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産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


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最終話「桜と入学通知」(前編)

 令和十六年。三月。


 尾道の桜が咲き始めた。


 千光寺公園のソメイヨシノは、瀬戸内海を背にして咲く。薄桃色の花びらが海風に舞い、坂道を下り、石段に積もり、猫の背中に降る。毎年同じ光景のはずなのに、毎年違って見える。見ている人間が変わるからだ。


 高瀬祐樹、三十三歳。


 高瀬冬花、三十一歳。


 高瀬湊、六歳。


 高瀬渚、四歳。


 四人で坂道を上っていた。


 先頭は湊だった。石段を二段飛ばしで駆け上がる。六歳の足はもう坂道をものともしない。尾道の子は坂で育つ。足腰が強い。湊の脚は細いが、筋肉が見えるほどよく走った。


「湊、待って! 渚が追いつけない!」


 冬花が声をかけた。


 渚は冬花の手を握って、一段ずつ慎重に上っていた。四歳の足には、この石段はまだ高い。一段上がるごとに、えいっ、と小さく声を出す。


「にーに、はやい」


「渚が遅いんだよ」


 湊が振り返って言った。しかし、言ったあとにすぐ戻ってきて、渚のもう片方の手を取った。


「ほら。引っ張ってやるから」


「にーに、いたい。ひっぱりすぎ」


「力加減がわかんないんだよ。我慢しろ」


「やー」


「やーじゃない」


 祐樹は後ろから二人を見ていた。


 この光景が好きだった。湊が渚の手を引くとき、力が強すぎて渚が嫌がり、でも手は離さない。渚が転びそうになると湊が反射的に支える。そのたびに渚が「にーに」と呼ぶ。湊が「はいはい」と生意気に返す。


 六年前、冬花の腹の中にいた湊が、今、妹の手を引いている。


 四年前、分娩室で控えめに泣いた渚が、今、兄の手を握って坂道を上っている。


 時間が経ったのだ。確実に、不可逆的に。



 千光寺の展望台に着いた。


 桜は五分咲き。まだ満開ではないが、枝の先々に花がほころんでいた。展望台のフェンスの向こうに、瀬戸内海が春霞の中に広がっていた。


 湊がフェンスに寄りかかった。


「海きれい」


「ああ。きれいだな」


「学校からも海見える?」


「——見えるよ。教室の窓から」


 湊が通う小学校は、海が見える丘の上にあった。来月から、湊はそこに通う。


 入学通知書が届いたのは、二月の初めだった。


 尾道市教育委員会からの封筒。祐樹がポストから取り出して、リビングのテーブルに置いた。冬花がはさみで開封した。中には一枚の紙が入っていた。


 令和十六年四月一日付をもって、下記の学校に入学すべき旨を通知します。


 冬花はその紙を持ったまま、しばらく動かなかった。


「——小学校だって」


「ああ」


「湊が、小学校に行くんだって」


「……ああ」


 二人とも、わかっていたことのはずだった。六歳になれば小学校に入る。日本国憲法が保障する教育を受ける権利。義務教育の始まり。来ることがわかっていた日だ。


 それでも、その紙を手にしたとき、冬花の目が赤くなった。祐樹の喉も詰まった。


 六年間。


 湊が生まれてから六年間、二人はこの子のそばにいた。一日も欠かさず。最初の笑い。最初の寝返り。最初のはいはい。最初の一歩。最初の言葉。最初の「おにーちゃん」。そのすべてを、二人の目で見てきた。


 その六年間が、この紙一枚で区切られる。


 来月から湊は朝八時に家を出て、午後三時に帰ってくる。その七時間、湊は親の手の届かない場所にいる。先生がいて、同級生がいて、校庭があり、教室がある。湊が自分の足で歩いていく、親のいない世界。


 六年間、ずっとそばにいた。それが終わる。


 終わるのではない、と祐樹は自分に言い聞かせた。次の段階に進むのだ。


 でも、寂しかった。



 展望台のベンチに座って、冬花が持ってきた水筒から麦茶を注いだ。湊と渚にも渡した。渚はコップを両手で持って、ふーふーしてから飲んだ。冷たい麦茶にふーふーする必要はなかったが、渚は何にでもふーふーする。冬花の真似だった。


「にーに、さくら」


 渚が上を指差した。花びらが風に乗って、ひらひらと落ちてきた。湊が手を伸ばして一枚つかまえた。


「見て、父ちゃん」


「おお。きれいだな」


「渚にあげる」


 湊が花びらを渚の掌に乗せた。渚はそれをしばらく見つめてから、大事そうに握った。


「にーに、ありがと」


「いらなくなったら返せよ。桜の花びらだから」


「やー。渚の」


「あげたばっかだろ。もういいけど」


 冬花が隣で笑っていた。祐樹は冬花の横顔を見た。三十一歳の冬花。面接のときの二十四歳から、七年が経っている。顔つきが変わった。柔らかくなったと思う。目尻に小さな笑い皺ができた。笑い皺なのだから、笑った回数だけ刻まれたということだ。


「冬花」


「ん?」


「七年前のこと、覚えてる?」


「七年前って——面接?」


「ああ」


「覚えてるよ。——赤ちゃん連れのお母さんの話をしたの」


「ドラッグストアの」


「うん。レジで、お母さんが『すみません、すみません』って謝ってたって話」


「覚えてるんだな」


「忘れるわけないでしょ。——あの話で、受かったと思ってるもん」


 祐樹は少し笑った。


「あのとき、冬花が言ったこと」


「何?」


「泣いていいんだよって。子どもは泣くのが仕事なんだよって。そう言える親になりたいって」


「……言ったね」


「なれたか?」


 冬花は渚を見た。渚は桜の花びらを握ったまま、ベンチの上で足をぶらぶらさせていた。湊は展望台の端っこで、海に向かって何か叫んでいた。聞き取れない。たぶん「やっほー」の類だ。


「——わかんない」と冬花は言った。「完璧な親にはなれてないと思う」


「完璧な親は存在しないって、三島先生が言ってた」


「覚えてるんだ」


「忘れるわけないだろ。——俺たちの研修の初日だぞ」


「そうだね。……でも、一つだけ」


「ん」


「湊が泣いてるとき、一回も『泣くな』って言わなかった。——それだけは、ちゃんとやれた気がする」


 祐樹は頷いた。


 湊は泣き虫だった。転んで泣き、ぶつけて泣き、渚におもちゃを取られて泣き、カブトムシが死んで泣き、嬉しくても泣いた。そのたびに祐樹と冬花は「泣いていいよ」と言った。「泣くな」とは言わなかった。一度も。


 それは意識してやっていたことだった。面接の日に冬花が言ったことを、二人の間の約束として、六年間守り続けた。


 湊は泣き虫のまま六歳になった。でも、泣いたあとに自分で涙を拭いて「もう大丈夫」と言える子になった。泣くことを禁じられなかった子は、泣いたあとに立ち直る力を自分で見つける。戸田の乳幼児心理学の講義で聞いた話が、六年の歳月をかけて証明された。



 坂道を下りながら、祐樹は七年間を思った。


 アパートは同じだった。少し手狭にはなったが、引っ越すほどではなかった。この坂の街が好きだったし、子どもたちもこの街で育った。湊は坂道の猫——あの茶トラはまだ健在だった——を「トラ先輩」と呼んでいた。渚は海を見ると「きらきら」と言った。


 お金の心配は、プログラムのおかげでなかった。


 月額四十万円。手取り三十三万。ボーナス込みの年収六百四十万。尾道の物価なら、四人家族で十分すぎる金額だった。祐樹は毎月少しずつ貯金もしていた。子どもたちの教育資金。大学に行きたいと言ったときのために。


 七年間、祐樹は一円も稼いでいない。外貨を獲得していない。GDPに貢献していない。経済学的に言えば、祐樹は「非生産的」な存在だ。


 だが、二人の人間を育てた。


 ゼロから作った。受精卵から始まって、細胞分裂を経て、産声を上げ、乳を飲み、粥を食べ、言葉を覚え、歩き、走り、笑い、泣き、怒り、喜び、今こうして自分の足で坂道を下りている二人の人間を。


 それが「生産」でなくて、何が生産だろう。


 祐樹はかつて信用金庫の窓口で、一日に何十枚もの書類を処理していた。定期預金の受付。住宅ローンの審査書類。振込伝票。判子。それが「仕事」で、それで手取り十九万をもらっていた。


 今、祐樹の仕事は、湊の靴紐を結び、渚の髪を縛り、朝食に卵焼きを焼き、夜は絵本を読み、熱が出たら額にタオルを載せ、転んだら抱き上げ、泣いたら背中をさすり、笑ったら一緒に笑うことだ。


 どちらが「仕事」として価値があるか。


 祐樹の答えは決まっていた。


 世間の答えはまだ割れていた。



 三月の末、入学式の前の週に、宮野が最後の家庭訪問に来た。


 最後、というのは語弊がある。プログラム自体は湊が成人するまで続く。ただ、宮野の担当保健師としての任期が、今月で終わるのだった。


「人事異動です。四月から広島市の保健センターに移ることになりました」


 冬花が「え」と声を上げた。


「嘘でしょ。宮野さん、いなくなるの?」


「いなくなるわけじゃないですよ。後任の保健師が引き継ぎます。——でも、高瀬さんのところはもう大丈夫でしょう」


「大丈夫って——」


「六年間、見てきましたから。この家庭は大丈夫だと、私が保証します」


 宮野はほうじ茶を飲んだ。湊がドタドタと走ってきて、宮野の隣に座った。


「みやのさん、また来る?」


「湊くん。——おばさんは来月から別のところでお仕事するの。だから、来れなくなるかもしれない」


「えー」


「でもね。湊くんのことはずっと応援してるよ」


「おうえん?」


「そう。遠くからでも、がんばれって思ってるってこと」


 湊はしばらく考えて、「じゃあまた来て」と言った。


 宮野の目がわずかに潤んだ。


「——ありがとう。湊くん」


 渚が割り込んできた。宮野の膝に手を置いて、じっと顔を見た。


「みやのさん、渚のことも?」


「もちろん。渚ちゃんのことも応援してるよ」


「やった」


 渚がにっこり笑った。宮野が渚の頭を撫でた。


 子どもたちが部屋に戻った後、宮野は祐樹と冬花に向き直った。


「改めて——六年間、お疲れさまでした。いえ、お疲れさまは変ですね。まだ続くんですから。でも、一つの区切りとして」


「宮野さんにはお世話になりました」と祐樹が言った。


「こちらこそです。——正直に言うと、担当八組の中で、一番安心して見ていられた家庭です。高瀬さんのところは」


「優秀でしたか、俺たち」


「優秀、というより——誠実でした。お互いに対しても、子どもたちに対しても、制度に対しても」


 宮野がタブレットを鞄にしまいながら言った。


「このプログラムの第一期生は全国で約三百組。六年間で脱落した家庭もあります。離婚、育児放棄、契約違反。——少数ですが、ゼロではなかった」


「……そうですか」


「でも、大多数はうまくいっています。子どもが生まれ、育ち、社会に出ようとしている。来月、第一期生の子どもたちが一斉に小学校に入学します。全国で約三百人。——それだけの子どもたちがこの世に生まれたことは、このプログラムの成果です」


 冬花が静かに言った。


「三百人は、多いですか? 少ないですか?」


「数だけ見れば、少子化対策としてはまだ焼け石に水です」宮野は正直に答えた。「でも、第二期生、第三期生と続いています。予算が増えれば規模も広がる。——大事なのは、この制度が機能することを証明した第一期生の存在です。高瀬さんたちの存在です」


 祐樹は彩香の言葉を思い出した。「いい成功事例になってよ。頼んだよ」。


「なれましたかね。成功事例に」


「なっていますよ。——間違いなく」


 宮野は靴を履いて、玄関に立った。


「最後に一つだけ」


「はい」


「入学式のあと、もし時間があったら——千光寺の展望台に行ってみてください。桜がちょうど満開のはずです」


「千光寺ですか」


「六年前の春、お二人がよく散歩していた場所です。——初回訪問のときに聞きました。散歩コースは千光寺ですって」


 冬花が鼻をすすった。


「覚えてて、くれたんですね」


「六年間の記録は全部ここに入っています」宮野がこめかみを指差した。「タブレットじゃなくて、こっちに」


 宮野が笑った。冬花が泣き笑いの顔をした。祐樹は頭を下げた。深く。


「ありがとうございました」


「こちらこそ。——湊くんと渚ちゃんによろしく」


 宮野は坂道を下りていった。灰色のカーディガンの背中が、桜の花びらの中に小さくなっていった。

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