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産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


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第一話「特別国家公務員試験」(後編)

 祐樹は玄関先で封筒を持ったまま動けなかった。冬花が洗濯物を干していたベランダから顔を出した。


「なに固まってるの」


「……来た」


 冬花の顔から表情が消えた。洗濯ばさみを握ったまま、裸足でリビングに降りてきた。


「開けて」


「お前が開けろ」


「無理。手が震える」


「俺だって震えてる」


 二人で封筒を見つめた。


「——せーので開けよう」


「なにそれ」


「せーの、で俺が破く。お前は中を見る。役割分担」


「……わかった」


 祐樹は封筒の端に指をかけた。


「せーの」


 びり、と封が破れた。冬花が中から書類の束を引き出した。


 一枚目。


 厚生労働省の紋章。


 その下に——


「特別国家公務員採用通知書」


 冬花の手から洗濯ばさみが落ちた。からん、と乾いた音がフローリングに響いた。


「——受かっ」


 冬花の声が途切れた。目が大きく見開かれたまま、書類の文字を追っている。


「受かった?」と祐樹が聞いた。


「受かった」


「マジで?」


「受かったよ、祐樹」


 冬花が書類を胸に抱きしめた。目尻から涙が一筋流れた。


「受かった——私たち、子ども、産めるよ」


 その言葉を聞いて、祐樹は気がついた。


 子どもが欲しい、という気持ちは、自分たちにとって贅沢だったのだ。手取り十九万の信用金庫員と、パートの妻にとっては。この国では、子どもを欲しいと思うことすら贅沢で、身の丈に合わない夢で、電卓を叩けば瞬時に却下される幻想だったのだ。


 それが今、国が「いい。それは仕事だ。給料を払う」と言った。


 正しいのかどうかはわからない。


 美しい制度なのかもわからない。


 ただ、冬花が泣いている。嬉しくて泣いている。


 それだけで今は十分だった。


「——これ、辞令だって」


 冬花が二枚目の書類を広げた。涙声で読み上げる。


「『令和九年五月一日付をもって、特別国家公務員(国民生活維持職・甲種)に任命する。勤務地は届出住所とする。職務内容は——子の出産及び養育に関する一切の業務』」


 冬花が笑った。泣きながら笑った。


「勤務地、自宅だって」


「最高の通勤時間だな。ゼロ分」


「ふふ。——見て、三枚目。給与振込の届出書。あと健康保険証の申請書。あと……」


 冬花が書類をめくる手が止まった。


「——あと、これ」


 四枚目の書類には、こう書かれていた。


「研修のご案内」


「新規採用特別国家公務員の方を対象に、育児・家事・応急処置・栄養学・乳幼児心理学に関する研修を実施いたします(全十日間・宿泊型・費用国庫負担)。受講は任命の条件となります。」


「研修?」


「子育ての研修だって。十日間」


「……国家公務員の研修が、おむつの替え方とか?」


「みたい」


 二人は顔を見合わせた。そして、同時に笑った。


 笑い声が、尾道の小さなアパートの、薄い壁を震わせた。



 冬花がようやく涙を拭いて、二人で採用通知の細部を読み込んだ。


 給与は額面三十二万円、手取りでおよそ二十六万円。現在の共働きの手取りとほぼ同額だが、二人とも外で働かなくていい分、時間がまるごと手に入る。二人のすべてのリソースを、子育てに全振りできる。さらに、首尾よく第一子が生まれれば額面三十六万に上がる。そこから先は子どもの数に応じて加算。


 ボーナスは年二回、各二ヶ月分。


「……ボーナス二ヶ月って、俺の信金より多いんだけど」


「あなたの信金がしょぼいんでしょ」


「それはそう」


 採用通知の末尾に、注意書きが赤字で記されていた。


「本プログラム採用者は、任命日をもって現職を退職していただきます。退職届の提出時期については、所属先と十分にご相談ください。」


 祐樹は信用金庫の支店長の顔を思い浮かべた。あの小言の多い五十七歳の支店長に、「国家公務員になるので辞めます」と言ったら、どんな顔をするだろう。


「祐樹」


「ん?」


「信金、辞めるの寂しい?」


 祐樹は考えた。三秒ほど考えて、正直に答えた。


「全然」


 冬花が声を出して笑った。


「ひどい」


「だって、寂しくない」


「同期とか、先輩とかは?」


「飲みに行くくらいはできるだろ。——それより冬花は? ドラッグストア」


 冬花は少し考えた。


「……あのお母さんに会えなくなるのは、ちょっと寂しい」


「赤ちゃん連れの?」


「うん。でも——次にあのお店に行くときは、私もベビーカー押してるかもしれないし」


 冬花が窓の外を見た。尾道の坂道の向こうに、瀬戸内海が光っていた。四月の海は穏やかだった。


「——ねえ、祐樹」


「なに」


「名前、考えよう」


「気が早い」


「だって、仕事だから。準備は大事でしょ?」


 冬花がいたずらっぽく笑った。


 祐樹は、ああ、この笑顔を見るためなら何だってやる、と思った。信用金庫を辞めることも、「特別国家公務員」という得体の知れない肩書きを背負うことも、家畜と揶揄されることも、全部。


「——男の子だったら?」


「うーん……海が見える街で育つから、海にちなんだ名前がいいな」


「渚、とか」


「女の子っぽくない?」


「じゃあ、みなと


「湊。——湊、か」


 冬花が小さく呟いた。その名前を、舌の上で転がすように。


「いいかも」


「お、マジで?」


「うん。高瀬湊。——いいね」


 まだ影も形もない子どもの名前を、二人は春の午後に決めた。


 窓から風が入ってきた。潮の匂いがした。


 尾道の海は、何も知らず、静かに凪いでいた。


 その夜、祐樹はベッドの中でスマートフォンを開いた。SNSのタイムラインは、例によってこのプログラムの話題で埋まっていた。


 賛否は真っ二つだった。


 ——素晴らしい。ようやく国がまともな少子化対策を打った。


 ——税金で子作りさせるってこと? 国営の繁殖場じゃん。


 ——こども家庭庁とかいう税金泥棒が消えただけでも意味がある。


 ——保育園使用禁止って人権侵害では?


 ——副業禁止で家に閉じ込めるとか、令和の産めよ殖やせよかよ。


 ——「子育ては仕事」を制度化した意義は大きい。家事労働の不可視化に一石を投じる政策。


 ——少子化が解決するかは別として、少なくとも「金がないから産めない」層の言い訳は一つ潰せた。


 ——言い訳を潰すのが政策か?


 祐樹はスマートフォンの画面を伏せた。


 横で冬花が寝息を立てている。まだ涙の跡がうっすらと残っている。


 ——正しいかどうかは、後からわかることだ。


 そう思って、目を閉じた。


 明日から有給を使って、信用金庫への退職届を書く。冬花もドラッグストアに辞意を伝える。そして五月一日、二人は「特別国家公務員」になる。


 子どもを産み、育てることを、仕事として。


 それが尊い使命なのか、滑稽な茶番なのか。


 尾道の夜は答えをくれなかった。


第一話 了

第二話「研修——おむつと国家について」に続く

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