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産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


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第七話「二人目の話」(前編)

 湊が一歳半を迎えた十月、冬花がぽつりと言った。


「もう一人、いてもいいかもね」


 夕食の片付けをしていた祐樹は、皿を拭く手を止めた。


 唐突ではなかった。


 むしろ、いつ言い出すだろうと祐樹は思っていた。自分の中にも同じ気持ちがあった。ただ、冬花の体のことだから、冬花の口から出るのを待っていた。


「——いてもいい、じゃなくて、欲しいって言えよ」


「……欲しい」


「俺も」


 冬花が笑った。それだけでこの会話は成立した。二年間一緒にいると、長い議論が要らなくなることがある。



 二人目を考え始めた理由は、いくつかあった。


 まず、湊の成長。一歳半の湊は言葉が出始めていた。「まま」「ぱぱ」「にゃー」(猫のこと)「うみ」四語しかないが、その四語で世界を組み立てようとしていた。意思の疎通ができるようになると、育児のフェーズが変わる。泣き声の解読だけだった日々から、言葉のやり取りのある日々へ。


 そのぶん、余裕が生まれた。


 新生児期の壮絶さは過ぎた。夜通し眠れるようになった。離乳食は完了期に入り、大人の食事を取り分けるだけで済むことが増えた。おむつはまだだが、うんちの前に特有の顔をするようになったので、タイミングが読めるようになった。


 時間に余裕ができると、体に余裕ができる。体に余裕ができると、心に余裕ができる。心に余裕ができると——もう一人、という想像が自然に浮かぶ。


 これがプログラムの設計意図なのだろうと、祐樹は思った。追い詰められた状態で「もう一人」とは思えない。ゆとりがあるから思える。金銭的なインセンティブだけではない。時間と体力と精神の余白が、次の子どもを望む心を作る。


 そして、もう一つの理由。


 湊自身が、それを求めているように見えた。



 支援センターで、湊は他の子どもと遊ぶようになっていた。


 と言っても、一歳半の子ども同士の「遊び」は平行遊びだ。隣に座って、それぞれが別のことをしている。でも時折、湊が隣の子のおもちゃに手を伸ばしたり、隣の子が湊の積み木を取ったりする。取られると湊は泣く。取ると相手が泣く。


 そのたびに冬花が仲裁に入った。


「湊、これは颯太くんのだよ。——こっちで遊ぼう」


 彩香の息子の颯太と湊は月齢が近く、支援センターではいつも近くにいた。颯太が泣くと湊が不思議そうな顔で見つめ、湊が笑うと颯太もつられて笑うことがあった。


「この二人、気が合うかもね」と彩香が言った。


「将来、友達になるかもね」と冬花が返した。


 友達。


 湊にとって、家の外に存在する同年代の人間。兄弟ではない、他者。


 だが、もし兄弟がいたら——家の中に、最初から「他者」がいる。


 祐樹は自分の弟のことを思い出した。三つ下の弟。子供の頃は毎日喧嘩した。おもちゃの取り合い、テレビのチャンネル争い、おやつの配分。親にとっては迷惑だっただろうが、あの喧嘩の中で祐樹は「自分の思い通りにならないことがある」と学んだ。


 相手には相手の意思がある。それを力ずくで押し通すと泣かれる。泣かれると気まずい。だから交渉する。「じゃあ半分こにしよう」その原体験が、大人になった今も祐樹の行動原理に組み込まれている。


 湊にも、そういう相手がいてほしい。


 冬花は一人っ子だった。一人っ子が悪いとは思わないが、冬花自身が「兄弟がいたらどうだったんだろう」と時々こぼすことがあった。



 プログラムの規約を改めて読んだ。


 第二子以降の出産に関する条項。給与は子ども一人につき月額四万円が加算される。第一子で三十六万円。第二子で四十万円。第三子なら四十四万円。


 四十万円。


 額面四十万、手取りでおよそ三十三万。ボーナスを含めた年収は約六百四十万。信金時代には想像もつかなかった数字だった。しかもこれだけもらいながら、外で働く必要はない。


 数字の上では、二人目を産んでも生活は成り立つ。むしろ余裕が増える。


「電卓が許してくれる」と祐樹は言った。


「え?」


「昔、子どもを産むかどうか考えたとき、電卓が許してくれなかっただろ。——今は許してくれる」


 冬花がふっと笑った。


「そうだね。——電卓だけじゃなくて、時間も、体力も、気持ちも、全部許してくれてる」


「じゃあ、あとは湊に弟か妹が来ることを許してもらうだけだな」


「湊に拒否権はないでしょ」


「一歳半に民主主義は早いか」


「早いね」


 その夜、二人は久しぶりに、子作りを明確に意識して夜を過ごした。


 湊が生まれてからの一年半、夜の営みは減っていた。新生児期は睡眠優先で余裕がなく、それ以降も湊の夜泣きや生活リズムに合わせるうちに、自然と頻度が落ちた。セックスレスというほどではなかったが、「したい」よりも「眠い」が勝つ夜が多かった。


 だが、この夜は違った。


 湊を寝かしつけた後、冬花がシャワーを浴びて出てきて、祐樹の隣に座って言った。


「ねえ」


「ん」


「……しよっか」


 素朴な一言だった。ロマンチックの欠片もなかった。しかし、二年間の夫婦生活で培われた信頼が、その一言に詰まっていた。


「照れんなよ」


「照れてないし。業務連絡だし」


「業務連絡って何だよ」


「だって仕事でしょ。子ども作るの」


「仕事のつもりでやったら雰囲気出ないだろ」


「じゃあ仕事じゃないってことで」


「どっちだよ」


 冬花が笑って、祐樹の胸に額を押し当てた。


「——どっちでもいい。あなたとしたいだけ」


 祐樹は冬花の背中に手を回した。産前より少しだけ柔らかくなった体。授乳で変わった胸の形。腹部に薄く残った妊娠線。そのすべてが、一年半の証だった。


 冬花の肌に触れるとき、祐樹は毎回思う。この体が湊を作った。十ヶ月かけて育て、十二時間かけて産んだ。その体に触れることは、畏敬にも似た感情を伴う。


 だが同時に、単純に、妻が好きだった。


 「しよっか」と言った冬花の、恥ずかしそうな、でも嬉しそうな横顔が好きだった。


 灯りを消した。


 隣の部屋で湊が寝息を立てている。


 その寝息を子守唄にして、二人は静かに愛し合った。



 翌朝、祐樹が朝食を作っていると、冬花がリビングで湊を膝に乗せて絵本を読んでいた。


「くまさんが、ぱかっとドアを開けました。——湊、くまさんだよ。くま」


「く」


「お、惜しい。く・ま」


「くー」


「くま。もう一回。く・ま」


「くにゃ」


「……それは何」


 祐樹が笑った。冬花も笑った。湊はくにゃがウケたと思ったのか、「くにゃくにゃ」と繰り返して自分でも笑っていた。


 この光景を見ながら、祐樹は思った。


 ここにもう一人、小さいのがいる。冬花の膝の上にいる湊の隣に、もっと小さな赤ん坊がいる。


 その想像は、不思議と怖くなかった。


 一人目のときは怖かった。何もかもが未知で、研修で知識を詰め込んでも、実際に新生児を腕に抱くまで実感がなかった。


 二人目は違う。何が起きるか知っている。つわりの辛さも、陣痛の痛みも、夜間授乳の睡眠不足も、離乳食の試行錯誤も。全部経験した。怖いのではなく、大変だと知っている。知っている上で、それでも欲しいと思えている。


 それが「余裕」の正体だった。



 十一月、宮野の家庭訪問。


 定例の湊の発達チェックの後、冬花が切り出した。


「宮野さん。二人目を考えています」


 宮野の表情が、ぱっと明るくなった。


「本当ですか」


「はい。——体のこととか、タイミングとか、相談したくて」


「もちろんです。まず確認しますが、冬花さんの生理は順調に戻っていますか?」


「はい。授乳を減らしてから、毎月来てます」


「産婦人科での検診は?」


「先月行きました。問題なしって」


「であれば、医学的には問題ありません。——第一子から二年以上空けることが推奨されていますので、今から妊娠しても出産は来年の夏以降。ちょうどいいタイミングですね」


 宮野はタブレットにメモを打ちながら続けた。


「プログラム上の手続きとしては、第二子の妊娠が確認された時点で局に報告していただきます。給与の加算は出産後から適用されます。——あと、一つ」


「はい」


「上の子の赤ちゃん返り。これは覚悟しておいてください」


「赤ちゃん返り?」


「お母さんのお腹が大きくなると、上の子は何かを感じ取ります。生まれた後は、お母さんの関心が赤ちゃんに向くので、上の子が不安定になることがあります。——湊くんの場合、今ちょうど自我が芽生え始めている時期なので、反応が大きいかもしれません」


「どう対処すればいいですか」


「特別なことは必要ありません。上の子との時間を意識的に確保すること。——このプログラムの強みは、お父さんがいることです。お母さんが赤ちゃんの世話をしている間、お父さんが上の子を見る。その逆も。役割を柔軟に切り替えてください」


 祐樹は頷いた。


「もう一つ」と宮野は言った。「これは制度の話ではなく、個人的な意見ですが」


「はい」


「第二子の妊娠・出産は、第一子より精神的に楽な面と、きつい面があります。楽なのは、経験があること。きつい面は——上の子がいる状態でのつわり、出産、新生児育児です。一人目のときは二人で一人を見ていましたが、二人目は二人で二人を見ることになる」


「……人手が足りなくなる」


「算数的にはイーブンですが、上の子のイヤイヤ期と赤ちゃんの泣き声が同時に来ると、イーブンどころではなくなります。——覚悟というか、心構えだけは持っておいてください」


 冬花が祐樹を見た。祐樹が冬花を見た。


「大丈夫」と祐樹が言った。


「根拠は?」


「根拠はない。——でも、一人目だって根拠なくやっただろ」


 冬花が少し笑った。


「それもそうか」



 十二月。冬花の生理が遅れた。


 一人目のときのような焦りはなかった。五日遅れた朝、冬花がドラッグストアで検査薬を買ってきた。かつて自分が働いていた店。今は別のスタッフがレジに立っている。


 トイレに入って、出てきた。手にはスティック。


 二本線。


「——また二本」


 冬花の声は落ち着いていた。一人目のときは泣いた。今回は泣かなかった。代わりに、深く、長い息を吐いた。


「できた。——二人目」


 祐樹は冬花を抱きしめた。今度はお腹が大きくないので、ちゃんと腕が回った。


「よし」


「よし、って」


「よし、だろ。——おめでとう」


「おめでとう。——私たちに」


 湊がリビングからてててと走ってきた。二人が抱き合っているのを見て、自分も混ざりたかったのか、冬花の脚にしがみついた。


「まー!」


「湊。——あのね。お腹に赤ちゃんがいるよ」


 湊は首を傾げた。意味はわかっていない。でも冬花の声が嬉しそうだということは感じ取ったらしく、にっこり笑って「あーちゃん?」と言った。


「——今、赤ちゃんって言った?」


「言ったよね?」


「あーちゃん、って」


「赤ちゃん、のことかな」


 偶然かもしれない。一歳八ヶ月の語彙にしては出来すぎている。でも二人はそう解釈することにした。


「そう。赤ちゃん。——湊のきょうだいだよ」


 湊は「あーちゃん」ともう一度言って、冬花のお腹をぺちぺちと叩いた。


「叩かないで。優しくね」


 冬花が湊の手を取って、お腹にそっと当てた。


「ここにいるの。まだ小さいけど」


 湊はしばらくお腹に手を当てていた。何を感じたのか、何も感じなかったのか。ただ、手を離したあとに、にこっと笑った。

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