第二話「研修——おむつと国家について」(前編)
研修会場は、広島市内のビジネスホテルを丸ごと借り切ったものだった。
五月の連休が明けた翌週の月曜日。祐樹と冬花は尾道から在来線で一時間半かけて広島駅に着き、そこからバスに揺られて会場入りした。ロビーには同じ書類封筒を持った若いカップルが三十組ほどいて、受付の長テーブルに列を作っていた。
中国ブロック——広島・岡山・山口・島根・鳥取の五県から採用された組が、ここに集められている。全国では同様の研修が九ブロックに分かれて同時進行しているという。
受付で名札を受け取った。首から下げるストラップ式で、「厚生労働省 国民生活維持局」のロゴの下に名前と採用番号が印字されている。
「うわ、本当に公務員っぽい」
冬花が名札をぶら下げて、おどけたように胸を張った。
「っぽい、じゃなくて公務員だから。もう」
「そうだけど。実感がないのよ」
会議室に案内されると、パイプ椅子が整然と並び、前方にスクリーンとプロジェクターが設置されていた。本当に公務員の研修だった。長机の上にはレジュメとバインダーと筆記用具、ペットボトルの水。霞が関の空気がそのまま地方のビジネスホテルに輸送されてきたような無機質さ。
だが、参加者の顔ぶれは霞が関とはまるで違っていた。
二十代前半から三十代前半。スーツ姿は少数で、ほとんどが私服。カジュアルなワンピースにスニーカーの女性、パーカーにジーンズの男性。中には、まだ「夫婦」という形に慣れていないような、ぎこちなく手を繋いだカップルもいた。
祐樹たちの隣に座ったのは、岡山から来た夫婦だった。夫のほうが人懐っこい笑顔で話しかけてきた。
「あ、尾道ですか? 僕ら倉敷です。藤原です」
「高瀬です。よろしくお願いします」
藤原和真、二十七歳。妻の藤原菜月、二十五歳。和真は自動車部品工場を退職したばかりで、菜月は元・介護施設の事務員だった。
「工場辞めたとき、班長にめちゃくちゃ驚かれましたよ。『国家公務員? お前が?』って」
和真が楽しそうに言った。隣で菜月が肘で突く。
「笑い事じゃないでしょ。あの班長さん、本気で心配してくれてたのに」
「いやだって、面白かったんだもん。国家公務員の仕事内容が子育てって言ったときの顔」
祐樹は少し安心した。自分たちだけじゃない、この奇妙な立場に戸惑いながらも前を向いている人がいる。
◇
九時ちょうどに、研修の責任者が壇上に立った。
五十代の小柄な女性で、白髪交じりのショートカット、ノーメイクに近い素顔、紺色のカーディガン。官僚には見えなかった。
「おはようございます。研修責任者の三島と申します。元々は助産師をしておりまして、その後大学で母子保健学を教えていました。このプログラムの研修設計を担当しています」
助産師。その一言で、会場の空気が少し柔らかくなった。
「まず最初にお伝えしたいことがあります」
三島はスクリーンを使わなかった。マイクも持たず、地声で話した。よく通る声だった。
「この研修は、皆さんに『正しい子育て』を教える場ではありません」
会場がざわついた。
「正しい子育てなど存在しないからです。——驚きましたか? 国がお金をかけて研修をするのに、正解を教えないのかと」
三島は淡々と続けた。
「子育てに正解はありません。あるのは『やってはいけないこと』の最低限のラインと、あとは無数の選択肢です。この研修でお伝えするのは、その最低限のラインと、選択肢を増やすための知識です。十日間で完璧な親になる必要はありません。完璧な親は存在しないからです」
冬花が小さく息を吐いた。
「ただし」
三島の声に力が入った。
「子どもの命に関わることについては、完璧であってください。乳幼児の窒息、入浴時の溺水、誤飲、転落。これらに対する知識と対処法は、完璧に覚えてください。試験もします。不合格なら再試験です。——ここだけは、妥協しません」
会場が静まった。
「では、研修を始めます」
◇
一日目の午前は座学だった。
乳幼児の発達段階。新生児期、乳児期、幼児期。それぞれの身体的特徴と、注意すべきリスク。三島の講義は的確で無駄がなく、しかしときどき自身の助産師時代のエピソードを挟んだ。
「新生児の頭蓋骨は、まだ完全に閉じていません。大泉門と言います。ここ——」と三島は自分の頭頂部を指した。「——触ると、ぷよぷよしています。初めて触ったお父さんは大抵こう言います。『壊れません?』と」
会場にくすくすと笑いが広がった。
「壊れません。でも、強く押したらだめですよ。優しく。——赤ちゃんの身体は、想像以上に柔らかくて、想像以上に頑丈です。矛盾していますが、本当です」
午後は実技だった。
新生児の人形が配られた。三キロの重みを再現したリアルな造りで、首が据わっていない状態まで模している。
「抱いてみてください」
祐樹は人形を受け取った。
軽い。が、柔らかい首がぐらりと傾くたびに、心臓が跳ねた。
「首を支えて。——そう。手のひらで後頭部を包むように」
三島が会場を回りながら一組ずつ指導した。祐樹の番が来ると、三島は祐樹の手を見て言った。
「高瀬さん、力入りすぎ」
「え」
「人形が顔をしかめてるでしょう。——嘘です、人形は表情変わりません。でも本物の赤ちゃんは変わります。お父さんの緊張は赤ちゃんに伝わる。もう少し肩の力を抜いて」
祐樹は深呼吸した。肩を落とし、人形を胸に引き寄せた。
「そう。上手。——奥さん、旦那さんの抱き方、どうですか?」
冬花が隣から覗き込んだ。
「……ぎこちない」
「正直でよろしい」
三島が笑った。
◇
二日目は沐浴と授乳の実習だった。
ベビーバスに湯を張り、人形を洗う。片手で首と頭を支え、もう片手で身体を洗う。祐樹は三回目でようやくコツを掴んだが、隣の和真は五回やっても人形を湯船に沈めそうになり、そのたびに菜月が「だからもっと手前!」と叫んでいた。
授乳の実習は、女性と男性で内容が分かれた。
女性陣は別室で、助産師資格を持つ女性スタッフから母乳の仕組みと授乳姿勢の指導を受けた。乳腺炎の予防、搾乳器の使い方、母乳が出にくい場合のミルクへの切り替え判断。
男性陣はミルクの調乳実習だった。
「哺乳瓶の消毒、調乳温度、与え方、げっぷの出し方。——お父さん方、これは皆さんの必修です」
男性担当の講師は、三十代の小児科医だった。白衣ではなくポロシャツ姿で、名札には「佐伯」とあった。
「母乳で育てる方針のご家庭でも、お母さんの体調不良や睡眠確保のために、お父さんがミルクを与える場面は必ず来ます。そのとき『やったことないからわからない』は通用しません。——わからないなら今覚えてください。ここはそのための場です」
粉ミルクの計量、湯冷ましとの配合、温度の確認。祐樹は手首の内側に数滴垂らして温度を確かめる動作を繰り返した。
「ちょっと熱い」
「もう少し冷ましてください。——そう、人肌です。自分が飲んで『ぬるい』と感じるくらいがちょうどいい」
祐樹は人形に哺乳瓶を咥えさせた。角度が悪いと空気が入る。空気が入ると腹にガスが溜まる。赤ん坊は不機嫌になり、泣く。
「ミルクを飲ませたあと、必ず縦抱きにして背中を叩いてげっぷを出す。——忘れたまま寝かせると、吐き戻しで窒息するリスクがあります」
佐伯医師の声は穏やかだったが、「窒息」の一語だけが重く会場に残った。
祐樹は人形の背中をぽんぽんと叩いた。応答のない人形相手でも、不思議と真剣になった。
◇
三日目。
応急処置の講義で、会場の空気が一変した。
乳幼児の心肺蘇生法。誤飲時の異物除去。熱性けいれんへの対応。
講師は救急救命士の資格を持つ男性で、冒頭にこう言った。
「今日の内容は、使わないまま終わるのが一番です。でも、万が一のとき、知っているか知らないかで子どもの命が分かれます」
乳児用の蘇生人形が配られた。胸骨圧迫の深さは四センチ。指二本で。百回から百二十回のリズム。
「強すぎると肋骨を折ります。弱すぎると心臓に届かない。——どちらも怖い。でも、何もしないのが一番怖い」
祐樹は指先に神経を集中させた。人形の胸が沈む感触。四センチ。たった四センチの差に命がかかる。隣の和真は顔を青くしていた。
「おい、大丈夫か」
「いや……なんか急にリアルになってきた。子育てって、こういうことかって」
その日の実技試験で、全員が合格した。不合格者が出なかったのは中国ブロックだけだったと、後日三島から聞かされた。
◇
四日目と五日目は栄養学。
離乳食の進め方、アレルギーのリスク管理、月齢ごとの食材リスト。講師は管理栄養士の女性で、実際に調理実習も行われた。
「十倍粥の作り方。——これが離乳食の第一歩です」
祐樹は鍋の前に立った。米を研ぎ、水を量り、弱火で炊く。炊いた粥をすり鉢でなめらかに潰す。
「どう?」と冬花が覗き込んだ。
「……粥を作るだけなのに、なんでこんな緊張するんだろう」
「だってこれ、赤ちゃんが初めて食べる『ごはん』だよ。そう思ったら適当にできなくない?」
冬花は自分の鍋に戻った。彼女の十倍粥はなめらかで、講師に「お上手ですね」と褒められた。祐樹のはダマが残った。
「もう少し丁寧に裏ごししてください。赤ちゃんの舌はダマに敏感です」
「すみません」
「謝らなくていいですよ。練習ですから。——本番までに上手くなればいいんです」
本番。つまり、本物の子どもが生まれた後。
まだ見ぬ我が子のために、三十組の男女が真剣に粥を潰している光景は、客観的に見ればきっと滑稽だった。だが誰も笑っていなかった。
◇
六日目の夜、転機が来た。
研修会場のビジネスホテルには大浴場がなく、各室のユニットバスを使うことになっていた。夕食後、祐樹がシャワーを浴びて出てくると、冬花がベッドの上であぐらをかいて、研修のテキストを読んでいた。
「乳幼児心理学のとこ、予習してるの」
「うん。明日の分」
冬花はページをめくりながら言った。
「愛着形成ってやつ。生後半年から一年半くらいで、赤ちゃんは特定の人に強い愛着を持つようになるんだって。——それが安定してると、大人になっても情緒が安定しやすいらしい」
「ふうん」
「でね、愛着形成がうまくいくには、泣いたときにすぐ応答する大人がそばにいることが大事なんだって。——泣いたときに誰も来なかったら、赤ちゃんは『泣いても無駄だ』って学習しちゃうの」
冬花がテキストから顔を上げた。
「私たちの仕事って、つまり、泣いたときにそばにいることなんだね」
祐樹はタオルで髪を拭きながら、ベッドの端に座った。
「そうだな」
「保育園ダメっていう制約、最初はちょっと引っかかってたんだけど——こういう意味なんだって今ならわかる。親がそばにいることが、仕事だから」
「……でも、ずっとそばにいるのは楽じゃないぞ。たぶん」
「うん。だから二人でやるんでしょ」
冬花は祐樹を見た。
「ねえ、明日の乳幼児心理学の先生、元保育士さんなんだって。研修のプロフィールに書いてあった」
「元保育士?」
「うん。保育士やりながら大学院行って、発達心理学の研究者になった人。——そういう人が教えてくれるなら、ちょっと安心する」
祐樹は頷いた。この研修を設計した人間は、少なくとも現場を知っている人間を選んでいる。三島は助産師だった。佐伯は小児科医だった。栄養学の講師は保育所勤務の管理栄養士だった。机の上で政策を書いただけの官僚が教壇に立つ研修ではなかった。
それは——このプログラム全体に対する、わずかな信頼につながった。
◇
七日目。乳幼児心理学。
講師の名前は戸田。四十代の男性で、穏やかな目をしていた。
「皆さんに、一つ質問します」
戸田はスクリーンに一枚の写真を映した。泣いている赤ん坊の顔のアップ。
「この赤ちゃんは、なぜ泣いているでしょう?」
会場からいくつかの声が上がった。「お腹が空いた」「おむつが汚れた」「眠い」「暑い」「寂しい」。
「全部正解です。——でも、全部不正解でもあります」
戸田はスクリーンを消した。
「正確に言えば、わかりません。赤ちゃん本人に聞けないから」
会場が静かになった。
「泣いている理由がわからないのに、応答しなければならない。これが子育ての本質です。——正解がないまま、行動し続ける。やってみて、違ったら別のことを試す。お腹かな? 違う。おむつかな? 違う。抱っこかな? 違う。じゃあもしかして体調が悪い?——この試行錯誤を、一日に何十回と繰り返す」
戸田は間を置いた。
「正直に言います。しんどいです。——特にお母さんは産後のホルモン変動もありますから、精神的に不安定になりやすい時期と、赤ちゃんの泣きのピークが重なります。だからこそ」
戸田は会場を見渡した。
「お父さん。あなたたちの出番です」
男性陣が、少し居住まいを正した。
「産後のお母さんに必要なのは、育児のアドバイスではありません。『代わるよ』の一言です。——赤ちゃんが泣き止まないとき、お母さんが限界に近いとき、理由なんか分析しなくていいから、黙って赤ちゃんを受け取ってください。そしてお母さんに言ってください。『三十分寝てきな』と」
和真が隣で深く頷いていた。
「子育ては二人の仕事です。このプログラムは、それを制度として保障しました。二人とも家にいる。二人とも子どもを見る。——その意味をこの十日間で体に刻み込んでください」
◇
八日目と九日目は総合実習だった。
一日の生活を、タイムテーブルに沿ってシミュレーションする。朝六時の授乳、おむつ替え、沐浴、離乳食の調理、昼寝の寝かしつけ、午後の遊び、夕方のぐずり対応、夜間授乳——人形を使った擬似的な体験だったが、「夜間授乳」のシミュレーションだけは、実際に深夜二時に叩き起こされた。
ホテルの部屋の電話が鳴った。
「——高瀬さん。赤ちゃんが泣いています。対応してください」
祐樹は飛び起きた。冬花も目を覚ました。
部屋に置かれた人形にはセンサーが仕込まれており、遠隔で泣き声を鳴らすことができる仕組みだった。祐樹は人形を抱き上げ、まず口元を確認し(吐き戻しはないか)、おむつを確認し(センサーが「濡れている」と表示していた)、交換し、ミルクを調乳し、与えた。
十二分かかった。
電話が再び鳴った。
「お疲れ様です。対応完了を確認しました。——本番は、これが毎晩二、三回あります。おやすみなさい」
祐樹は電話を切って、ベッドに倒れ込んだ。
「……毎晩?」
「毎晩」
冬花は天井を見つめていた。
「交代でやろう。一回目は私、二回目はあなた。——決めとかないと、どっちが起きるかで揉めるから」
「……了解」
「これ、仕事の段取りってやつだね」
「公務員だからな、俺たち」
暗闇の中で、二人は小さく笑った。




