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産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


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第二話「研修——おむつと国家について」(後編)

 最終日、十日目。


 修了式は簡素だった。会議室に全員が集まり、三島がまた壇上に立った。


「十日間、お疲れ様でした」


 三島の声は初日と同じく穏やかだった。


「修了証をお渡しします。これをもって、皆さんは正式に職務を開始できます。——ただ、一つだけ」


 三島はスクリーンにスライドを一枚だけ映した。そこには大きな文字で、こう書かれていた。


「助けを求めることは、仕事の放棄ではありません。」


「このプログラムの制約として、保育園と託児施設の利用は禁止されています。副業も禁止です。——しかし、困ったときに誰かに相談することは禁止されていません」


 三島は会場を見回した。


「皆さんには担当の保健師が付きます。月に一度の家庭訪問があります。電話相談は二十四時間対応です。——そしてそれだけでは足りません。同期のつながりも大切にしてください。今日この場で出会った三十組は、同じ船に乗った仲間です」


 三島の声がかすかに揺れた。


「私は長年、産後うつのお母さんを見てきました。——共通しているのは、孤立です。誰にも相談できず、誰にも弱音を吐けず、一人で全部を抱え込んで壊れていく。このプログラムがそうならないように——私はこの研修を設計しました」


 会場が静かになった。冬花が鼻をすすった。隣の菜月も目を赤くしていた。


「——では、修了証の授与に移ります」



 修了証を受け取って会場を出ると、五月の広島は初夏の匂いがした。ホテルの玄関前で、藤原夫妻と合流した。


「高瀬さん、LINE交換しましょう」と和真が言った。


「ああ、もちろん」


「なんかあったら連絡してくださいね。倉敷と尾道、近いし」


「こっちこそ」


 冬花と菜月も連絡先を交換した。菜月が冬花の手を握って言った。


「冬花さん、一緒にがんばろうね」


「うん。——菜月さんも」


 広島駅まで四人で歩いた。改札の前で別れた。和真が最後に振り返って言った。


「高瀬さん。——俺たち、けっこう大変なことに足突っ込んだんだと思う」


「だな」


「でも、悪くないっすよね」


 祐樹は少し考えて、頷いた。


「悪くない」



 尾道に戻った翌日から、二人の「勤務」が始まった。


 とは言っても、外形的には何も変わらない。同じアパートの同じ部屋で、同じ朝を迎える。違うのは、祐樹が信用金庫に出勤しないことと、冬花がドラッグストアに出勤しないこと。


 五月十二日。月曜日。朝七時。


 祐樹は目覚まし時計のアラームで起きた。習慣で手を伸ばしてスーツのハンガーを探り、ないことに気づいて、自分の立場を思い出した。


「……そうだ。今日から俺、家にいるんだ」


 隣で冬花が寝返りを打った。


「あなた、もう起きたの?」


「信金の癖が抜けない」


「今日から仕事は子作りだよ。朝は急がなくていいの」


 冬花が布団に潜り込んだ。祐樹は天井を見た。


 仕事は子作り。


 面と向かって言われると、なかなかのパワーワードだった。


 起き上がって、キッチンに立った。朝食を作る。といっても、トーストと目玉焼きとインスタントの味噌汁。信金時代は冬花が作ってくれていたが、研修で「家事の分担は明確にすること」と言われたので、朝食は祐樹の担当になった。


 冬花がパジャマのまま食卓に着いた。トーストをかじりながら言った。


「ねえ、今日の予定って何?」


「……予定?」


「だって仕事でしょ。スケジュールないの?」


 二人で顔を見合わせた。


 研修では子育ての知識と技術を叩き込まれた。だが、「子どもが生まれるまでの過ごし方」についてはほとんど触れられていなかった。考えてみれば当然だ。子どもは注文して翌日届くものではない。


「……とりあえず、仲良くすればいいんじゃない?」


「仲良く」


「仲良く」


「……」


「……」


 沈黙が三秒ほど続いて、冬花が吹き出した。


「なにこれ。なんだこの空気」


「いや俺も思ったよ今。国から給料もらって、二人でトースト食って、『仲良くしよう』って。なんだこれ」


「ブルシットジョブどころかノージョブだね今」


「ノージョブて」


 笑いながら、祐樹はふと思った。


 こうやって二人で朝ごはんを食べて、くだらないことで笑う時間が、信金時代にはなかった。祐樹は七時半に家を出て、冬花は九時のシフトに合わせて八時半に家を出た。朝食はすれ違いで、「行ってきます」と「行ってらっしゃい」しか交わさない日もあった。


 今、時計は八時を回ったばかりで、二人はまだ食卓にいる。窓の外では尾道の猫がフェンスの上を歩いている。


 この時間は、たぶん贅沢だ。


「——散歩でも行くか」


「散歩?」


「千光寺のほう。天気いいし」


「いいね。——あ、でもその前に洗濯物干して」


「了解」


 祐樹は食器を洗い、洗濯機を回し、冬花がベランダに干すのを手伝った。それからジーンズとスニーカーに着替えて、二人で坂道を上った。


 尾道の坂は急だ。石段と細い路地が入り組み、猫が塀の上から見下ろし、古い寺の屋根瓦が朝日に光っている。途中、千光寺に続く文学のこみちを通った。石碑に刻まれた志賀直哉の文章を冬花が音読した。


「『尾道は山の手が南に面して居るので日当りがよくて温い』——本当だね。温かい」


 展望台から瀬戸内海を見下ろした。向島が近く、因島が遠い。造船所のクレーンがゆっくり動いている。フェリーが白い航跡を残して海を渡っている。


「きれいだね」


「ああ」


「ここで育つ子は、幸せだと思う」


 冬花がフェンスに寄りかかって海を見た。


「毎日この海を見て、坂を上り下りして、猫に挨拶して。——私たちの子ども、ここで大きくなるんだね」


 祐樹は冬花の横顔を見た。風が前髪を揺らしていた。


「名前、湊でいいか」


「——うん。湊がいい」


「女の子だったら?」


「考えてなかった」


「おい」


「だって、男の子な気がするんだもん。根拠ないけど」


 祐樹は笑った。


「じゃあ湊で。——高瀬湊」


「高瀬湊」


 二人で口にすると、名前が風に乗って海のほうへ飛んでいった。



 最初の一ヶ月は、奇妙に穏やかだった。


 朝起きて、朝食を作り、家事を済ませ、散歩に出て、昼食を作り、午後は読書や映画。夕方に買い物に行き、夕食を作り、食べて、風呂に入って、寝る。


 何も起こらない。生産的なことは何もしていない。GDPへの貢献はゼロだ。


 だが、夫婦の間の会話は、信金時代の三倍に増えた。


 冬花が好きな作家の話。祐樹が学生時代にやっていたバスケの話。互いの家族の話。将来の教育方針の話。つまらない話。くだらない話。大事な話。全部を話す時間があった。


 月末、給与が振り込まれた。


 三十二万円。額面通り。天引き後の手取りは約二十六万四千円。


「入ってる」


「入ってるな」


 通帳を見つめて、冬花が不思議そうに言った。


「今月、何もしてないのに」


「子作りはしただろ」


「それはそうだけど」


「あとは家事と散歩と読書と——」


「……それで二十六万」


「国家公務員だから」


 冬花が通帳を閉じた。


「来月は、できてるといいな」


「ああ」


 できていなかった。


 六月の生理は予定通りに来た。冬花はトイレから出てきて、「来ちゃった」と一言だけ言った。祐樹は「まだ一ヶ月目だ」と返した。


 七月も来た。


 八月も来た。


 九月の終わり、冬花の生理が五日遅れた。


 二人とも何も言わなかった。期待して裏切られるのが怖かったから。六日目の朝、冬花がドラッグストア——かつて自分が働いていた店で検査薬を買ってきた。


 トイレのドアが閉まった。


 祐樹はリビングに立ったまま動けなかった。時計の秒針が異常に遅い。十秒が一分に感じる。


 ドアが開いた。


 冬花が両手でスティックを持って立っていた。


 二本線。


 冬花の唇が震えていた。


「——できた」


 その一言が、小さなアパートに響いた。


 祐樹の膝から力が抜けた。


 立ったまま泣くのは人生で初めてだった。



 翌日、祐樹は厚生労働省国民生活維持局に電話で報告した。担当者は「おめでとうございます」と事務的に言った後、産婦人科の受診と母子手帳の交付手続きについて案内した。


 冬花は尾道市内の産婦人科で正式に妊娠を確認された。六週目。心拍が見えた。


 エコーの画面に映った小さな光の点滅を、祐樹は一生忘れないだろうと思った。


 帰り道、二人で坂道を下った。向島へのフェリーが汽笛を鳴らした。冬花が立ち止まって、海を見た。


「湊」


 冬花が呟いた。


「聞こえてる? お母さんだよ」


 祐樹は何も言わずに冬花の隣に立った。


 潮風が吹いた。十月の瀬戸内海は青く澄んでいた。


 尾道の海が初めて、答えをくれた気がした。


第二話 了

第三話「つわり、担当保健師、同期の絆」に続く

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