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産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


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第三話「つわりと担当保健師」(前編)

 妊娠七週目で、つわりが始まった。


 最初は朝だけだった。目が覚めると胃の底から酸っぱいものがせり上がってきて、冬花はベッドから這い出してトイレに駆け込んだ。吐くものがなくても吐き気は続き、便器にしがみついたまま動けなくなった。


 祐樹は冬花の背中をさすった。研修で教わった通り——と思ったが、研修ではつわりの座学はあっても「背中のさすり方」までは教わっていなかった。どのくらいの力でさすればいいのかわからず、ただ上下に手を動かした。


「……ごめん。起こしちゃった」


「起こしてない。最初から起きてた」


 嘘だった。冬花がトイレに走る音で飛び起きた。だが、本当のことを言っても冬花は罪悪感を覚えるだけだとわかっていたので、嘘をついた。


 つわりは日を追うごとに悪化した。


 朝だけだったのが昼にも夜にも広がり、八週目には一日中断続的に吐き気が続いた。食べられるものが激減した。白米の匂いがだめになった。炊飯器のスイッチを入れた瞬間に冬花が顔色を変えたので、祐樹は炊飯器を押入れにしまった。


「ごはん、どうする?」


「……パンなら食べられるかも」


「了解」


 食パンを買ってきた。トーストの匂いは大丈夫だったが、バターの匂いはだめだった。何も塗らない素のトーストを、冬花は小さくちぎって口に入れた。


「味がしない」


「味しなくても食べてくれ。何か胃に入れないと」


「……うん」


 冬花が食べられたものを祐樹はスマートフォンのメモに記録した。


 食パン(トースト、バターなし)——○

 うどん(温)——△

 うどん(冷)——○

 りんご——○

 みかん——○

 トマト——○

 ヨーグルト(プレーン)——○

 ヨーグルト(加糖)——×

 卵焼き——×

 味噌汁——×

 カレー——×××(匂いだけで嘔吐)


 白米——×

 炊きたての白米の匂い——×××(トラウマ級)


 祐樹は冷たいうどんとりんごとトマトとプレーンヨーグルトのローテーションで冬花の食事を組み立てた。自分の食事は冬花が寝ている間に別室で済ませた。匂いが漏れないように換気扇を回し、窓を開けた。


 十月の尾道は風が冷たくなり始めていた。窓を開けると潮風が入ってくる。


 その潮風の匂いだけは、冬花を吐き気から解放してくれた。



 妊娠九週目の木曜日。


 担当保健師が初めて家庭訪問に来た。


 チャイムが鳴って、祐樹が玄関を開けると、三十代半ばの女性が立っていた。ショートボブにメガネ、グレーのカーディガンに黒いスラックス。肩にかけた鞄は書類で膨らんでいた。


「高瀬さんですね。担当保健師の宮野です」


 宮野沙織みやの・さおり。名刺には「厚生労働省 国民生活維持局 中国ブロック担当保健師」とあった。


「奥さんは?」


「横になってます。つわりがひどくて」


「お邪魔してもいいですか?」


 リビングに通すと、冬花がソファの上で毛布にくるまっていた。宮野を見て、起き上がろうとした。


「そのままで大丈夫ですよ。——高瀬冬花さんですね。体調、つらそうですね」


「すみません、こんな格好で」


「謝らないでください。つわりは病気じゃないとよく言われますが、あれは嘘です。——立派に体調不良です」


 宮野はソファの横に座り、鞄から書類とタブレットを取り出した。


「まず簡単に自己紹介させてください。私はこのプログラムの担当保健師で、高瀬さんご夫妻を含めて中国ブロックで八組を担当しています。月に一度の家庭訪問と、随時の電話・メール相談が私の仕事です。——何かあったら、遠慮なく連絡してください。夜中でも構いません」


「八組って、多くないですか」と祐樹が聞いた。


「本当はもう少し少ないほうがいいんですが、保健師の数が足りていないのが正直なところです。——ただ、だからといって対応の質を落とすつもりはありません」


 宮野はタブレットを操作して、冬花の妊娠経過を確認した。


「九週目。心拍確認済み。つわりの程度は——ご飯が炊けない、と」


「はい。白米の匂いがだめで」


「食べられているものは?」


 祐樹がスマートフォンのメモを見せた。宮野はそれを見て少し目を見開いた。


「これ、旦那さんが記録してるんですか?」


「はい。何が食べられて何がだめか、把握しておきたくて」


「……素晴らしい。こういう記録は本当に助かります」宮野がタブレットにメモを打ちながら言った。「研修の成果ですかね」


「いや、研修では教わってないです。自分で思いついて」


「余計に素晴らしい」


 宮野は冬花に向き直った。


「冬花さん。水分は摂れていますか?」


「……水と、りんごジュースなら」


「尿の回数は?」


「減ってる気がします」


「色は?」


「……濃い、かも」


 宮野の表情がわずかに引き締まった。


「脱水の兆候があるかもしれません。今日の体重、量れますか?」


 冬花が体重計に乗った。妊娠前から一・八キロ減っていた。


「——妊娠悪阻おその一歩手前ですね。今すぐ入院が必要なレベルではありませんが、これ以上体重が落ちたり、水分が摂れなくなったら、すぐにかかりつけの産婦人科に行ってください。点滴が必要になります」


「点滴……」


「怖がらなくていいですよ。つわりで点滴を打つ妊婦さんは珍しくありません。むしろ、我慢しすぎるほうが危険です」


 宮野は祐樹を見た。


「旦那さん。奥さんが『大丈夫』と言っても、見た目がつらそうなら病院に連れて行ってください。つわりの最中は自分の状態を正確に判断できないことがあります」


「わかりました」


「あと——」宮野が少し言いよどんだ。「これは保健師としてではなく、個人的な経験からなんですが」


「はい」


「つわりの時期、旦那さんができる一番大事なことは、家事を全部やることです。全部。——料理、洗濯、掃除、買い物、ゴミ出し。奥さんには何もさせないでください」


「それはもうやってます」


 宮野がまた少し驚いた顔をした。


「……本当に?」


「はい。朝食は俺が作って、昼も夜も俺です。洗濯も掃除も。冬花は食べることと寝ることだけ」


「あの、すみません」と冬花がソファの上から口を挟んだ。「この人、研修のあたりからずっとこうなんです。私、最初は申し訳なくて——」


「申し訳なく思わないでください」と宮野がきっぱり言った。「あなたの体の中で、今、人間が一人作られているんです。それは旦那さんには絶対にできない仕事です。——だから家事は旦那さんがやる。役割分担です」


 冬花が泣きそうな顔をした。


「……宮野さん」


「はい」


「研修のときの三島先生にちょっと似てます」


「三島先生は私の大学の恩師です」


「え」


「——冗談ではなく。三島教授のゼミで母子保健を学びました。この保健師の仕事も、三島先生に声をかけていただいて」


 冬花と祐樹は顔を見合わせた。このプログラムの裏側に、一本の糸が通っている。三島という助産師出身の研究者を中心に、現場を知る人間が制度を支えている。


「安心してください」と宮野は言った。「この制度を作った人たちは、机の上だけで考えた人たちではありません。——少なくとも、現場の端っこには私たちがいます」



 宮野が帰った後、冬花はソファに横たわったまま言った。


「いい人だったね」


「ああ。当たりだと思う」


「月に一回じゃ足りないくらい」


「電話は二十四時間って言ってた。使えばいい」


「……うん」


 冬花がふと笑った。


「ねえ、宮野さん、あなたのこと褒めてたね。食べ物メモ」


「別に褒められたくてやったわけじゃない」


「知ってる。でも嬉しかったでしょ」


「……まあ」


「素直じゃないなあ」


 冬花が毛布の中から手を伸ばした。祐樹はその手を握った。冷たかった。


「祐樹」


「ん」


「ありがとう」


「何が」


「全部。——白米炊かないでくれるのも、りんご剥いてくれるのも、トイレで背中さすってくれるのも」


「仕事だから」


「仕事じゃないよ、それは」


 冬花の声がかすかに震えた。


「仕事だからやってるんだったら、こんなに優しくできないよ」


 祐樹は黙った。


 仕事だから、というのは照れ隠しだった。本当は、冬花が苦しんでいるのに何もできない自分が歯がゆくて、せめて食べられるものを探し、せめてトイレについていき、せめて背中をさするしかなかった。それが「仕事」かと問われれば、違う。ただの——。


「好きだからだよ、たぶん」


 祐樹は自分で言って、少し恥ずかしくなった。


 冬花が毛布の中で笑った。小さく、でも確かに笑った。


「たぶん、って何」


「確実に」


「最初からそう言いなさい」



 つわりのピークは十一週目に来た。


 冬花は三日間、ほとんど何も食べられなかった。水すら受けつけない時間帯があり、祐樹は宮野に電話した。


「——水が飲めません。三時間くらい」


「体重は?」


「妊娠前からマイナス二・五キロです」


「すぐに病院に行ってください。点滴を打ってもらいましょう。——タクシーを呼びますか? 運転できますか?」


「車出します」


 冬花を軽自動車の助手席に乗せた。シートを倒し、エチケット袋を持たせた。尾道の坂道を下り、海沿いの国道を走り、産婦人科に向かった。冬花は目を閉じたまま、時折えずいた。


 産婦人科で点滴を受けた。ブドウ糖とビタミンB6。二時間かけて五百ミリリットルの輸液が冬花の静脈に入った。


 点滴が終わる頃、冬花の顔色が少し戻った。


「……楽になった」


「そうか。よかった」


「なんか、砂漠でオアシス見つけた気分」


「大げさだな」


「大げさじゃないよ。本当に干からびてたんだから」


 医師から「週に二回程度、通院で点滴を打ちましょう」と言われた。祐樹は通院の日程を手帳に書き込んだ。火曜と金曜。冬花を乗せて産婦人科まで往復する。それが、しばらくの間の祐樹のルーティンに加わった。



 十一月に入り、つわりは少しずつ収まり始めた。


 十三週目。安定期の入り口。冬花がある朝、キッチンに立って言った。


「……白米、炊いてみていい?」


「大丈夫なのか?」


「わかんない。でも、試してみたい」


 炊飯器を押入れから出した。米を研ぎ、水を量り、スイッチを入れた。蒸気が上がり始めると、冬花が鼻をひくひくさせた。祐樹は冬花の顔を見守った。


「……平気」


「本当に?」


「うん。——あ、なんかいい匂いかも。久しぶりで」


 冬花の目が潤んだ。


「ごはんの匂いがいい匂いに戻った」


 炊きたての白米を茶碗によそった。冬花が一口食べた。ゆっくり咀嚼して、飲み込んだ。


「……おいしい」


 それだけのことで、冬花は泣いた。祐樹もなぜか喉の奥が詰まった。白米が食べられる。たったそれだけのことが、こんなに嬉しい。二ヶ月前には想像もしなかった感情だった。



 その週末、藤原夫妻から連絡があった。


 和真からLINEが入った。


『菜月、妊娠しました! 八週目です!』


 スタンプが五個並んでいた。犬が踊っている。猫が拍手している。熊が泣いている。脈絡のないスタンプの羅列に、和真の興奮が滲んでいた。


 祐樹はすぐに返信した。


『おめでとう!! つわりは?』


『まだ軽いみたいです。でもこれからですよね? 高瀬さんとこはどうでした?』


 祐樹は少し考えて、正直に書いた。


『うちはかなりきつかった。白米炊けなくなった。点滴も打った。——でも十三週で落ち着いてきた。個人差あるから、あまり構えすぎないほうがいいと思う。ただ、水飲めなくなったらすぐ病院。これだけは覚えといて』


『了解です。水飲めなくなったら病院。メモった』


『あと、担当保健師にはもう会った?』


『来週初回訪問です』


『何でも相談していい人だから、遠慮すんな。俺は嫁の食えるものリスト見せたら褒められた』


『食えるものリスト! それいいですね。パクります』


『パクれパクれ』


 冬花が画面を覗き込んだ。


「菜月さんも妊娠したんだ。よかった」


「ああ。研修の同期組がどんどん妊娠していくな」


「そりゃそうだよ。それが仕事だもん」


 冬花が笑った。つわりが収まってから、冬花の笑顔が増えた。当たり前のことだが、祐樹にとっては当たり前ではなかった。この二ヶ月間、冬花が笑う回数は激減していた。それが戻ってきた。


 冬花がスマートフォンを取り出して、菜月にメッセージを送った。


『菜月さん、おめでとう! つわり、つらかったら何でも聞いて。私は白米の匂いで死にかけたよ(笑)経験者として何でも教えます!』


 菜月からすぐに返信が来た。


『ありがとう冬花さん!! 白米で!? 怖い!! でも先輩がいると心強い!!』


 研修最終日に三島が言ったことを、祐樹は思い出した。「同期のつながりも大切にしてください。同じ船に乗った仲間です」。あの言葉は正しかった。倉敷と尾道、車で一時間半。近くはないが、遠くもない距離に、同じプログラムの仲間がいる。それだけで心が軽くなる。

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