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産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


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第一話「特別国家公務員試験」(前編)

 四月の風が、霞が関の銀杏並木をさわさわと揺らしていた。


 厚生労働省第三別館——かつて「こども家庭庁」が入居していた建物は、看板を架け替えたばかりだった。真新しいプレートには「厚生労働省 国民生活維持局」とある。その五階、面接室Cの前に、長椅子がずらりと並んでいる。


 座っているのは、全員がカップルだった。


 男女が隣り合い、膝の上に書類封筒を載せ、緊張した面持ちで順番を待っている。まるで結婚式場の見学会にでも来たかのような光景だが、誰もが一様に硬い表情をしていた。


 瀬戸内海に面した地方都市から夜行バスで来た高瀬祐樹たかせ・ゆうきは、隣に座る妻の手に触れ、冷たいことに気がついた。


冬花ふゆか、手」


「え?」


「冷たい」


 祐樹は両手で妻の右手を包んだ。冬花は二十四歳、祐樹は二十六歳。結婚して一年と二ヶ月。どこにでもいる若い夫婦のはずだった。


「……大丈夫かな」


 冬花が小声で言った。


「倍率、どのくらいなんだろう」


「さあな。ネットでは三倍とも十倍とも言ってるけど」


「十倍だったらダメだね、抽選」


「三倍でも運次第だよ。——でもまず面接だ」


 祐樹は封筒の中身をもう一度確かめた。住民票、婚姻届受理証明書、直近の源泉徴収票、そして二通の診断書。「生殖能力に関する医師の所見書」と印字された用紙。泌尿器科で採取した精液の運動率が記載された自分のものと、冬花が婦人科で取得した卵巣機能と子宮の状態を記した一枚。


 この診断書を取りに行った日の夜、冬花はしばらく黙っていた。「なんか、家畜みたいだね」と、布団に入ってから小さく笑った。祐樹は何も言えなかった。


 家畜みたいだ、というのは正しいと思ったからだ。


 だが、家畜にならなければ暮らしていけないのもまた事実だった。



 祐樹は地元の信用金庫に勤めていた。手取り十九万。冬花はドラッグストアのパートで月に八万ほど稼いでいた。合わせて二十七万。家賃五万八千円のアパートで、軽自動車を一台維持して、奨学金の返済が月に一万六千円。


 子どもが欲しくないわけではなかった。


 ただ、産んだあとのことを考えると、電卓が答えを出す前に気持ちが萎んだ。冬花が産休に入れば収入は激減する。保育園に入れたとしても、この地方都市ではフルタイムの仕事がそう簡単には見つからない。祐樹の信用金庫は昇給が遅く、三十歳でも手取りは二十二万に届くかどうか。


 子育てにかかる費用は、大学まで入れて一人あたり二千万円。


 二人で稼いだ二十七万から家賃と奨学金と光熱費と食費と車の維持費を引いて、残るのは月に四万あるかないか。そこから二千万を積み立てる。


 電卓を叩くまでもない。


 国の言う少子化対策——出産一時金の増額だの、児童手当の拡充だの、保育の無償化だの——は、焼け石に水どころか、焼け石に霧吹きだった。小手先の給付金では、若い夫婦の人生設計は変わらない。わかっている。国もわかっていたはずだ。


 わかっていて、何年も何十年も同じことを続けた。


 出生率が〇・九五を割り込んだ年、ついに政権が変わった。



「番号五十八番の方」


 冬花がびくりと肩を揺らした。祐樹は妻の背中に軽く手を添えて、立ち上がった。


 面接室Cの扉を開けると、長テーブルの向こうに三人の面接官が座っていた。中央は五十代の女性、左に三十代の男性、右に四十代の女性。胸元のストラップには「厚生労働省」のロゴ。


「どうぞ、おかけください」


 中央の女性が穏やかに言った。祐樹と冬花は並んで椅子に座った。


「高瀬祐樹さんと冬花さんですね。広島県尾道市からお越しいただいたと」


「はい」


「遠いところをありがとうございます。——まず確認ですが、本プログラムの内容と制約条件について、お二人とも書面で確認されていますか?」


「はい、二人で読みました」


「本プログラムに採用された場合、お二人は特別国家公務員の身分を得て、月額三十二万円の給与を支給されます。第一子出産後は月額三十六万円、第二子以降はお子さん一人につき月額四万円が加算されます。社会保険、厚生年金は完備です。——この金額について、お二人の現在の収入と比較して、率直にどう思われますか?」


 冬花が祐樹を見た。祐樹は小さく頷いた。


「正直に申し上げると」と祐樹は言った。「今の共働きの手取りより多いです」


 面接官が頷いた。


「このプログラムの趣旨は、子どもを産み育てることを国家に必要な労働と正式に位置づけ、それに対して適正な報酬を支払うことです。お二人がこの趣旨に賛同されていることは、応募の時点で理解しておりますが——改めて伺います。高瀬冬花さん」


 冬花が背筋を伸ばした。


「はい」


「あなたの仕事は、子どもを産み、育てることになります。保育園には預けられません。副業もできません。社会との接点が狭まることに、不安はありますか?」


 冬花は一瞬だけ唇を引き結んだ。それから言った。


「あります」


 面接官が少し目を見開いた。


「不安はあります。でも——今のほうが、もっと不安です」


「今のほうが?」


「子どもを産みたいのに、産めないことのほうが、ずっと不安です」


 冬花の声は小さかったが、揺れてはいなかった。面接室の空気がわずかに変わった。左の男性面接官がペンを止めて、冬花の顔を見ていた。


「私、ドラッグストアでパートしてるんですけど」と冬花は続けた。「そこに来るお客さんで、赤ちゃん連れのお母さんがいるんです。おむつとか、おしりふきとか買っていくんですけど、レジで会計待ちしてるときに赤ちゃんが泣くと、お母さんが『すみません、すみません』って何回も謝るんです。別に誰も怒ってないのに」


 祐樹は初めて聞く話だった。隣で妻を見た。


「それ見てて、ああ、子どもを育てるって、ずっと謝り続けることなんだなって思いました。電車でも、レストランでも、スーパーでも。——この国で子どもを育てるって、そういうことなんだなって」


 冬花は膝の上で拳を握っていた。


「でも、このプログラムは、子どもを育てることが仕事だって言ってくれてるんですよね。謝らなくていいって。——だから応募しました」


 面接室が静かになった。


 中央の女性面接官がゆっくりと頷いた。


「——ありがとうございます」



 面接は二十分で終わった。


 建物を出ると、四月の日差しが白くまぶしかった。霞が関の歩道を二人で歩いた。スーツ姿の官僚たちが早足で行き交うなかを、祐樹と冬花はゆっくり歩いた。


「俺、知らなかった」


「なにが?」


「ドラッグストアの話。赤ちゃん連れのお母さんの」


「……言ってなかったっけ」


「聞いてない」


「そう」


 冬花はそれ以上何も言わなかった。日比谷公園の入り口が見えてきた。噴水のそばのベンチに、ベビーカーを押した若い母親が座っていた。赤ん坊はぐずっていて、母親は周囲を気にしながら抱き上げ、小さな声であやしていた。


 祐樹と冬花は、申し合わせたようにその場に立ち止まった。


「ねえ」と冬花が言った。


「ん」


「面接のとき、あなたへの質問、少なかったね」


「そうだな。ほとんど冬花に聞いてた」


「——やっぱり、このプログラム、女のほうが当事者だと思われてるのかな」


 祐樹は少し考えた。


「そうかもな」


「あなたの仕事は?——って聞かれなかったね。私にだけ聞いた」


「……おかしいと思ったよ。俺も当事者なのに」


「うん」


 冬花が祐樹の腕に自分の腕を絡ませた。


「でもね。受かったら——」


「受かったら?」


「二人で育てようね。私だけの仕事じゃなくて」


「当たり前だろ」


 祐樹は冬花の手をぎゅっと握り返した。今度は冬花の手は温かかった。



 結果は二週間後に届くと言われていた。


 夜行バスで尾道に戻り、それぞれの仕事に戻り、日常が再開した。祐樹は信用金庫の窓口で定期預金の手続きをし、住宅ローンの相談を受け、支店長に小言を言われた。冬花はドラッグストアのレジに立ち、品出しをし、赤ちゃん連れの客に笑顔で対応した。


 何も変わらない日々だった。


 ただ、二人とも心のどこかで封筒を待っていた。


 厚生労働省の角形二号封筒。薄ければ落選、厚ければ採用——そんな大学受験のような都市伝説がネットに流れていたが、祐樹はそれを信じなかった。信じたくなかった。


 十日目の夜、冬花が夕食の味噌汁をよそいながら言った。


「ねえ、もし落ちたらさ」


「うん」


「また来年、応募しようね」


「……ああ」


「来年もダメだったら、再来年」


「何回でも出すか」


「うん。何回でも」


 冬花は味噌汁の鍋をかき混ぜながら、小さく笑った。


「だって、私たち、子ども欲しいんだもん」


 祐樹は箸を置いた。


 この人と一緒にいてよかった、と思った。理由は言語化できなかった。ただ、冬花が「子ども欲しいんだもん」と言ったときの声の響きが、面接室で語ったときの芯の通った声と同じだったから。そしてそれが、一年前にプロポーズを受けてくれたときの「うん」と同じだったから。


 十三日目の土曜日、ポストに角形二号封筒が届いた。


 厚生労働省国民生活維持局。


 厚かった。

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