第三話「つわりと担当保健師」(後編)
十一月の半ば、宮野の二回目の家庭訪問があった。
前回とは打って変わって、冬花は玄関で宮野を迎えた。
「宮野さん、お茶飲みます? ほうじ茶しかないですけど」
「いただきます。——元気になりましたね。顔色が全然違う」
「おかげさまで。白米復活しました」
「よかった。体重は?」
「妊娠前に戻りました。むしろちょっと増えた」
「順調です。——旦那さんは?」
祐樹がキッチンからほうじ茶を持ってきた。
「体重は減りました。俺のほうが」
「え?」
「つわりの時期、冬花の食事に合わせてたら、俺も白米食べなくなって。——二キロ落ちました」
宮野が噴き出した。
「共倒れしないでくださいね」
「いやもう大丈夫です。今朝、丼飯食いましたから」
宮野はほうじ茶を受け取り、リビングのテーブルに着いた。タブレットを開いて経過を記録しながら、今後のスケジュールを説明した。
「十六週で性別がわかる可能性があります。知りたいですか?」
冬花と祐樹は顔を見合わせた。
「知りたいです」と冬花が言った。
「名前、もう決めてあるんです」と祐樹が言った。
「あら。男の子? 女の子?」
「男の子——の予定です。湊って」
「湊。いい名前ですね。尾道らしい」
「でしょう?」と冬花が嬉しそうに言った。「もし女の子だったら考え直さないとだけど」
「女の子の候補は?」
「まだないんです」
「ゆっくり考えてください。——あと、安定期に入ったので、適度な運動は大丈夫です。散歩はおすすめします。この街は坂が多いので、足腰のいいトレーニングになりますよ」
冬花が目を輝かせた。つわりの間、ほとんど外に出られなかった。千光寺の坂道も、海沿いの散歩道も、二ヶ月近くご無沙汰だった。
「散歩、行こう」
「行くか」
「今日?」
「今日。——宮野さんが帰った後で」
宮野が微笑んだ。
「私のことは気にせず行ってきてください。もう用事は済みましたから。——次は十二月の中旬に伺います。何かあったらいつでも電話を」
宮野は靴を履きながら、ふと振り返った。
「高瀬さん」
「はい」
「いいご夫婦ですね」
それだけ言って、宮野は階段を下りていった。
◇
その日の午後、二人は千光寺への坂道を上った。
冬花の足取りは二ヶ月前より慎重だった。まだ目立たないが、下腹部がわずかにふくらみ始めていた。祐樹は冬花のペースに合わせてゆっくり歩いた。
石段の途中に猫がいた。茶トラの雄猫で、尾道では有名な地域猫だった。冬花がしゃがんで手を差し出すと、猫は警戒もせずに頭を擦りつけてきた。
「この子、前もここにいたよね」
「坂の主だな」
「湊が生まれたら、この猫と友達になれるかな」
「どうだろう」
「尾道の子は、猫と仲良くなる運命だと思うんだよね」
千光寺の展望台に着いた。瀬戸内海が秋の光を受けて銀色に輝いていた。向島のドックでは大型船が建造中で、赤い船体が夕日に映えていた。
冬花がフェンスに手をかけて、深呼吸した。
「——ああ、海の匂い」
「つわりのとき、これだけは大丈夫だったな」
「うん。潮風だけが味方だった。——ねえ、祐樹」
「ん」
「湊にも、この景色見せたいね」
「見せるよ。毎日でも」
「毎日は大変だよ、この坂」
「じゃあ週末ごとに」
「それくらいがいいね」
冬花がお腹に手を当てた。まだ胎動はない。感じるのはもう少し先だと医師に言われている。でも冬花は時々こうしてお腹に手を当てる。そこに誰かがいることを確認するように。
「帰りにスーパー寄っていい?」と冬花が言った。
「何買うの」
「りんご。——あと、久しぶりにカレー作りたい」
「カレー。×××だったやつ」
「もう大丈夫だと思う。食べたい」
祐樹はスマートフォンのメモを開いた。「カレー——×××(匂いだけで嘔吐)」の行に、取り消し線を引いた。そして横に書き足した。
カレー——○(復活)
冬花がそれを覗き見て、声を出して笑った。
「なにそれ、まだ記録してるの」
「一応な。宮野さんに褒められたし」
「褒められたの嬉しかったんだ」
「嬉しかったよ。素直に」
坂道を下りた。二人の影が石畳に長く伸びた。冬花の影のお腹のあたりが、ほんの少しだけ丸みを帯びていた。
スーパーでりんごとカレーのルーと鶏肉と野菜を買った。レジで会計をしていると、冬花が隣の列をちらりと見た。
若い母親がベビーカーを押して並んでいた。赤ん坊がぐずり始め、母親が周囲を見回して小声で言った。
「すみません、すみません——」
冬花が祐樹の袖を引いた。
「あのお母さん。——ドラッグストアに来てた人とは違うけど、同じだね」
「ああ」
「私たちの子は、謝らなくていいようにしたい」
冬花の声は静かだった。
「泣いていいんだよって。子どもは泣くのが仕事なんだよって。——そう言える親になりたい」
祐樹は頷いた。
袋に詰めた食材を持って、アパートに帰った。冬花がカレーを作った。鍋から立ち上る湯気を、冬花は深く吸い込んだ。
「いい匂い」
その夜のカレーは、祐樹の人生で一番うまかった。
◇
十二月。妊娠十七週目の検診で、医師がエコーの画面を指した。
「ここ——見えますか。男の子ですね」
冬花が祐樹の手を握り締めた。
「男の子」
「男の子」
帰り道、海沿いの歩道を二人で歩きながら、冬花が空を見上げて言った。
「湊だ。——やっぱり湊だった」
「冬花の予感、当たったな」
「根拠なかったけどね」
「母親の勘ってやつだろ」
「まだ生まれてもないのに、母親?」
「もう母親だよ。十七週も一緒にいるんだから」
冬花が笑って、お腹をさすった。
「湊。聞こえてる?——男の子って、お医者さんに教えてもらったよ。お父さんとお母さん、すごく嬉しい」
尾道水道をフェリーが渡っていく。汽笛が鳴った。十二月の海風は冷たかったが、冬花の手は温かかった。
帰宅して、祐樹は宮野に報告の電話を入れた。
「男の子でした。名前は湊です」
「おめでとうございます。湊くん。——高瀬さん、お父さんの顔になってきましたね」
「そうですか?」
「電話越しでもわかります。声が違う」
祐樹は少し照れた。
電話を切った後、藤原夫妻にもLINEで報告した。和真からすぐに返事が来た。
『男の子おめでとう!! うちはまだわかんないけど、菜月は女の子がいいって言ってる。でも俺は男の子がいいなー。キャッチボールしたい』
祐樹は返信した。
『キャッチボールいいな。湊にもやらせたい。——菜月さんのつわり、大丈夫?』
『食べ物リスト作ってます! 高瀬先輩のパクリです! 今のとこトマトとバナナが安全圏!』
『安全圏って言い方がもう戦場だな』
『つわりは戦場ですよ……菜月が言ってた……』
冬花が隣で画面を見ていた。
「菜月さん、トマトとバナナか。私とちょっと似てるね」
「つわりの味覚って共通するのかな」
「個人差じゃない?——でも同期で情報共有できるのはいいよね。三島先生の言ってた通り」
冬花がスマートフォンを手に取り、菜月に直接メッセージを送り始めた。
『菜月さん。私のつわり体験記、長文で送るね。読み物だと思って受け止めて!(笑)』
それから冬花は三十分かけて、自分のつわりの経緯と対処法を細かく書いて送った。何が食べられたか。何が地雷だったか。点滴はどのタイミングで打ったか。夫に何をしてもらって助かったか。
菜月からの返信は、泣き顔の絵文字の後にこう書かれていた。
『冬花さん。これ保存した。お守りにする。本当にありがとう。一人じゃないって思えた』
冬花がスマートフォンを胸に当てた。
「——よかった」
「何が」
「菜月さんが一人じゃないって言ってくれて。それが嬉しい。——だって私もそうだったから。つわりのとき、一番つらかったのは吐き気じゃなくて、自分だけがこんなに苦しんでるんじゃないかっていう孤独だったから」
祐樹は何も言えなかった。
あの二ヶ月間、祐樹は隣にいた。背中をさすり、りんごを剥き、点滴に付き添った。それでも冬花は孤独だったのだ。身体の中で起きていることは、どうやっても共有できない。代わってやることもできない。祐樹にできたのは、隣にいることだけだった。
でも——
「隣にいてくれたから、耐えられたんだよ」
冬花が祐樹の考えを読んだように言った。
「孤独だったけど、一人じゃなかった。矛盾してるけど、本当」
祐樹は冬花の肩を引き寄せた。
「矛盾してていい。——俺はずっと隣にいる」
「知ってる」
十二月の夜。尾道の街に最初のイルミネーションが灯った。アパートの窓から、商店街の光がちらちらと見えた。
あと四ヶ月で、湊が生まれる。
第三話 了
第四話「湊」に続く




