第六話「坂道の途中で」(後編)
十二月に入り、尾道に冷たい風が吹き始めた頃、事件が起きた。
事件というほど大げさなものではない。だが、祐樹と冬花にとっては小さくない出来事だった。
支援センターに通い始めて五ヶ月。冬花は数人の母親と顔見知りになっていた。特に親しくなったのは、同い年の山本彩香という女性で、生後八ヶ月の男の子がいた。彩香は夫の転勤で尾道に来たばかりで、地元に知り合いがいなかった。冬花とは境遇が似ていた——ただし、彩香の夫は造船会社の技術者で、平日は朝七時から夜八時まで家にいなかった。
冬花と彩香は支援センターで隣同士に座ることが多くなり、LINEを交換し、たまにカフェでお茶をするようになった。子ども同士を並べて写真を撮り、育児の悩みを話し合った。
ある日、彩香がふと聞いた。
「冬花さんの旦那さん、いつも一緒にいるよね。お仕事は?」
冬花は少し迷って、正直に答えた。
「実は——特別国家公務員なの。二人とも。子育てが仕事っていう、あのプログラム」
彩香の表情が、一瞬だけ固まった。
一瞬だけ。すぐに笑顔に戻って、「ああ、ニュースで見たことある」と言った。
その一瞬を、冬花は見逃さなかった。
帰宅して、冬花は祐樹に言った。
「彩香さんに言っちゃった」
「プログラムのこと?」
「うん。——顔、ちょっと変わった。一瞬だけ」
「……どう変わった?」
「わかんない。驚いたのか、引いたのか。——でも、その後は普通だった。いつも通り話してくれた」
「じゃあ大丈夫なんじゃないか」
「だといいんだけど……」
翌週、支援センターに行くと、彩香はいつも通りの笑顔で冬花に手を振った。変わった様子はなかった。湊と彩香の息子の颯太を並べて遊ばせながら、いつもの話をした。離乳食の進み具合、夜泣きの対処法、おすすめの絵本。
だが、帰り際に彩香がぽつりと言った。
「冬花さんは、いいよね」
何気ない一言だった。笑顔で言った。悪意はなかったと思う。
「旦那さんがいつもいて、二人で見れて。——うちは私一人だから。平日は」
「……うん」
「別に羨ましいとかじゃないんだけど。——いや、羨ましいのかな。ちょっと」
彩香は笑ったが、その笑いの奥に疲れが見えた。
冬花は何も言えなかった。
◇
その夜、冬花は食卓で箸を止めたまま、しばらく黙っていた。
「彩香さんの旦那さん」と冬花が言った。「朝七時に出て、夜八時に帰ってくるんだって」
「造船だからな。シフトもあるだろうし」
「帰ってきたら疲れてて、お風呂入って寝ちゃうって。——颯太くんのお風呂も、離乳食も、寝かしつけも、全部彩香さん一人でやってるの」
「大変だな」
「大変だよ。——それが、普通なの。この国の普通」
冬花が箸を置いた。
「私、彩香さんに何て言えばいいんだろう。『大変だね』? それって、上から見てない? 自分は楽してるのに」
「楽してるわけじゃ——」
「楽してるよ。彩香さんと比べたら」
冬花の声が硬かった。
「彩香さんは一人で全部やってる。私は祐樹と二人で、しかも給料もらいながらやってる。——同じ『お母さん』なのに、条件が全然違う。それが、つらい」
祐樹は箸を置いた。
「冬花。——それは、お前が悪いんじゃない。制度の問題だ」
「わかってる」
「このプログラムに受かったのは、応募して、抽選に通って、研修を受けて、正当な手続きを経た結果だ。後ろめたく思う理由がない」
「頭ではわかってるの。でも——彩香さんの顔を見たら、頭じゃなくて胸が痛むの」
祐樹は黙った。
冬花の言っていることは感情の問題であって、論理では解決できなかった。このプログラムは正当だ。手続き的にも、理念的にも。しかし、隣に立つ友人が一人で疲弊しているのを見て平気でいられるほど、冬花は鈍くなかった。
「——俺は」と祐樹は言った。「正しいことを言えない。でも、一つだけ」
「何」
「このプログラムがもっと広がれば、彩香さんみたいな人が減る。——俺たちが成功事例になることが、巡り巡って彩香さんの次の世代を助けるかもしれない」
「……かもしれない、か」
「確証はない。でも、俺たちが潰れたら、『やっぱりあの制度はダメだ』って話になる。だから——潰れないことが仕事だ。罪悪感に潰されないことが」
冬花はしばらく黙って、それから小さく頷いた。
「……宮野さんも同じこと言ってたね。罪悪感は育児の敵だって」
「ああ」
「——ごめん。また一人で抱えかけてた」
「だから謝るなって」
「ごめん……じゃなくて、ありがとう」
◇
年の瀬が近づいた。
十二月の二十日、支援センターでクリスマス会が開かれた。スタッフが手作りのサンタ帽を用意してくれて、赤ちゃんたちの頭に乗せた。湊の頭にも赤い帽子が乗った。大きすぎて目まで隠れた。
冬花が写真を撮った。和真と菜月にも送った。
菜月から返信。穂花にもサンタ帽を被せた写真。こちらも帽子が大きすぎて顔が見えない。
「お揃いだね」と冬花が笑った。
クリスマス会の後、彩香が冬花に話しかけてきた。
「冬花さん。——この前の、ごめんね」
「え?」
「『いいよね』って言っちゃったの。あれ、嫌味に聞こえたかなと思って。そういうつもりじゃなかったの」
冬花は首を振った。
「嫌味だなんて思ってないよ。——彩香さんが大変なのは本当のことだし」
「大変なのは誰でも一緒だよ。条件が違うだけで。——冬花さんだって、知らない人からネットで叩かれたりしてるんでしょ? それだって大変じゃん」
冬花は少し驚いた。
「……知ってたの?」
「コメント欄、見ちゃった。ひどいこと書いてあった。——冬花さんはあんなこと言われる筋合いないよ。ちゃんと制度に応募して、ちゃんと子育てしてるだけなのに」
彩香の目がまっすぐだった。
「私ね、最初に冬花さんがプログラムのこと教えてくれたとき、一瞬だけ——正直に言うと、羨ましかった。ずるいって思いそうになった。でもすぐに思い直したの」
「……」
「だって、冬花さんがいい環境で子育てできてることと、私が大変なことは、別の問題でしょ。冬花さんが苦しんだら私が楽になるわけじゃない。——だったら、冬花さんには笑っててほしい。友達だから」
冬花の目が潤んだ。
「彩香さん……」
「あとね。正直に言うと、このプログラムがもっと広がってほしい。そしたら次の子のときに、うちも応募できるかもしれないから」
彩香が笑った。
「だから冬花さん。いい成功事例になってよ。頼んだよ」
冬花は泣きながら笑った。
「——うん。なる。絶対なる」
◇
年が明けた。令和十一年。
湊は生後九ヶ月になっていた。はいはいが始まった。両手両膝を使って、リビングを縦横無尽に移動する。目が離せなくなった。
テーブルの角にクッション材を貼った。コンセントにカバーをつけた。床に落ちている小さなものを片付けた。ボタン電池、クリップ、輪ゴム。誤飲のリスクがあるものを、祐樹は毎朝床を這うようにして探した。
「研修で誤飲の話、めちゃくちゃ怖かった記憶ある」
「トイレットペーパーの芯を通るサイズのものは全部危険、ってやつな」
「湊、何でも口に入れるもんね」
「味覚と触覚で世界を認識してるんだろ。——だから舐めるなとは言えない」
「言えないけどハラハラする」
はいはいの次に、つかまり立ちが始まった。ソファの縁に手をかけて、ぐいっと体を持ち上げる。足がぷるぷる震えている。バランスを崩して尻もちをつく。泣く。また立ち上がる。
何度でも立ち上がる。
その姿を見ていると、祐樹は胸が熱くなった。教えていないのに立とうとする。本能が、直立を求めている。人間という種が何百万年もかけて獲得した二足歩行への衝動が、この小さな体の中に組み込まれている。
「冬花」
「ん?」
「こいつ、すげえな」
「何が」
「立とうとしてるのが。——誰にも言われてないのに、自分で立とうとしてる」
「赤ちゃんはみんなそうだよ」
「それがすごいんだよ。みんなそうだってことが」
冬花が少し首を傾げて、それから笑った。
「あなた、時々詩人みたいなこと言うよね」
「国家公務員に詩人はいないだろ」
「いてもいいと思うけど」
◇
三月。湊が一歳になる直前に、歩いた。
最初の一歩は、夕方のリビングだった。
湊がソファから手を離した。二秒ほど、何にもつかまらずに立っていた。そして右足を前に出した。左足が続いた。
二歩。
三歩目でバランスを崩して、祐樹の胸に飛び込んできた。
「——歩いた」
祐樹の声が裏返った。
キッチンにいた冬花が振り返った。
「え!? 歩いた!?」
「歩いた。三歩。——今」
「嘘! 見てない! 見てないんだけど!」
冬花が走ってきた。湊をソファの前に立たせて、手を離した。
湊は冬花を見た。そして、また右足を出した。左足。右足。
今度は四歩。
冬花の膝にぶつかって止まった。
「——歩いた……」
冬花が湊を抱き上げた。目に涙が光っていた。
「湊! 歩いたね! すごい! すごいよ!」
湊はきゃっきゃと笑っていた。褒められている意味はわからないだろうが、二人の興奮は伝わったらしかった。
祐樹はスマートフォンで動画を撮っていなかったことを激しく後悔した。
「もう一回! もう一回やって!」
湊は不思議そうな顔をした。
その後、二人でカメラを構えて待ったが、湊は歩こうとせずにはいはいで移動した。
「……カメラ向けると歩かない」
「あるあるだって。支援センターで聞いた」
「一歩目は親だけの特権ってやつか」
「カメラに収まらなくても、目に焼き付いてるからいいよ」
冬花が湊を抱き上げて頬にキスした。
「ちゃんと見てたよ。二人とも、ちゃんと見てたからね」
◇
四月。湊が一歳を迎えた。
誕生日は四月十一日。去年の今日、分娩室で産声を聞いた。あれから一年。
冬花がケーキを手作りした。一歳でも食べられるように、食パンとヨーグルトクリームといちごで作った柔らかいケーキ。小さいが、ちゃんとケーキの形をしている。上にろうそくを一本立てた。
「ろうそく消せないでしょ。まだ」
「雰囲気だよ。雰囲気」
祐樹がろうそくに火を点けた。冬花が湊を膝に乗せた。
「はい、ふーって。——できないか。じゃあお母さんが代わりに」
冬花がろうそくを吹き消した。湊は炎が消えるのを見て、きょとんとした顔をした。冬花がスプーンでひと口すくって湊の口に運んだ。湊はもぐもぐと咀嚼して——次の瞬間、自分の手をケーキに突っ込んだ。
ぐしゃり。
ヨーグルトクリームが湊の手から溢れ、顔に塗られ、テーブルに飛び散り、冬花のシャツにも付着した。いちごが床に落ちた。
「あああ」
「あーあ。……まあいっか、一歳だもんね。——撮って撮って」
祐樹はスマートフォンで動画を撮った。クリームまみれの湊が、口の周りを白くしながら、ぐちゃぐちゃのケーキを口に運んでいる。そして笑っている。
これが。
この光景が。
一年前のあの夜、冬花がトイレで検査薬の二本線を見つめていたときに夢見たものの、答えだった。
祐樹は動画を撮りながら泣いていた。画面が揺れていた。
「祐樹、ブレブレだよ」
「うるさい。泣いてんだからしょうがないだろ」
「一歳の誕生日で父親が泣くの?」
「泣くだろ。——泣くに決まってるだろ」
冬花も泣いていた。二人とも泣きながら笑いながら、クリームまみれの湊を見ていた。
一年。
たった一年で、人間はここまで成長する。泣くだけだった生き物が、笑い、座り、立ち、歩き、食べ、手を伸ばし、世界に触れようとする。
その一年のすべてを、二人は見届けた。
一秒も見逃さなかった。
それが仕事だった。
仕事で良かった、と祐樹は思った。
これが仕事でなかったら——信金の窓口に立っている間に、湊の最初の笑い声を聞き逃していたかもしれない。初めてのはいはいを見逃していたかもしれない。最初の一歩を、動画どころか、この目で見ることすらできなかったかもしれない。
そう思うと、ぞっとした。
そしてそう思うたびに、このプログラムに応募した日の冬花の言葉が蘇った。
——子どもを産みたいのに、産めないことのほうが、ずっと不安です。
産めた。育てた。一年間、二人で。
もう「かもしれない」の話ではなかった。現実だった。クリームまみれの現実が、目の前で笑っていた。
◇
誕生日の夜、湊を寝かしつけた後。
冬花がリビングのソファで、一年分の写真をスクロールしていた。
生まれた日。退院の日。初めての沐浴。初めての笑い。百日祝い。離乳食の粥を吐き出す顔。はいはい。つかまり立ち。千光寺の猫との遭遇。今日のスマッシュケーキ。
「一年って、長いようで短いね」
「ああ」
「でも、一枚一枚の写真に、ちゃんと記憶がある。——この日何してたか、全部覚えてる」
「俺もだ」
「……これ、すごいことだと思う」
冬花がスマートフォンを胸に当てた。
「他のお母さんたちに聞くと、最初の一年の記憶がないって人、多いの。睡眠不足で朦朧としてて、気づいたら一歳になってたって。——私は、全部覚えてる。全部」
「二人でやってたからだろ」
「うん。——二人で見てたから。二人で覚えてるから」
冬花が祐樹の肩にもたれた。
「このプログラムに感謝してる。文句言われても、コメント欄で叩かれても。——湊の一年を全部見られたことだけは、誰にも否定させない」
祐樹は冬花の肩を抱いた。
「誰にも否定させない」
「うん」
「——いい成功事例になるって、彩香さんに言ったんだろ」
「言った」
「なってるよ。——俺たちは、なってる」
窓の外で、尾道水道をフェリーの灯りが渡っていった。四月の夜風が潮の匂いを運んできた。
一歳の湊が、隣の部屋で静かに眠っていた。
明日から二年目が始まる。
坂道は、まだ続いている。
第六話 了
第七話「二人目の話」に続く




