最終話「桜と入学通知」(後編)
四月八日。入学式の朝。
祐樹は六時に起きた。冬花はもう起きていて、キッチンに立っていた。
「早いな」
「眠れなかった。——遠足の前の子どもみたい」
「遠足に行くのは湊だけどな」
「親のほうが緊張してるってこと」
朝食はいつもより少し豪華にした。卵焼き、鮭の焼き魚、味噌汁、白米。白米は冬花が炊いた。七年前、つわりで炊けなかった白米。今は毎朝、当たり前のように炊いている。
湊が起きてきた。パジャマ姿で、髪が跳ねていた。
「きょう、がっこう?」
「そう。今日から小学生だよ」
「……ちょっとこわい」
「怖いの?」
「知らない人いっぱいいるから」
冬花がしゃがんで、湊の目を見た。
「大丈夫だよ。すぐ友達できるよ」
「できなかったら?」
「できるよ。湊は優しい子だから」
「……おかあさんがそう言うなら」
湊が少し笑った。二十四歳の冬花が面接で見せたのと同じ種類の、不安を飲み込んだ上での笑顔だった。親子は似る。
渚が起きてきた。目をこすりながら、リビングに入ってきて、食卓に座った。
「にーに、きょうがっこう?」
「そう」
「渚もいく」
「渚はまだ。四歳だから」
「やー。渚もいく」
「来年な。来年」
渚がむくれた。冬花が「来年ね。渚ちゃんも来年」と宥めた。渚は不満そうだったが、鮭の焼き魚を見て機嫌が直った。渚は魚が好きだった。海の街の子らしい嗜好だった。
◇
八時。湊が制服に着替えた。
尾道市立の小学校には制服がある。紺色の上着に半ズボン、白いシャツ。ランドセルは赤でも青でもなく、湊が自分で選んだ深緑だった。「海の色に近いやつがいい」と言って、五つの候補の中から迷わず選んだ。
冬花がランドセルを湊の背中に載せた。肩紐を調整した。少し大きかった。六歳の背中にはまだ余裕がある。六年間かけて、ぴったりになるように作られている。
「——重くない?」
「ちょっと重い」
「中身は今日は何も入ってないから軽いよ。明日から教科書入るともっと重くなるけど」
「もっと重くなるの?」
「大丈夫。すぐ慣れるよ」
冬花が湊の襟を直した。シャツの第一ボタンを留めようとして、湊が「くるしい」と言ったので、開けたままにした。
玄関の姿見の前に立たせた。湊が自分の姿を見た。
紺の制服。白いシャツ。深緑のランドセル。黄色い交通安全の帽子。
「……小学生だ」
湊が呟いた。自分で言って、自分で驚いたような顔をした。
「小学生だよ」と祐樹が言った。
「かっこいいよ、湊」と冬花が言った。
「にーに、かっこいー!」と渚が言った。
湊の耳が赤くなった。照れている。六歳の男の子は、もう照れるということを知っている。
「行くか」
祐樹が玄関のドアを開けた。
四月の朝の光が差し込んだ。坂道の向こうに、桜が見えた。
◇
小学校までの道は、坂を下り、商店街を抜け、もう一つの坂を上る。大人の足で十五分。子どもの足なら二十分。
四人で歩いた。
湊が先頭。ランドセルが左右に揺れる。まだ歩き方がぎこちない。背中の重みに慣れていない。
渚が冬花の手を握って歩く。「にーにはやい」と文句を言いながら。
祐樹は最後尾。四人の背中を見ている。
商店街のおばさんが「あら、湊くん、今日入学式? おめでとう!」と声をかけてくれた。魚屋の大将が「立派になったなあ」と目を細めた。八百屋の奥さんが「お母さんも泣かんようにね」と冬花に言った。冬花は「もう泣いてます」と笑った。本当に泣いていた。
この街で、四人は生きてきた。スーパーのレジの人も、郵便局の窓口の人も、支援センターのスタッフも、湊と渚を知っている。尾道という街が、四人を見守ってきた。
坂を上ると、小学校の門が見えた。桜が門の両脇に立っていて、満開だった。花びらが風に舞い、登校してくる子どもたちの頭に降り注いでいた。
門の前で、祐樹は立ち止まった。
ここから先は、湊が自分で歩く場所だ。
「湊」
「ん?」
「——行ってこい」
湊が振り返った。ランドセルの重みで少しよろけた。
「おとうさん、来ないの?」
「式には行くよ。でも、門から教室までは自分で歩け」
湊は少し不安そうな顔をした。周りには同じ年頃の子どもたちが歩いている。知らない顔ばかりだ。
「——怖い?」
「ちょっと」
「だよな。——でも、大丈夫だ」
「なんで?」
祐樹はしゃがんで、湊の目の高さに顔を合わせた。
「お前は六年間、泣きたいときに泣いて、笑いたいときに笑って、転んだら自分で立ち上がって、妹の手を引いてやれる子に育った。——それができるやつは、大丈夫だ」
湊の目が潤んだ。唇が震えた。泣きそうだった。
「泣いていいぞ。泣くなとは言わない。——でも、泣いたあとに歩け。それだけだ」
湊は目をぎゅっと閉じた。三秒。五秒。
目を開けた。涙は流れなかった。堪えたのではなく、飲み込んだのだ。自分で。
「——行ってきます」
湊が言った。
小さな背中が、桜の下を歩いていった。ランドセルが揺れていた。黄色い帽子が花びらの中に混じっていた。
冬花が祐樹の腕を掴んだ。爪が食い込んでいた。
「泣いていい?」
「泣け」
冬花が泣いた。声を殺して泣いた。渚が冬花の手を握ったまま、「おかあさん、ないてる」と不思議そうに言った。
祐樹も泣いていた。
隠すつもりはなかった。宮野に「平気な顔をしていてください」と言われた日から七年。もう平気な顔をする必要はなかった。
湊の背中が校舎の入り口に吸い込まれていった。
見えなくなるまで、祐樹は目を離さなかった。
◇
入学式は体育館で行われた。
新入生が名前を呼ばれて返事をする。「高瀬湊くん」。「はいっ」。湊の声は、体育館の中でよく響いた。
祐樹は保護者席で、その声を聞いた。
六年前、産声しか出せなかった人間が、自分の名前を呼ばれて返事をしている。
それだけのことが、奇跡だった。
冬花は隣で、ハンカチを顔に押し当てていた。渚は冬花の膝の上で、退屈そうにしていた。
式が終わって校庭に出ると、桜の下で記念撮影の列ができていた。祐樹たちも並んだ。スマートフォンを三脚にセットして、セルフタイマーで撮った。
四人。桜の下。湊がランドセルを背負って、渚が花びらを握って、冬花が笑って、祐樹が笑って。
写真を確認すると、全員の目が赤かった。
◇
午後。
宮野の言葉に従って、四人で千光寺に上った。
湊はランドセルを家に置いて、私服に着替えていた。制服から解放された途端、いつもの湊に戻った。石段を駆け上がり、猫を見つけて「トラ先輩!」と叫び、渚の手を引いて走った。
展望台に着いた。
桜は満開だった。
宮野が言った通りだった。千光寺の桜は瀬戸内海を背にして咲く。薄桃色の花と青い海と白い雲。六年前——いや、七年前、祐樹と冬花が初めてここに来たときと同じ景色のはずだが、今は四人で見ている。
湊がフェンスに寄りかかった。
「ここ好き。——海が見える」
「湊の名前の海だよ」と冬花が言った。
「知ってる。お母さんとお父さんがここで決めたんでしょ。僕の名前」
「覚えてたの?」
「何回も聞いたもん」
渚が割り込んだ。
「渚の名前は?」
「渚も海だよ。波が寄せる場所。砂浜」
「なぎさ、すなはま?」
「うん」
「渚、すなはますき」
「だから渚なんだよ」
渚がにっこり笑った。花びらが渚の髪に落ちた。
祐樹はフェンスに腕を載せて、海を見た。
七年前の春。冬花と二人で、ここに立った。プログラムに採用されて、信金を辞めて、何者でもなくなった朝。子どもはまだいなくて、名前だけが風に乗って海のほうへ飛んでいった。
あのとき飛ばした名前が、今、隣に立っている。
肉体を持ち、声を持ち、意志を持ち、深緑のランドセルを選ぶ好みを持ち、猫を「先輩」と呼ぶユーモアを持ち、妹の手を引く優しさを持った、一人の人間として。
「——冬花」
「ん?」
「この制度は正しかったのかな」
冬花は少し驚いた顔をした。七年間、祐樹はそういう問いを口にしなかった。批判されても、コメント欄が荒れても、「正しいかどうか」は考えないようにしてきた。ただ目の前の子どもに向き合うことだけに集中してきた。
「——わかんない」と冬花は言った。「七年前と同じ答え。正しいかどうかはわかんない」
「だよな」
「でも——」
冬花が湊と渚を見た。二人は展望台の隅で、桜の花びらを集めていた。湊が渚のために花びらの山を作っている。渚がそれを両手ですくい上げて、空に投げている。花びらが舞い上がって、また落ちてくる。二人が笑っている。
「——あの二人が、ここにいる。それだけは正しい」
祐樹は黙って頷いた。
それだけは正しい。
制度が正しいかどうか、経済合理性があるかどうか、他の家庭と公平かどうか、持続可能かどうか——そういう問いに答えを出すのは、政策立案者や経済学者や有権者の仕事だ。
祐樹と冬花の仕事は、別のところにある。
湊が転んだら抱き起こすこと。渚が泣いたら背中をさすること。朝ごはんを作ること。絵本を読むこと。名前を呼ぶこと。泣いていいよと言うこと。行ってこいと背中を押すこと。おかえりと言うこと。
それが仕事だ。七年間やってきた仕事。これからも続く仕事。
国家公務員としての仕事。
親としての仕事。
二つは重なっていて、でも同じではなくて、どちらが先かと問われたら——
親のほうが先だ。給料が出なくてもやる。そう言い切れるくらいには、祐樹はこの七年間で変わった。
「ぱー! おかーさん! 見て!」
湊が叫んだ。桜の花びらの山を指差している。
「渚のために作った! すごくない?」
「すごいすごい! お兄ちゃんすごい!」
冬花が拍手した。渚が花びらの山に突っ込んで崩した。湊が「あーっ」と声を上げた。渚が笑った。湊も笑った。
祐樹は二人を見ていた。
尾道の海は今日も凪いでいた。
桜の花びらが、坂道を下って、海まで届きそうだった。
◇
帰り道。
坂を下りながら、冬花がふと言った。
「ねえ。研修最終日に三島先生がスクリーンに映したスライド、覚えてる?」
「——覚えてるよ」
「なんて書いてあった?」
「助けを求めることは、仕事の放棄ではありません」
「そう。——私たちは、たくさんの人に助けてもらったね」
「宮野さん。和真と菜月。彩香さん。冬花のお母さん。支援センターのスタッフ。産婦人科の山根さん。——数えきれない」
「うん。数えきれない」
冬花が祐樹の腕に自分の腕を絡ませた。七年前の面接の帰り道にもそうした。日比谷公園の前で。あのときはまだ何も始まっていなかった。
「——ねえ、祐樹」
「ん」
「特別国家公務員の仕事って、何だと思う?」
「子どもを産み育てること。——辞令にそう書いてあった」
「うん。でも私、七年やってわかったことがある」
「何?」
「子どもを育ててるんじゃなくて、子どもに育てられてたんだと思う。——私たちが」
祐樹は足を止めた。
坂道の途中で、桜の花びらが風に舞っていた。湊と渚は少し先を歩いている。湊が渚の手を引いている。渚がよちよちついていく。
七年前。祐樹は信金の窓口で定期預金の手続きをしていた。手取り十九万。奨学金の返済が月一万六千円。電卓が許してくれない人生。
今。三十三歳。子どもが二人。白米が炊ける。離乳食が作れる。おむつが替えられる。夜中の三時に目を覚まして哺乳瓶を作れる。泣いている子どもを抱き上げて、泣いていいよと言える。
人間として、七年前とは比較にならないほど成熟した。
その成熟をもたらしたのは、研修でも制度でも給料でもなく——湊と渚だった。
「——そうだな」と祐樹は言った。「育てられてたな。俺たち」
「でしょ」
「じゃあ給料もらってる場合じゃないな。こっちが払わないと」
「何を」
「授業料。——子育ての」
冬花が笑った。桜の花びらが冬花の髪に落ちた。
「行こう。——子どもたち、待ってる」
「ああ」
二人は坂道を下りた。
前を歩く湊と渚の背中が、夕日に照らされて金色に光っていた。
尾道の海は凪いでいた。
フェリーが汽笛を鳴らした。
桜が舞っていた。
四人の足音が、坂道に響いていた。
◇
その夜、子どもたちを寝かしつけた後。
祐樹はリビングで一人、テーブルに向かっていた。
スマートフォンの画面に、七年分の写真が並んでいる。生まれた日の湊。退院の日。初めての沐浴。初めての笑い。初めてのはいはい。初めての一歩。初めての言葉。渚の誕生。湊が渚の手を握った日。四人で坂道を上った日。
そして今日。入学式。桜の下の家族写真。全員の目が赤い写真。
祐樹はスマートフォンを閉じて、窓の外を見た。
尾道の夜景。坂道の街灯が点々と光り、海面にその光が反射して、細い金の筋を描いている。フェリーの最終便が向島に向かっていく。
あの面接の日、冬花が言ったことを思い出す。
——子どもを産みたいのに、産めないことのほうが、ずっと不安です。
あの不安は消えた。
代わりに別の不安が生まれた。この子たちが大きくなったとき、世界はどうなっているだろう。この制度はまだ続いているだろうか。出生率は回復しただろうか。湊が大人になったとき、子どもを欲しいと思えるような社会になっているだろうか。
わからない。
わからないまま、今日も明日も、ごはんを作り、絵本を読み、靴紐を結び、おかえりと言う。
それが、高瀬祐樹の仕事だ。
特別国家公務員の仕事であり——
父親の仕事だ。
寝室から、冬花の声が聞こえた。
「祐樹、早く寝ないと。明日から湊のお弁当作んなきゃいけないんだから」
「——ああ、もう寝る」
祐樹は立ち上がった。
灯りを消す前に、もう一度だけ窓の外を見た。
尾道の海は、今夜も静かに凪いでいた。
最終話 了
『産めよ育てよ国のため』——完




