表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
産めよ育てよ国のため  作者: 物語創造者≪イマージェン・クリエイター≫


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

16/16

最終話「桜と入学通知」(後編)

 四月八日。入学式の朝。


 祐樹は六時に起きた。冬花はもう起きていて、キッチンに立っていた。


「早いな」


「眠れなかった。——遠足の前の子どもみたい」


「遠足に行くのは湊だけどな」


「親のほうが緊張してるってこと」


 朝食はいつもより少し豪華にした。卵焼き、鮭の焼き魚、味噌汁、白米。白米は冬花が炊いた。七年前、つわりで炊けなかった白米。今は毎朝、当たり前のように炊いている。


 湊が起きてきた。パジャマ姿で、髪が跳ねていた。


「きょう、がっこう?」


「そう。今日から小学生だよ」


「……ちょっとこわい」


「怖いの?」


「知らない人いっぱいいるから」


 冬花がしゃがんで、湊の目を見た。


「大丈夫だよ。すぐ友達できるよ」


「できなかったら?」


「できるよ。湊は優しい子だから」


「……おかあさんがそう言うなら」


 湊が少し笑った。二十四歳の冬花が面接で見せたのと同じ種類の、不安を飲み込んだ上での笑顔だった。親子は似る。


 渚が起きてきた。目をこすりながら、リビングに入ってきて、食卓に座った。


「にーに、きょうがっこう?」


「そう」


「渚もいく」


「渚はまだ。四歳だから」


「やー。渚もいく」


「来年な。来年」


 渚がむくれた。冬花が「来年ね。渚ちゃんも来年」と宥めた。渚は不満そうだったが、鮭の焼き魚を見て機嫌が直った。渚は魚が好きだった。海の街の子らしい嗜好だった。



 八時。湊が制服に着替えた。


 尾道市立の小学校には制服がある。紺色の上着に半ズボン、白いシャツ。ランドセルは赤でも青でもなく、湊が自分で選んだ深緑だった。「海の色に近いやつがいい」と言って、五つの候補の中から迷わず選んだ。


 冬花がランドセルを湊の背中に載せた。肩紐を調整した。少し大きかった。六歳の背中にはまだ余裕がある。六年間かけて、ぴったりになるように作られている。


「——重くない?」


「ちょっと重い」


「中身は今日は何も入ってないから軽いよ。明日から教科書入るともっと重くなるけど」


「もっと重くなるの?」


「大丈夫。すぐ慣れるよ」


 冬花が湊の襟を直した。シャツの第一ボタンを留めようとして、湊が「くるしい」と言ったので、開けたままにした。


 玄関の姿見の前に立たせた。湊が自分の姿を見た。


 紺の制服。白いシャツ。深緑のランドセル。黄色い交通安全の帽子。


「……小学生だ」


 湊が呟いた。自分で言って、自分で驚いたような顔をした。


「小学生だよ」と祐樹が言った。


「かっこいいよ、湊」と冬花が言った。


「にーに、かっこいー!」と渚が言った。


 湊の耳が赤くなった。照れている。六歳の男の子は、もう照れるということを知っている。


「行くか」


 祐樹が玄関のドアを開けた。


 四月の朝の光が差し込んだ。坂道の向こうに、桜が見えた。



 小学校までの道は、坂を下り、商店街を抜け、もう一つの坂を上る。大人の足で十五分。子どもの足なら二十分。


 四人で歩いた。


 湊が先頭。ランドセルが左右に揺れる。まだ歩き方がぎこちない。背中の重みに慣れていない。


 渚が冬花の手を握って歩く。「にーにはやい」と文句を言いながら。


 祐樹は最後尾。四人の背中を見ている。


 商店街のおばさんが「あら、湊くん、今日入学式? おめでとう!」と声をかけてくれた。魚屋の大将が「立派になったなあ」と目を細めた。八百屋の奥さんが「お母さんも泣かんようにね」と冬花に言った。冬花は「もう泣いてます」と笑った。本当に泣いていた。


 この街で、四人は生きてきた。スーパーのレジの人も、郵便局の窓口の人も、支援センターのスタッフも、湊と渚を知っている。尾道という街が、四人を見守ってきた。


 坂を上ると、小学校の門が見えた。桜が門の両脇に立っていて、満開だった。花びらが風に舞い、登校してくる子どもたちの頭に降り注いでいた。


 門の前で、祐樹は立ち止まった。


 ここから先は、湊が自分で歩く場所だ。


「湊」


「ん?」


「——行ってこい」


 湊が振り返った。ランドセルの重みで少しよろけた。


「おとうさん、来ないの?」


「式には行くよ。でも、門から教室までは自分で歩け」


 湊は少し不安そうな顔をした。周りには同じ年頃の子どもたちが歩いている。知らない顔ばかりだ。


「——怖い?」


「ちょっと」


「だよな。——でも、大丈夫だ」


「なんで?」


 祐樹はしゃがんで、湊の目の高さに顔を合わせた。


「お前は六年間、泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑って、転んだら自分で立ち上がって、妹の手を引いてやれる子に育った。——それができるやつは、大丈夫だ」


 湊の目が潤んだ。唇が震えた。泣きそうだった。


「泣いていいぞ。泣くなとは言わない。——でも、泣いたあとに歩け。それだけだ」


 湊は目をぎゅっと閉じた。三秒。五秒。


 目を開けた。涙は流れなかった。堪えたのではなく、飲み込んだのだ。自分で。


「——行ってきます」


 湊が言った。


 小さな背中が、桜の下を歩いていった。ランドセルが揺れていた。黄色い帽子が花びらの中に混じっていた。


 冬花が祐樹の腕を掴んだ。爪が食い込んでいた。


「泣いていい?」


「泣け」


 冬花が泣いた。声を殺して泣いた。渚が冬花の手を握ったまま、「おかあさん、ないてる」と不思議そうに言った。


 祐樹も泣いていた。


 隠すつもりはなかった。宮野に「平気な顔をしていてください」と言われた日から七年。もう平気な顔をする必要はなかった。


 湊の背中が校舎の入り口に吸い込まれていった。


 見えなくなるまで、祐樹は目を離さなかった。



 入学式は体育館で行われた。


 新入生が名前を呼ばれて返事をする。「高瀬湊くん」。「はいっ」。湊の声は、体育館の中でよく響いた。


 祐樹は保護者席で、その声を聞いた。


 六年前、産声しか出せなかった人間が、自分の名前を呼ばれて返事をしている。


 それだけのことが、奇跡だった。


 冬花は隣で、ハンカチを顔に押し当てていた。渚は冬花の膝の上で、退屈そうにしていた。


 式が終わって校庭に出ると、桜の下で記念撮影の列ができていた。祐樹たちも並んだ。スマートフォンを三脚にセットして、セルフタイマーで撮った。


 四人。桜の下。湊がランドセルを背負って、渚が花びらを握って、冬花が笑って、祐樹が笑って。


 写真を確認すると、全員の目が赤かった。



 午後。


 宮野の言葉に従って、四人で千光寺に上った。


 湊はランドセルを家に置いて、私服に着替えていた。制服から解放された途端、いつもの湊に戻った。石段を駆け上がり、猫を見つけて「トラ先輩!」と叫び、渚の手を引いて走った。


 展望台に着いた。


 桜は満開だった。


 宮野が言った通りだった。千光寺の桜は瀬戸内海を背にして咲く。薄桃色の花と青い海と白い雲。六年前——いや、七年前、祐樹と冬花が初めてここに来たときと同じ景色のはずだが、今は四人で見ている。


 湊がフェンスに寄りかかった。


「ここ好き。——海が見える」


「湊の名前の海だよ」と冬花が言った。


「知ってる。お母さんとお父さんがここで決めたんでしょ。僕の名前」


「覚えてたの?」


「何回も聞いたもん」


 渚が割り込んだ。


「渚の名前は?」


「渚も海だよ。波が寄せる場所。砂浜」


「なぎさ、すなはま?」


「うん」


「渚、すなはますき」


「だから渚なんだよ」


 渚がにっこり笑った。花びらが渚の髪に落ちた。


 祐樹はフェンスに腕を載せて、海を見た。


 七年前の春。冬花と二人で、ここに立った。プログラムに採用されて、信金を辞めて、何者でもなくなった朝。子どもはまだいなくて、名前だけが風に乗って海のほうへ飛んでいった。


 あのとき飛ばした名前が、今、隣に立っている。


 肉体を持ち、声を持ち、意志を持ち、深緑のランドセルを選ぶ好みを持ち、猫を「先輩」と呼ぶユーモアを持ち、妹の手を引く優しさを持った、一人の人間として。


「——冬花」


「ん?」


「この制度は正しかったのかな」


 冬花は少し驚いた顔をした。七年間、祐樹はそういう問いを口にしなかった。批判されても、コメント欄が荒れても、「正しいかどうか」は考えないようにしてきた。ただ目の前の子どもに向き合うことだけに集中してきた。


「——わかんない」と冬花は言った。「七年前と同じ答え。正しいかどうかはわかんない」


「だよな」


「でも——」


 冬花が湊と渚を見た。二人は展望台の隅で、桜の花びらを集めていた。湊が渚のために花びらの山を作っている。渚がそれを両手ですくい上げて、空に投げている。花びらが舞い上がって、また落ちてくる。二人が笑っている。


「——あの二人が、ここにいる。それだけは正しい」


 祐樹は黙って頷いた。


 それだけは正しい。


 制度が正しいかどうか、経済合理性があるかどうか、他の家庭と公平かどうか、持続可能かどうか——そういう問いに答えを出すのは、政策立案者や経済学者や有権者の仕事だ。


 祐樹と冬花の仕事は、別のところにある。


 湊が転んだら抱き起こすこと。渚が泣いたら背中をさすること。朝ごはんを作ること。絵本を読むこと。名前を呼ぶこと。泣いていいよと言うこと。行ってこいと背中を押すこと。おかえりと言うこと。


 それが仕事だ。七年間やってきた仕事。これからも続く仕事。


 国家公務員としての仕事。


 親としての仕事。


 二つは重なっていて、でも同じではなくて、どちらが先かと問われたら——


 親のほうが先だ。給料が出なくてもやる。そう言い切れるくらいには、祐樹はこの七年間で変わった。


「ぱー! おかーさん! 見て!」


 湊が叫んだ。桜の花びらの山を指差している。


「渚のために作った! すごくない?」


「すごいすごい! お兄ちゃんすごい!」


 冬花が拍手した。渚が花びらの山に突っ込んで崩した。湊が「あーっ」と声を上げた。渚が笑った。湊も笑った。


 祐樹は二人を見ていた。


 尾道の海は今日も凪いでいた。


 桜の花びらが、坂道を下って、海まで届きそうだった。



 帰り道。


 坂を下りながら、冬花がふと言った。


「ねえ。研修最終日に三島先生がスクリーンに映したスライド、覚えてる?」


「——覚えてるよ」


「なんて書いてあった?」


「助けを求めることは、仕事の放棄ではありません」


「そう。——私たちは、たくさんの人に助けてもらったね」


「宮野さん。和真と菜月。彩香さん。冬花のお母さん。支援センターのスタッフ。産婦人科の山根さん。——数えきれない」


「うん。数えきれない」


 冬花が祐樹の腕に自分の腕を絡ませた。七年前の面接の帰り道にもそうした。日比谷公園の前で。あのときはまだ何も始まっていなかった。


「——ねえ、祐樹」


「ん」


「特別国家公務員の仕事って、何だと思う?」


「子どもを産み育てること。——辞令にそう書いてあった」


「うん。でも私、七年やってわかったことがある」


「何?」


「子どもを育ててるんじゃなくて、子どもに育てられてたんだと思う。——私たちが」


 祐樹は足を止めた。


 坂道の途中で、桜の花びらが風に舞っていた。湊と渚は少し先を歩いている。湊が渚の手を引いている。渚がよちよちついていく。


 七年前。祐樹は信金の窓口で定期預金の手続きをしていた。手取り十九万。奨学金の返済が月一万六千円。電卓が許してくれない人生。


 今。三十三歳。子どもが二人。白米が炊ける。離乳食が作れる。おむつが替えられる。夜中の三時に目を覚まして哺乳瓶を作れる。泣いている子どもを抱き上げて、泣いていいよと言える。


 人間として、七年前とは比較にならないほど成熟した。


 その成熟をもたらしたのは、研修でも制度でも給料でもなく——湊と渚だった。


「——そうだな」と祐樹は言った。「育てられてたな。俺たち」


「でしょ」


「じゃあ給料もらってる場合じゃないな。こっちが払わないと」


「何を」


「授業料。——子育ての」


 冬花が笑った。桜の花びらが冬花の髪に落ちた。


「行こう。——子どもたち、待ってる」


「ああ」


 二人は坂道を下りた。


 前を歩く湊と渚の背中が、夕日に照らされて金色に光っていた。


 尾道の海は凪いでいた。


 フェリーが汽笛を鳴らした。


 桜が舞っていた。


 四人の足音が、坂道に響いていた。



 その夜、子どもたちを寝かしつけた後。


 祐樹はリビングで一人、テーブルに向かっていた。


 スマートフォンの画面に、七年分の写真が並んでいる。生まれた日の湊。退院の日。初めての沐浴。初めての笑い。初めてのはいはい。初めての一歩。初めての言葉。渚の誕生。湊が渚の手を握った日。四人で坂道を上った日。


 そして今日。入学式。桜の下の家族写真。全員の目が赤い写真。


 祐樹はスマートフォンを閉じて、窓の外を見た。


 尾道の夜景。坂道の街灯が点々と光り、海面にその光が反射して、細い金の筋を描いている。フェリーの最終便が向島に向かっていく。


 あの面接の日、冬花が言ったことを思い出す。


 ——子どもを産みたいのに、産めないことのほうが、ずっと不安です。


 あの不安は消えた。


 代わりに別の不安が生まれた。この子たちが大きくなったとき、世界はどうなっているだろう。この制度はまだ続いているだろうか。出生率は回復しただろうか。湊が大人になったとき、子どもを欲しいと思えるような社会になっているだろうか。


 わからない。


 わからないまま、今日も明日も、ごはんを作り、絵本を読み、靴紐を結び、おかえりと言う。


 それが、高瀬祐樹の仕事だ。


 特別国家公務員の仕事であり——


 父親の仕事だ。


 寝室から、冬花の声が聞こえた。


「祐樹、早く寝ないと。明日から湊のお弁当作んなきゃいけないんだから」


「——ああ、もう寝る」


 祐樹は立ち上がった。


 灯りを消す前に、もう一度だけ窓の外を見た。


 尾道の海は、今夜も静かに凪いでいた。


最終話 了

『産めよ育てよ国のため』——完

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ