第七話「二人目の話」(後編)
年が明けて、令和十二年。
冬花のつわりが始まった。
一人目のときと同程度——つまり、きつかった。白米の匂いがまただめになった。炊飯器が再び押入れに収納された。
しかし、一つ決定的に違うことがあった。
湊がいる。
一人目のつわり期間中、冬花は横になっていればよかった。今回は、一歳九ヶ月の幼児が家の中を走り回っている。
「まー! まー! くにゃ!」
湊が絵本を持って冬花に突進してきた。冬花はソファで横になっていて、吐き気を堪えていた。
「……ごめん湊、お母さん今ちょっと——」
「くにゃ! くにゃよんで!」
祐樹がキッチンから走ってきて、湊を引き受けた。
「湊、こっち来い。父ちゃんが読む」
「やー! まーがいい!」
「母ちゃんは休憩中。父ちゃんで我慢しろ」
「やー!」
湊が泣いた。冬花が起き上がろうとした。祐樹が制した。
「寝てろ。俺がやる」
「でも湊——」
「泣いても死なない。まず吐くな。お前が先だ」
祐樹は泣きじゃくる湊を抱えてリビングに移動した。絵本を開いて読み始めた。湊は最初はぎゃんぎゃん泣いていたが、三ページ目あたりから声が小さくなり、五ページ目で絵を指差し始めた。
「くにゃ」
「うん、くまさんだね」
「くにゃ、ぱかっ」
「そう、ドアをぱかっと開けました」
十分後、湊は祐樹の膝の上で眠っていた。
祐樹はそっと息を吐いた。
これが宮野の言っていた「二人で二人を見る」ということか。一人が倒れたら、もう一人がすべてを引き受ける。余裕はなくなる。でも、破綻はしない。
もし冬花が一人だったら。つわりで吐きながら、泣く一歳児をあやさなければならなかったら。
想像しただけで、寒気がした。
◇
つわりは今回も十三週で収まった。冬花の体質なのかもしれない。白米が復活し、炊飯器が再び定位置に戻った。
二月。安定期に入った。性別は——
「女の子ですね」
エコーの画面を指して、医師が言った。
冬花が祐樹の手を握った。
「女の子」
「女の子」
「——名前」
「考えてなかった」
「嘘でしょ」
「いや、男の子だと思ってたから。また」
「根拠のない直感は一回限りにしてよ」
帰り道、海沿いを歩きながら二人で名前を考えた。湊はバギーの中でりんごのおやつを食べていた。
「海にちなんだ名前って言ったよね。湊のとき」
「ああ。この街で育つから」
「女の子で、海に関係する名前。——渚は?」
「前に出たな。湊のとき、男の子だったら渚って言って、女の子っぽいって却下されたやつ」
「女の子だから今度こそぴったりじゃない?」
「高瀬渚。——いいかもな」
「響きがいいよね。なぎさ」
「湊と渚。港と渚。——海繋がりだ」
冬花が嬉しそうに頷いた。
「決まり?」
「決まり。——湊、聞いた? きょうだいの名前、渚だよ」
湊はりんごをかじりながら「なーさ?」と言った。
「渚。な・ぎ・さ」
「なぎー」
「惜しい。——まあいいか」
◇
四月。湊が二歳の誕生日を迎えた。
去年と同じく冬花がケーキを手作りした。今年は湊が自分でスプーンを持って、クリームをすくって口に運び、「おいちー」と言った。
「おいちーね。——お母さんが作ったんだよ」
「まーの?」
「うん」
「ぱーも?」
「お父さんはいちごを切りました」
「いちご!」
湊がいちごを掴んで口に入れた。赤い汁が顎を伝った。冬花がガーゼで拭いた。
冬花のお腹は目立ち始めていた。妊娠六ヶ月。湊は冬花のお腹を見て「なぎー?」と聞くようになった。お腹の中にいるのが「なぎー」だと、なんとなく理解しているらしかった。
だが、宮野が予告した赤ちゃん返りも始まっていた。
冬花がお腹をさすっていると、湊が割り込んできて冬花の膝に乗ろうとする。お腹が大きくて膝に乗りにくくなっているのに、強引によじ登る。冬花が「お腹ぶつけないでね」と言うと、湊の表情が曇る。
「やだ。まーの」
「お母さんはどこにも行かないよ。——湊のお母さんだよ」
「なぎーいらない」
冬花が一瞬、言葉を失った。
二歳の子どもの「いらない」に悪意はない。ただ、母親の関心が自分以外に向くことへの純粋な不安が、語彙の少ない口から「いらない」という形で出ただけだ。
頭ではわかっている。でも、お腹の子を「いらない」と言われた衝撃は小さくなかった。
夜、冬花が泣いた。
「湊に嫌われたくない」
「嫌ってないよ。不安なだけだ」
「わかってる。でもつらい」
祐樹は冬花の肩を抱いた。
「明日から、俺が湊と過ごす時間を増やす。冬花は渚のことに集中していい。——湊には俺が愛情を注ぐ。足りないぶんは全部俺がやる」
「足りないなんて——」
「足りてるよ。冬花の愛情は足りてる。——でも湊は今、独占したいんだ。お母さんの全部を。それが無理なら、父ちゃんの全部で代用する」
「代用って」
「言い方が悪かった。——父ちゃんの全部を追加で投入する」
冬花が鼻で笑った。涙声だったが、笑いが混じっていた。
「追加投入って、予算みたい」
「国家公務員だからな。予算の話は得意だ」
◇
翌日から、祐樹は意識的に湊との二人の時間を作った。
朝食後、冬花が横になっている間に、湊を連れて散歩に出た。千光寺の坂道を上る。湊はもう自分の足で歩ける。転びながら、石段を一段ずつ上る。祐樹は後ろからついていく。
「ぱー、ねこ!」
「お、いるな。坂の主」
茶トラの猫が塀の上にいた。湊は猫に向かって手を振った。猫は尻尾を揺らして応えた。友達になれたのかもしれない。
「ぱー、うみ!」
「海だな。——きれいだろ」
「きれー」
展望台から見下ろす瀬戸内海。湊の語彙に「きれい」が加わったのは先週のことだった。冬花が夕焼けを見て「きれいだね」と言ったのを、そのまま覚えたらしい。
「湊。こっち来い」
祐樹が座ると、湊がよじ登ってきて膝の上に座った。
「ぱー」
「ん」
「なぎーくる?」
「……うん。来るよ。お母さんのお腹の中にいるの、もうすぐ出てくるよ」
「いつ?」
「夏になったら」
「なつ?」
「暑くなったら」
「あちー?」
「そう。あちーときに」
湊はしばらく考えるような顔をした。二歳児に「考える」という行為がどこまで成立しているのかわからないが、何かを処理している顔だった。
「なぎー、ちっちゃい?」
「うん。すごく小さい。湊よりずっと」
「ぼくがおにーちゃん?」
祐樹は目を見開いた。
「——そうだよ。湊がお兄ちゃんだ」
「おにーちゃん」
湊が自分を指差した。
「ぼく、おにーちゃん」
「そうだ。立派なお兄ちゃんだ」
湊がにっと笑った。何かを決意したような、しかし二歳児らしく一瞬で忘れそうな、曖昧な決意の笑顔だった。
祐樹は湊を抱きしめた。
こいつは大丈夫だ、と思った。根拠のない直感。冬花に笑われるやつ。でも、そう思った。
◇
七月。予定日が近づいた。
今回は冬花の母が尾道に来てくれることになった。出産前後の二週間、湊の世話を手伝ってくれる。プログラムの制約に保育園の利用禁止はあるが、祖父母の手助けを禁じる条項はない。
冬花の母——高瀬家から見て義母の片岡節子は、六十一歳。広島市内で一人暮らしをしている。元小学校教員で、退職後はゆったり過ごしていた。
「節子さん、来てくれるんですか。助かります」と祐樹が電話で言うと、節子は笑った。
「当たり前でしょう。孫の顔を見たいし、湊くんとも遊びたいし。——あなたたち二人だけで頑張りすぎよ。甘えなさい」
甘える。
研修のときに三島が言った。「助けを求めることは、仕事の放棄ではありません」。祖母の手を借りることは、プログラムの理念に反しない。むしろ、拡大家族のサポートを受けることは、人類が数百万年間やってきた子育ての原型だ。核家族だけで子育てを完結させるほうが、進化的には異常なのだと、戸田が研修で言っていた。
◇
七月十八日。
陣痛が来た。
今回は朝だった。午前六時、冬花が「来た」と言った。前回の経験があるので、二人とも冷静だった。間隔を計り、病院に電話し、車を出した。
湊は節子に預けた。玄関で湊が「まー?」と不安そうな顔をした。冬花がしゃがんで湊の頭を撫でた。
「お母さん、赤ちゃん産んでくるね。——おばあちゃんと待っててね」
「まーいっちゃう?」
「すぐ帰ってくるよ。——なぎーと一緒に」
「なぎー?」
「うん」
湊が冬花のお腹に手を当てた。ぽんぽんと軽く叩いた。
「なぎー、ばいばい」
冬花の目から涙がこぼれた。
「——行ってきます」
◇
二回目の出産は、七時間で終わった。
経産婦は初産より早い。それでも痛みは同じだった。冬花は叫び、祐樹は手を握り、腰を押し、平気な顔をした。今回は本当に平気な顔ができた。経験の力だった。
午後一時三十三分。
高瀬渚、誕生。体重二千九百八十グラム。身長四十八センチ。
女の子。
産声が分娩室に響いたとき、祐樹は泣かなかった。一人目のときとは違う。涙の代わりに、深い安堵が胸に広がった。
冬花の胸の上に渚が載せられた。湊のときと同じく、しわくちゃで赤くて小さかった。しかし、泣き方が違った。湊は怒ったように泣いた。渚はふえふえと、控えめに泣いた。
「……おとなしい子かも」
「まだわかんないだろ」
「でも声が違う。湊より柔らかい」
冬花が渚の頬に唇を寄せた。
「渚。——ようこそ」
◇
二日後。
節子が湊を連れて病院に面会に来た。
湊は病室に入ると、ベッドの上の冬花を見つけて走った。
「まーっ!」
「湊! 来てくれたの。——会いたかったよ」
冬花が湊を抱きしめた。湊が冬花にしがみついた。丸一日以上離れたのは初めてだった。
「まーいなかった。さみしかった」
「ごめんね。もう一緒だよ」
湊が冬花から離れて、ベッドの横のコットを覗き込んだ。そこに渚が眠っていた。
湊の動きが止まった。
小さな、本当に小さな人間が、白い布に包まれて寝ている。目を閉じて、拳を握って、すうすうと息をしている。
「……なぎー?」
「そうだよ。渚だよ。——湊の妹」
湊はしばらくじっと渚を見ていた。
手を伸ばした。
冬花が「優しくね」と言った。
湊の小さな指が、渚のもっと小さな手に触れた。
渚の手が、反射的に湊の指を握った。把握反射。祐樹が湊に初めて触れたとき、同じことが起きた。
湊が息を飲んだ。
「——にぎった」
「うん。握ってくれたね」
「なぎー、ぼくのことにぎった」
湊の目が丸くなった。驚きと、嬉しさと、よくわからない何かがごちゃ混ぜになった顔。
「ぱー。なぎーが、にぎった」
「ああ。——握ったな」
湊は渚の手をじっと見つめていた。自分の指を握る、渚の指。小さすぎて、ほとんど見えないような指。
「おにーちゃん」
湊が自分を指差した。
「ぼく、おにーちゃん」
冬花が泣いた。節子も泣いた。祐樹は泣かないつもりだったが、だめだった。
二歳の男の子が、生まれたばかりの妹の手を握って、「おにーちゃん」と言っている。
その光景を見て、泣かない父親はいない。
◇
退院の日、四人で——家族四人で——アパートに帰った。
玄関を開けて、リビングに入った。ベビーベッドが一つ増えていた。湊のときのものと、渚のために新しく買ったもの。二つのベビーベッドが並んでいる。
湊が自分のベッド——もう使っていないが——と渚のベッドを見比べて言った。
「なぎーのは、ちっちゃい」
「湊のとき使ってたのは、もう大きくなったから必要ないんだよ」
「ぼくおおきい」
「そう。大きくなったね」
湊が渚のベッドの柵に手をかけて、中を覗き込んだ。渚は眠っていた。
「しー」
湊が自分の口に人差し指を当てた。
「なぎー、ねんねしてるから、しー」
冬花が祐樹を見た。祐樹が冬花を見た。
大丈夫だ。
この家族は、四人で大丈夫だ。
宮野の言葉を思い出した。「上の子との時間を意識的に確保すること」。赤ちゃん返りの不安。「なぎーいらない」と言った日。あの日から半年。湊はお兄ちゃんになろうとしている。二歳の、小さなお兄ちゃんに。
窓の外に、夏の尾道が広がっていた。蝉が鳴いていた。海がきらきら光っていた。
冬花が渚を抱いてソファに座り、授乳を始めた。祐樹は湊を膝に乗せて、絵本を開いた。
それぞれの場所に、それぞれの温もりがあった。
四人分の呼吸が、小さなアパートを満たしていた。
高瀬家の「業務」は、倍になった。
そして、幸福も倍になった。
第七話 了
最終話「桜と入学通知」に続く




