第六話「坂道の途中で」(前編)
湊が生後六ヶ月を迎えた十月、離乳食が始まった。
研修で作った十倍粥。あのとき祐樹はダマを残して講師に注意されたが、半年間の料理修行を経た今、粥を潰す手つきには迷いがなかった。すり鉢で米粒をなめらかに潰し、小さなスプーンに載せて湊の口に運んだ。
湊は口を開けた。スプーンが入った。
三秒後、湊は盛大に顔をしかめて、粥を舌で押し出した。
べっ。
白い粥が湊の顎を伝い、スタイを汚し、祐樹の手の甲に飛んだ。
「……おい」
「あはは」と冬花が横で笑っていた。「嫌がってる」
「せっかく丁寧に作ったのに」
「味じゃないよ。食感が初めてなんだよ。母乳とミルクしか知らないんだもん。——もう一回」
二口目。また押し出した。三口目。少しだけ飲み込んだ。四口目で泣いた。
初日の成果、小さじ半分。
「……国家公務員の業務報告。本日の離乳食摂取量、小さじ半分」
「報告する上司いないけどね」
「自己申告制だから」
離乳食は毎日少しずつ進んだ。十倍粥に慣れた頃、にんじんのペーストを追加した。次にかぼちゃ。次に豆腐。一品ずつ、アレルギーの反応を確認しながら。
研修の栄養学で教わった通りの手順だった。新しい食材は平日の午前中に試す。万が一アレルギー反応が出ても、すぐに病院に行けるように。
この「平日の午前中」という条件を守れるのは、二人とも家にいるからだった。共働きなら、保育園で初めての食材を試すことになる。保育園のスタッフは食物アレルギーの研修を受けているが、それでも自分の目で子どもの反応を確認できないのは不安だろう、と祐樹は思った。
そう思ったことを、祐樹はSNSには書かなかった。
書けば、共働き家庭を批判していると取られる。「自分たちは国の金で家にいられるくせに」と。
プログラムの存在を公言してから、祐樹のSNSの使い方は慎重になっていた。
◇
きっかけは、八月のことだった。
支援センターで「特別国家公務員です」と名乗った日から数週間後、尾道の地域ニュースサイトに小さな記事が出た。
「特別国家公務員」第一期生、尾道にも——子育てを仕事に、若い夫婦の挑戦
記事自体は好意的なトーンだった。記者が支援センターのスタッフに取材したらしく、「熱心なお父さん」「夫婦で来ている姿が印象的」といったコメントが載っていた。名前は出ていなかったが、尾道で特別国家公務員をやっている若い夫婦など一組しかいない。
記事のコメント欄は荒れた。
——税金で養ってもらって子育てとか、いい身分だね。
——保育園も使わないってことは、保育士の雇用を奪ってるんだけどその自覚ある?
——こういう人たちが「子育ては大変」とか言い出したら笑う。働きながら育ててる人のほうが百倍大変だろ。
——副業禁止で家にこもって何年も過ごして、社会復帰できるの? 結局ナマポ予備軍じゃん。
——旦那のほうは何やってんの? 嫁に産ませて自分は家でごろごろ? 税金で?
一方で、擁護する声もあった。
——叩いてる人、記事ちゃんと読んだ? この制度の原資はこども家庭庁の解体予算だよ。新しい税金使ってない。
——子育てを仕事として認めるのは正しい方向だと思う。無償労働を強いてきたツケが少子化だろ。
——保育士の雇用を奪うって、共働き世帯のために枠が空くって話でしょ。読解力。
——羨ましいなら応募すればよかったのに。
祐樹はコメント欄を最後まで読んで、スマートフォンを閉じた。
冬花には見せなかった。
◇
見せなかったが、冬花は自分で見つけた。
九月のある夜、湊を寝かしつけた後、冬花がソファで黙ってスマートフォンを見つめていた。画面の光が冬花の顔を青白く照らしていた。表情がなかった。
「冬花」
「……読んじゃった」
「何を」
「コメント。あの記事の」
祐樹は隣に座った。
「見せたくなかった」
「知ってる。——でも、遅かれ早かれ見つけてた」
冬花はスマートフォンをテーブルに置いた。画面を下にして。
「『いい身分だね』って書いてあった」
「ああ」
「『働きながら育ててる人のほうが百倍大変』って」
「……ああ」
「——それ、本当かもしれない」
祐樹は冬花を見た。
「共働きで保育園に預けて、朝から晩まで働いて、夜中に起きて、朝また出勤する人たちと比べたら——私たち、明らかに楽してる」
「言われるほどには楽してないだろ。毎日——」
「楽の定義によるよ」と冬花が遮った。「時間がある。お金の心配がない。二人とも家にいる。——それは、楽でしょう。客観的に見たら」
祐樹は黙った。
冬花の言うことは正しかった。このプログラムは、経済的不安を取り除き、時間を確保し、二人で子育てに集中できる環境を提供している。それは、共働きで必死に回している家庭から見れば、破格の待遇だ。
「でも」と冬花は続けた。「楽だからといって、後ろめたく思う必要があるのかな」
「——ないと思う」
「私もそう思いたい。でも、ああいうコメント読むと——揺れる」
冬花が膝を抱えた。
「支援センターで、他のお母さんたちと話してるとき。みんな大変そうなの。旦那さんの帰りが遅いとか、保育園の送り迎えがきついとか、仕事と育児の両立が限界だとか。——そういう話を聞いてて、私は何も言えない。『うちは二人とも家にいるから大丈夫です』なんて言えない」
「……言わなくていいだろ」
「言わなくても、態度に出るよ。余裕があること、伝わるから。——それが、なんか、申し訳なくて」
祐樹は天井を見た。
申し訳ない。
その感情は、祐樹にもあった。支援センターで他の父親——たまに土曜日に来る父親たち——と話すとき、「平日はいつも来てるんですか?」と聞かれると、答えに詰まった。「ええ、まあ」と曖昧に濁した。「仕事は?」と聞かれたら、「ちょっと特殊な勤務形態で」と嘘に近い回答をした。
隠しているわけではない。聞かれれば答える。でも自分からは言わない。
その微妙な距離感が、少しずつ祐樹と冬花を蝕んでいた。
◇
十月の家庭訪問で、祐樹は宮野にそのことを話した。
冬花が湊をあやしている間に、キッチンで二人きりになったタイミングで。
「コメント欄のことは知ってます」と宮野は言った。
「ご存知でしたか」
「担当家庭の周辺の情報は把握するようにしています。——正直に言うと、予想していました」
「予想?」
「このプログラムに対する反発は、制度設計の段階から想定されていました。『税金で子育て』という構図は、どうしても感情的な反発を招く。特に、自力で共働きしながら育てている層からの」
宮野はほうじ茶を一口飲んだ。
「でも、高瀬さん。一つ考えてみてください。——公立学校の教員は税金で給料をもらっています。自衛隊員もです。消防士も。彼らに向かって『税金でいい身分だね』と言う人は、いないとは言いませんが少数です。なぜか」
「……社会的に必要な仕事だと認められてるから」
「その通りです。そして、このプログラムは、子育てをその列に加えようとしている。教員や消防士と同じように、社会に不可欠な仕事だと位置づけようとしている。——ただ、社会の認識が追いついていない。まだ」
「まだ、ですか」
「第一期生の皆さんは、いわばパイオニアです。パイオニアには風当たりが強い。それは——申し訳ないのですが、覚悟していただくしかない部分があります」
宮野の言葉は率直だった。慰めではなく、現実の提示だった。
「ただ——」宮野は声を少し柔らかくした。「コメント欄を読まないでください、とは言いません。読むなと言っても気になって読んでしまうでしょうから。でも、読んだ後に、お二人で話してください。一人で抱え込まないで。それは前に、冬花さんに言ったことと同じです」
「冬花には話しました。見せたくなかったけど、冬花が先に見つけて」
「それで?」
「冬花は——楽をしていることが申し訳ないと」
宮野が少し黙った。
「冬花さんは、優しい人ですね」
「はい」
「優しい人ほど、他人の痛みを自分のものにしてしまう。それは美徳ですが、危うさでもあります。——旦那さん。奥さんが罪悪感に押し潰されないように、見ていてあげてください」
「はい」
「そして高瀬さん自身も。——罪悪感は、育児の敵ですから」
◇
十一月。湊は生後七ヶ月になった。
おすわりができるようになった。最初は前にぐらりと倒れていたのが、日に日に安定して、両手で玩具を持ったまま座っていられるようになった。
冬花が百円ショップで買った積み木を並べると、湊は手を伸ばして掴み、口に入れ、振り回し、床に叩きつけた。
「遊んでるの? 壊してるの?」
「両方だろ。赤ん坊にとっては同じことだ」
湊は積み木を叩きつけるたびに、きゃっ、と声を上げて笑った。笑い声が出るようになったのは六ヶ月の頃だった。最初に笑ったとき、冬花は泣いた。祐樹も喉の奥が詰まった。
あのモロー反射しかしなかった小さな生き物が、声を出して笑っている。
その成長の一瞬一瞬を、二人で見ている。見逃さずに、見ている。
研修で戸田が言った「愛着形成」の話を、祐樹は何度も思い出した。泣いたときにすぐ応答する大人がそばにいること。それが愛着の土台になる。
湊は泣けば、三十秒以内に誰かが来る。祐樹か冬花か、あるいは両方が。毎回。一日も例外なく。
これが保育園なら——いや、比較すべきではないと祐樹は自分を戒めた。保育園が悪いわけではない。保育士は十分に訓練されたプロフェッショナルだ。しかし、保育士一人が複数の子どもを見ている状況と、親二人が一人の子どもを見ている状況では、応答の速度が物理的に違う。
それは優劣ではない。構造の違いだ。
このプログラムは、その構造を親の側に寄せた。それだけのこと。
——でも、「それだけ」が、とてつもなく大きいのだと、祐樹は日々実感していた。




