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産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


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第五話「午前三時の哺乳瓶」(後編)

 五月に入った。湊は生後三週間を過ぎて、少しずつ起きている時間が増えてきた。


 まだ視力はぼんやりしているが、近くの人の顔をじっと見つめるようになった。白黒のコントラストが強いものに反応するので、祐樹が白いTシャツに黒いエプロンをつけてキッチンに立っていると、湊がバウンサーの上からじっとそちらを見ていた。


「見てるぞ。お前の父ちゃんが飯作ってるの見てるぞ」


 祐樹は湊に話しかけながら味噌汁を作った。豆腐とわかめ。冬花の母乳のために栄養バランスを考えた食事を作るのが、祐樹の日課になっていた。


 研修の栄養学で教わった知識が役に立った。授乳中の母親に必要な栄養素——鉄分、カルシウム、葉酸、タンパク質。小松菜のおひたし、納豆、焼き魚、ひじきの煮物。地味な食卓だが、品数は多かった。


「祐樹って料理うまくなったよね」


「数こなしたからな」


「信金時代は目玉焼きすら怪しかったのに」


「人は成長するんだよ」


「国家公務員の成長、料理スキル」


「立派な業務スキルだろ。食育の基盤だぞ」


 冬花が声を出して笑った。笑い声が大きかったのか、湊がびくっと体を揺らした。モロー反射。両手を広げて、何かにしがみつこうとする原始反射。祐樹は人形で何度も見た動作を、我が子の体で見た。


「びっくりさせちゃった」と冬花が湊を抱き上げた。「ごめんね。お母さん笑いすぎた」


 湊は冬花の胸に抱かれると、すぐに落ち着いた。目を開けて、冬花の顔をぼんやり見上げていた。



 五月の中旬、藤原家から連絡が入った。


 和真からのLINE。


『菜月、破水しました。今病院です。これから分娩かも。ドキドキしすぎてやばい』


 祐樹はすぐに返信した。


『落ち着け。深呼吸しろ。菜月さんのそばにいろ。やることは腰さすって水飲ませて声かけること。それだけでいい。平気な顔してろ。内心はどうでもいいから顔だけは』


 宮野に言われたことを、そのまま和真に伝えた。


 七時間後、和真からメッセージが来た。


『生まれました!! 女の子です!! 2980g!! 菜月も元気です!! 泣きました!! 俺が!!』


 写真が送られてきた。赤い、しわくちゃの、小さな赤ん坊。和真の腕の中で目を閉じている。


 冬花が画面を見て「かわいい」と呟いた。そして菜月にメッセージを送った。


『菜月さん、おめでとう! お疲れ様! 女の子! かわいい!! 名前は決まった??』


 翌日、菜月から返信が来た。


『ありがとう冬花さん。ほのか、にしました。藤原穂花。稲穂の穂に花。——冬花さんの名前から、花をもらっちゃった(笑)』


 冬花が嬉しそうに笑った。


「穂花ちゃん。かわいい名前」


「花を贈ったんだな。冬花から穂花に」


「私が贈ったわけじゃないけど。——でも嬉しい」


 尾道と倉敷。車で一時間半の距離に、同期の家族がいる。高瀬湊と藤原穂花。ほぼ同い年の二人が、瀬戸内の空の下で同時に育っていく。



 六月。湊は生後二ヶ月になった。


 梅雨が来た。尾道は坂の街だから、雨が降ると石段が滑る。ベビーカーでの外出が難しくなり、冬花は室内にいる時間が増えた。


 この時期、冬花の情緒不安定は一旦落ち着いた。宮野が言った通り、マタニティブルーズは自然に収まった。冬花は「嵐が過ぎた感じ」と表現した。


 だが、別の問題が浮上した。


 社会からの断絶。


 プログラムの制約——保育園禁止、副業禁止——は、裏を返せば、家の外に居場所がないということだった。冬花の社会との接点は、スーパーのレジと、宮野の月一回の訪問と、菜月とのLINEと、そして祐樹。それだけだった。


「ねえ、今日一日、大人と話したの祐樹だけだ」


 冬花がある夜、食卓で言った。


「……それ、結構な頻度でそうじゃないか?」


「ほぼ毎日そうだよ」


 祐樹は箸を止めた。


 自分も同じだった。買い物に行けばレジの店員と二言三言交わすが、それ以外に社会的な接触はない。信金時代は嫌でも同僚や客と話していた。今はゼロだ。


「……児童館とか、行ってみるか?」


「行っていいのかな。保育園禁止だけど、児童館は?」


 祐樹はプログラムの規約を読み直した。禁止されているのは「保育園、ならびに託児施設の利用」であり、児童館や子育て支援センターへの自主的な参加は禁止されていなかった。


「いけるぞ。託児じゃなくて、親子で一緒に行く施設だから」


「本当?」


「規約にはそう書いてある。——念のため宮野さんに確認するか」


 翌日、宮野に電話した。


「児童館、全然大丈夫ですよ。むしろ行ってください。お母さん同士の交流の場になります。——ただ、一つだけ」


「はい」


「特別国家公務員であることを、無理に隠す必要はありませんが、自分から積極的に言わなくてもいいです。地域によっては——まだ、偏見があります」


 偏見。


 その言葉が、祐樹の胸に引っかかった。



 六月の末、雨の合間を縫って、冬花は湊を連れて尾道市の子育て支援センターに行った。


 祐樹も一緒だった。プログラム的には二人とも勤務中なので、当然だ。


 支援センターは市役所の隣にある小さな建物で、プレイマットが敷かれた広い部屋に、同じくらいの月齢の赤ちゃんを連れた母親たちが集まっていた。父親の姿は——祐樹一人だった。


 平日の午前十時。他の父親は仕事に行っている。当たり前だ。ここにいるのは育休中の母親か、専業主婦だけ。平日の昼間に夫婦揃って赤ん坊を連れて支援センターに来ている高瀬家は、明らかに異質だった。


 スタッフの女性が笑顔で迎えてくれた。


「いらっしゃい。——お父さんも一緒なんですね。お休みの日ですか?」


「いえ——」


 祐樹は一瞬、言葉に詰まった。


「仕事、休みなんです。今日は」


 嘘をついた。仕事は休みではない。毎日が仕事だ。しかし「子育てが仕事なんです」と言えば、説明が長くなる。


 プレイマットの上に湊を寝かせた。冬花が隣に座り、近くにいた母親と自然に話し始めた。相手は生後三ヶ月の女の子を連れた三十代の女性だった。


「何ヶ月ですか?」


「二ヶ月です。——そちらは?」


「三ヶ月。もうすぐ四ヶ月。——首すわりました?」


「まだです」


「うちもまだなんです。もう少しかなって」


 他愛のない会話。月齢と発達の話。授乳の話。睡眠の話。母親同士の共通言語で、冬花の表情がみるみる柔らかくなっていくのが、祐樹には見えた。


 ああ、これが必要だったんだ。


 菜月とのLINEは助けになっていた。宮野の訪問も支えだった。しかし、同じ空間で、同じ月齢の赤ん坊を前にして、顔を合わせて話す——その物理的な交流は、デジタルでは代替できない何かを持っていた。


 冬花が帰り道に言った。


「また行きたい。来週も」


「行こう」


「祐樹も来る?」


「行く。——ただ、俺が行くと浮くかもな」


「平日にお父さんがいるのは珍しいもんね。……でも来てほしい。二人の仕事だから」


「ああ」


 翌週も行った。翌々週も行った。


 三回目に行ったとき、スタッフの女性がそっと祐樹に聞いた。


「高瀬さん、毎週来てくださってますけど——お仕事は?」


 今度は嘘をつかなかった。


「子育てが仕事です。——特別国家公務員なんです、俺たち」


 スタッフの女性は目を丸くして、それから「ああ」と何かを理解したような顔をした。


「ニュースで見たことあります。——そうだったんですね」


「変ですか?」


「いいえ。全然。——むしろ、こういう方が支援センターに来てくれるのは嬉しいです。お父さんが当たり前にいる場所になってくれたら、他のお父さんも来やすくなるから」


 祐樹は少し救われた気持ちになった。



 七月。湊は生後三ヶ月。


 首がすわった。


 冬花が湊をうつ伏せにしたとき、湊が自力で頭を持ち上げた。ぐらぐらしながら、でも確かに、自分の首の力で頭を支えた。


「——見て! 見て祐樹!」


「見てる見てる」


「首すわった! すわったよ!」


 冬花が歓声を上げた。湊は驚いたのか、頭を下ろして泣き出した。冬花が笑いながら抱き上げた。


「ごめんごめん。お母さんうるさかったね。——でもすごいよ湊。すごい」


 祐樹は宮野に報告した。宮野は「順調ですね」と笑った。


 和真にも報告した。和真は「穂花はまだだー! 負けた!」と返してきた。勝ち負けの問題ではないが、和真のこの調子に祐樹は毎回少し元気をもらった。


 首がすわったことで、抱っこが格段に楽になった。縦抱きが安定する。エルゴの抱っこ紐で前に抱えて、坂道を歩けるようになった。


 七月の尾道は暑かった。朝の涼しいうちに散歩に出た。千光寺への坂道を、祐樹が湊を抱っこ紐で抱え、冬花が隣を歩いた。


 石段を上る途中で、あの茶トラの猫がいた。塀の上から、湊を見下ろしている。湊はまだ猫を認識できないが、猫のほうは明らかに新しい存在を認識していた。ひげをひくひくさせて、鼻先を湊のほうに向けた。


「ほら湊、猫だよ」


 冬花が湊の手を取って、猫のほうに向けた。猫は警戒もせず、ふんと鼻を鳴らして、塀の上で丸くなった。


「友達になれそう?」


「猫のほうは興味なさそうだけどな」


「そのうち湊が追いかけ回すようになるよ。きっと」


 展望台まで上った。七月の瀬戸内海は真っ青だった。空と海の境目が溶けて見えた。


 湊が抱っこ紐の中で目を見開いていた。まだ遠くは見えないはずだが、光と風を感じているのだろう。小さな手が抱っこ紐の縁を掴んでいた。


「湊。海だよ」


 祐樹が言った。


「お前の名前の海だ」


 湊は何も答えない。ただ、目を大きく開けて、光の方向を見つめていた。



 その夜。午前三時。


 湊が泣いた。


 祐樹の番だった。


 起き上がって、湊を抱き上げて、キッチンに向かった。もう何十回と繰り返した動作。目を閉じていてもできるくらいに体が覚えていた。


 粉ミルクを量る。湯冷ましを注ぐ。温度を確かめる。哺乳瓶を湊の口に運ぶ。


 ちゅく、ちゅく。


 暗いキッチンに、小さな吸啜の音だけが響いていた。


 窓の外は闇だった。尾道の街灯が点々と光り、その向こうに海があるはずだが、見えない。ただ、波の音がかすかに聞こえた。


 祐樹は湊の顔を見下ろした。


 三ヶ月前にはこの世にいなかった人間が、自分の腕の中で、必死にミルクを飲んでいる。生きるために。ただ生きるために。


 眠い。体は重い。明日も同じことの繰り返しだ。明後日も。その次も。


 でも。


 この腕の中の三キロと少しの重みは、祐樹がこれまでの人生で持ち上げたどんなものより重く、どんなものより軽かった。


 重くて、軽い。矛盾しているが、本当だった。


 哺乳瓶が空になった。縦抱きにして、背中を叩く。ぽんぽん。


 げぷ。


「よし。——おやすみ、湊」


 ベビーベッドに戻した。湊は目を閉じた。


 祐樹はベッドに戻った。冬花の寝息が聞こえた。隣に横になった。


 目を閉じる前に、天井を見た。


 午前三時の天井は暗い。何も見えない。でも、この暗闇の中に、三人分の呼吸がある。三人分の体温がある。


 それだけで、この部屋は世界のどこよりも温かかった。


 ——これが、仕事か。


 仕事だ。


 国が認めた、給料の出る仕事だ。


 でもそれ以前に——これは、生きることそのものだった。


 祐樹は目を閉じた。


 次に湊が泣くまで、あと二時間。それまで眠る。


 今夜も滞りなく、任務を完了した。


第五話 了

第六話「坂道の途中で」に続く

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