます。旦那さんにできることは限られています。腰をさすること。水を飲ませること。声をかけること。——正直に言って、無力感を感じると思います。でも、いてください。それだけでいいので」
つわりのときと同じだ、と祐樹は思った。隣にいること。それしかできない。それだけが自分の仕事。
「はい」
「あと——これは余計なお世話かもしれませんが」宮野がわずかに声を落とした。「分娩室で奥さんが叫んでも、取り乱さないでください。旦那さんが動揺すると、奥さんはもっと不安になります。——平気な顔をしていてください。内心はどうでもいいので、顔だけは」
「平気な顔」
「演技で構いません」
祐樹は頷いた。
◇
三月。桜のつぼみが膨らみ始めた。
冬花の腹はもう限界まで膨らんでいた。三十六週。臨月に入った。赤ん坊の頭が骨盤に下がり始め、冬花は歩くたびに股関節が軋むと言った。
「……ペンギンみたいな歩き方になってる」
「かわいいけどな」
「かわいくないよ。重いだけ。——早く出てきてほしい」
冬花がお腹をさすりながら言った。本音半分、冗談半分の口調だったが、声には疲れがにじんでいた。
夜中のトイレは四回に増えた。腰痛はさらに悪化し、長時間座っていることも立っていることもつらくなった。横になるのが一番楽だが、横になると胎動で眠れないこともあった。
「湊、夜中にサッカーの練習してるのかな」
「もうちょっと静かにしてほしい。お母さん寝たいの」
冬花がお腹に話しかけた。返事のように、ぽこん、と力強いキックが返ってきた。
「——聞いてない」
「元気な証拠だ」
「元気すぎる」
三月の後半、尾道の桜が咲き始めた。千光寺公園の桜は瀬戸内海を背景にして咲くので、全国から花見客が来る。だが、冬花にはもう坂を上る体力がなかった。
「今年はいいよ。来年、湊と一緒に見に行こう」
「……ごめんね」
「謝ることじゃない。来年のほうが楽しいだろ。三人で見る桜のほうが」
冬花はぐずりそうな顔をした。ホルモンバランスの影響で、感情の起伏が大きくなっている時期だった。些細なことで涙がこぼれる。カレンダーに書いた予定日——四月十五日——を見るたびに、期待と恐怖が交互に押し寄せると冬花は言った。
「怖い?」と祐樹は聞いた。
「怖い」
「何が?」
「全部。——痛いのも怖いし、ちゃんと産めるかも怖いし、産んだ後にちゃんと育てられるかも怖い」
「研修受けたし、宮野さんもいるし、俺もいる」
「わかってる。わかってるけど——理屈じゃないの。体が怖がってるの」
祐樹は冬花を抱きしめようとしたが、お腹が大きすぎてうまく腕が回らなかった。仕方なく、横から肩を抱いた。
「俺も怖いよ」
「……え?」
「宮野さんに『平気な顔してろ』って言われたけど。正直、めちゃくちゃ怖い。お前が痛がってるのに何もできないのが怖い」
冬花がわずかに体を預けてきた。
「——一緒に怖がってくれるのが、一番安心する」
「何だそれ」
「何だろうね。でも本当」
三月二十九日。予定日まであと十七日。
冬花は前駆陣痛を感じ始めた。不規則な張りが時々来て、しばらくすると消える。まだ本番ではない。体が練習しているのだと産婦人科の医師は説明した。
祐樹は入院バッグを玄関に置いた。車の鍵をリビングのテーブルの上に出しっぱなしにした。いつでも出られるように。夜中でも。
◇
四月十一日。午前二時。
冬花の声で、祐樹は目を覚ました。
「——祐樹」
暗闇の中で、冬花の手が祐樹の腕を掴んでいた。爪が食い込むほどの力だった。
「来た」
「陣痛?」
「うん。——さっきから十五分間隔」
祐樹は一瞬で覚醒した。スマートフォンを手に取り、時刻を確認した。二時七分。
「いつから?」
「一時半くらい。最初は前駆かと思ったけど——規則的。ずっと同じ間隔で来てる」
祐樹は陣痛の間隔を計測するアプリを起動した。研修で教わったやつだ。使う日が来るとは——来るに決まっている。それが仕事だ。
「次の痛みが来たら教えて」
「——来た」
冬花が歯を食いしばった。祐樹がアプリのボタンを押した。二時七分三十二秒。持続時間を計る。冬花が息を吐いた。
「終わった」
四十五秒。間隔十五分、持続四十五秒。
産婦人科で言われた指示を思い出す。初産は陣痛の間隔が十分になったら連絡。五分になったら来院。
「まだ十五分だ。もう少し家で様子見よう。——水飲むか?」
「飲む」
祐樹がコップに水を注いで渡した。冬花は一口飲んで、枕に頭を戻した。額にうっすらと汗が浮いていた。
それから二時間、祐樹はアプリと冬花を交互に見つめ続けた。
十五分が十二分になり、十分になった。痛みのたびに冬花の顔が歪み、声が漏れるようになった。
午前四時十五分。間隔十分。
「電話する」
祐樹は産婦人科の夜間連絡先に電話した。助産師が出た。状況を伝えると、「今から来てください」と言われた。
「冬花、行くぞ」
「うん」
冬花が立ち上がった。腰に手を当てて、ゆっくり。祐樹は玄関の入院バッグを肩にかけ、もう片方の手で冬花の腕を支えた。
四月の夜明け前。空はまだ暗かった。アパートの階段を一段ずつ下りた。冬花が途中で立ち止まり、手すりを握りしめた。
「——来た」
「ここで?」
「大丈夫。……過ぎた。行ける」
軽自動車に乗り込んだ。シートベルトが腹に当たるので、冬花は少しずらして締めた。祐樹はエンジンをかけて、坂道を下った。
尾道の街は眠っていた。信号は点滅に切り替わっていた。海沿いの国道には車がほとんどいなかった。対岸の向島に灯台の光が回っていた。
十五分で産婦人科に着いた。
◇
夜間入口から入ると、助産師が待っていた。四十代のベテランで、名前は山根と名乗った。冬花を分娩室の手前の陣痛室に入れ、内診した。
「子宮口、三センチ。まだまだですね。——時間かかりますよ。初産ですから」
「どのくらいかかりますか」
「わかりません。六時間かもしれないし、十二時間かもしれない。赤ちゃんのペースに合わせます」
冬花が陣痛室のベッドに横たわった。間隔は八分に縮まっていた。痛みが来るたびに、冬花は目を固く閉じて、シーツを握った。
祐樹は椅子を引いてベッドの横に座った。冬花の手を握った。
「いる?」
「いる」
「……痛い?」
「まだ序の口って言われたから、これが痛いとか言ったら笑われる」
「笑わないよ。痛いものは痛い」
「——痛い」
冬花が小さく笑って、すぐに顔をしかめた。次の波が来た。祐樹はアプリのボタンを押した。七分三十秒。
それから、時間の感覚が溶けた。
◇
午前七時。子宮口五センチ。
午前九時。子宮口六センチ。
冬花の声が変わった。うめき声が低く長くなり、痛みの波が来るたびに体が強張った。祐樹は腰をさすった。テニスボールを仙骨のあたりに押し当てる。研修で教わった。
「もっと強く」
「こう?」
「もっと。——そう、そこ」
冬花の額に汗が流れた。タオルで拭いた。水を飲ませた。ストロー付きのペットボトル。冬花は目を閉じたまま吸った。
山根助産師が定期的に様子を見に来た。冬花の顔を見て、背中をさすり、「上手ですよ、上手」と声をかけた。祐樹にも「お父さんも上手。腰の押し方、完璧ですよ」と言った。
午前十一時。子宮口八センチ。
冬花の声が叫びに変わった。
「——っ、あ——ッ」
低い、内臓の底から絞り出すような声。祐樹の手を掴む力が尋常ではなかった。指の骨が軋んだ。痛かったが、そんなことはどうでもよかった。
「ふーっ、ふーっ。——息吐いて。吸って。ゆっくり」
祐樹が声をかけた。呼吸法。研修で何度も練習した。吸って、吐いて。四秒吸って、八秒吐く。
「できな——」冬花が首を振った。「無理。痛くて。息なんか」
「できる。俺と一緒に。ふーっ」
「——ふ、ぅ——っ」
冬花が祐樹の声に合わせて息を吐いた。波が過ぎた。束の間の凪。冬花がぐったりとベッドに沈んだ。
「次の波まで休めるだけ休んで」
「祐樹……」
「ん」
「やっぱり、怖い」
「知ってる。俺もまだ怖い」
「でも……いてくれるから」
「いる。どこにも行かない」
山根助産師が戻ってきた。内診して頷いた。
「八センチ。もうすぐ全開です。——分娩室に移りましょう」




