ヤスさん直伝
「……ああっ……終わった。日本は、今日で終わりだ……」
JSA本部、戦略指令室。 防衛局長の葛城は、メインモニターに映し出される絶望的な数値を前に、膝から崩れ落ちていた。
西多摩地区のS級ダンジョンから観測される異常魔力波は、夜が明けてもなお増大の一途を辿っていた。それどころか、ダンジョンの最深部で休眠していたはずの『絶対的な死』が、凄まじいスピードで地表へと向かって上昇を始めているのだ。
「対象の巨大熱源、第一層へ到達まで残り三分!!ま、間違いありません!過去の文献にのみ記されていた災厄、S級モンスターの反応と思われます!!」
オペレーターの絶叫が、指令室に死の宣告のように響き渡る。 『S級モンスター』。それは、文字通りの『生きた自然災害』だ。かつて中世ヨーロッパに出現した際は、三つの小国が一夜にして地図から消滅したと伝えられている。
「冠位室の到着は!?」
「最短でも一時間後です!総理からはすでに、東京都全域の放棄と、自衛隊による戦術核の投入許可が下りています……ッ!」
「遅すぎる! 奴が地表に出た時点で、ばら撒かれるS級瘴気によって周辺の住人は即死だぞ!……天帝の剣の連中は!?彼らなら、せめて数分でも足止めくらいはできるはずだ!」
「そ、それが……! 全員、ダンジョン入り口付近で生体反応が弱まっています!おそらく……全滅です!」
葛城は両手で顔を覆った。 国内最強のA級ギルドが、ボスの姿を見ることもなく入口で全滅。それがS級ダンジョンの理不尽な現実だった。
「……もう、どうにもならん。我々にできるのは、西多摩の方角に向かって、一人でも多くの都民が逃げ延びることを祈るだけだ……」
JSAの全職員が、東京の、いや日本の滅亡を覚悟し、モニターの中で蠢くS級の巨大熱源を絶望の目で見つめていた。
しかし。 彼らは知る由もなかった。 そのS級ダンジョンの入り口(キャンプ地)で、マイペースに朝のコーヒーを淹れている一人の『一般人』の存在を。
◆ ◆ ◆
「ふぁぁぁ……よく寝たぁ」
チュンチュン、という小鳥の囀り……など聞こえるはずもない、不気味なほど静まり返った暗黒の洞窟内で、高坂紬は大きな伸びをした。
周囲には、致死量のS級瘴気が濃霧のように立ち込めているが、高坂には『ちょっと朝靄がかかってるな』程度にしか見えていない。彼の【地主】スキルによる『魔力干渉の完全無効化』は、睡眠中だろうと休むことなく彼を世界のあらゆる超常現象から守り抜いていた。
「よし、朝飯の前に、昨日の夜に言ってた『アレ』を作っておくか」
高坂は、昨日使ったS級ダンジョンコア(※風防代わりのデカい石)の上にヤカンを置き、ファイヤースターターで再び火を起こした。コアは昨晩以上の熱ショックを受け、システムエラーを通り越して悲鳴のような魔力波を放射し続けているが、お湯を沸かすにはちょうどいい火力だった。
お湯が沸くまでの間、高坂は軽バンから材料を取り出した。 百円ショップで買ってきたステンレス製のワイヤー、塩ビパイプ、そしてバネ。
「昨日の夜、でっかい熊みたいな咆哮が聞こえたからな。ヤスさんの動画で予習しておいた『自作くくり罠』の出番だ」
高坂の脳内で、ヤスさんの朴訥とした声が再生される。
『えー、山を買うとですね、どうしても野生動物との付き合いになります。特に熊やイノシシは危険ですから、通り道にワイヤーを使ったくくり罠を仕掛けておくのが自衛の基本ですね。ホームセンターの塩ビパイプとワイヤーがあれば、誰でも作れますよ』
「よし、こんなもんかな。塩ビパイプを地面に埋めて、上にワイヤーの輪っかをセット。獲物がここを踏み抜くと、バネが弾けてワイヤーが足首をギュッと締め上げる、と。完璧なピタゴラスイッチだ」
高坂は、洞窟の奥から続く獣道(※ダンジョンのメインルート)のど真ん中に、自作のくくり罠をセットした。 原価、わずか三百円。 しかし、彼が自身の『所有地』で罠を設置した瞬間、スキル【地主】の『不法侵入者の強制排除』および『所有者の超強化』という権限が発動した。
見えないシステムログが、静かに世界を書き換える。
【トラップの設置を確認しました】
【素材『百円のワイヤー』を『神縛の鎖』へ概念昇華】
【素材『塩ビパイプ』を『次元固定の楔』へ概念昇華】
【対象エリア内のすべての存在に対し、本トラップの回避・破壊を禁じます】
そんな宇宙の法則すらねじ曲げるチート現象が起きているとは露知らず、高坂は満足げに手をパンパンと払い、淹れたてのインスタントコーヒーをすすった。
「ふぅ……美味い。大自然で飲むコーヒーは格別だな。さて、ホットサンドでも焼くか」
ズズズズズズンッ……!!
その時、洞窟の奥から、けたたましい地響きと共に『それ』が姿を現した。
体長十メートルを超える、漆黒の巨体。 二つの眼は血のように赤く発光し、呼吸をするたびに口の端から高濃度の瘴気が漏れ出している。空間そのものを歪めるほどの圧倒的な質量と魔力。 S急モンスター『星喰いの大羆』。
『グルルルルルル……ッ!!』
星喰いの大羆は、激怒していた。 数百年ぶりに心地よい眠りから目覚めたと思ったら、自らの心臓とも言えるダンジョンコアが、謎の熱源(直火)によって炙られ、ゴリゴリと魔力を削り取られているのだ。
許してはおけない。この迷宮に侵入した愚かな生命体を、塵一つ残さず喰らい尽くしてくれる。 そう猛り狂いながら、地表への出口へと突進した。
大羆の視線の先に、小さな人間の姿が見えた。 手にはマグカップ(※特売品の陶器)を持ち、片手にはホットサンドメーカー(※直火用)を握っている。 あんな脆弱な生き物など、自分の放つ瘴気だけで溶けて無くなるはずだ。大羆はそう確信し、人間を通り抜けて一気に地上へ出ようと、太い丸太のような右足を大きく踏み出した。
――その右足が、高坂が地面に埋めていた『塩ビパイプ』をドンッと踏み抜いた。
カチャッ。
安っぽいバネの弾ける音が、洞窟に響いた。
『……?』
大羆が疑問符を浮かべるより早く。 足元に仕掛けられていた『百円のワイヤー(神縛の鎖)』が、大羆の足首にシュルッと絡みつき、けたたましい勢いでギュムウウウウウッ!!と締め上げた。
『ギャオォォォォォォォォォォォォッッ!?!?』
S級モンスターの強靭な毛皮と、鋼鉄の数万倍の強度を誇る魔力障壁。そのすべてを完全に無視し、ワイヤーは肉に食い込み、骨を軋ませた。 『次元固定の楔』と化した塩ビパイプは、大羆がどれほど暴れようと、一ミリたりとも地面から動くことはない。
大羆はパニックに陥り、残った腕でワイヤーを引きちぎろうとした。 しかし、触れた瞬間にバチィィィンッ! と絶対的な拒絶のエネルギーが弾け、大羆の両腕の爪が根元から吹き飛んだ。
『ガ、アアアアアアッ!? ギァアアアアアアッ!?』
なんだこれは。なんだこの恐るべき呪具は。
星喰いの大羆は、自身の絶対的な力である魔力を暴走させ、周囲の空間ごと罠を消し飛ばそうとした。 しかし、ワイヤーが締め付けられるたびに、自身の体内を巡る魔力回路が完全に強制シャットダウンされていくのを感じた。
ドゴォォォォンッ!!
ついにバランスを崩した十メートルの巨体が、洞窟の地面に無様に倒れ伏す。 もはや指一本動かすことすらできず、S級の誇り高きモンスターは、わずか三百円の仕掛けによって完全に『捕獲』されてしまったのだ。
「おっ、すごい音がしたな。罠にかかったか?」
ホットサンドを齧りながら、高坂がのんびりとした足取りで近づいてくる。 大羆は、眼前に立つ小さな人間を、恐怖に染まった瞳で見上げた。
――間違いない。この絶望的な罠を仕掛けたのは、この男だ。 自分の瘴気を微風のように受け流し、直火でダンジョンコアでお湯を沸かしている、この理不尽な神のような存在。 こいつは、人間ではない。人間であるはずがない。
「うわ、デカっ!なんだこの熊!?ツキノワグマの比じゃないぞ。ヒグマ……いや、それ以上か? ていうか毛が黒光りしててちょっと怖いな」
高坂は目を丸くしたが、不思議と恐怖は感じなかった。 なぜなら彼の中の常識は「自分の山に迷い込んだ野生動物」という枠組みから一歩も出ていなかったからだ。それに、【地主】スキルのおかげで、本能的な死の危険を全く感じないのだ。
「お前なぁ、昨日の夜からうるさかったのはお前だろ? 近所迷惑なんだよ」
高坂は、昨日使ったプラスチックのホウキ(※神々しいオーラを放つ)を持ち出すと、倒れ伏している大羆の鼻面を、ペシッ、ペシッ、と叩いた。
「これからは静かにしろよ。わかったか?」
『ヒィンッ……!! クゥン……ッ!!』
S級モンスターたる星喰いの大羆は、ホウキで叩かれるたびに魂が浄化されそうになる感覚に襲われ、情けない犬のような声を上げてブルブルと震え上がった。 逆らえば殺される。いや、殺されるどころか、存在そのものを消去される。 大羆の極限まで発達した生存本能が、そう告げていた。
次の瞬間、ボフゥッ!という煙と共に、大羆の十メートルあった巨体がみるみるうちに縮んでいき――ゴールデンレトリバーほどの大きさの、モフモフとした黒い子熊(?)の姿へと変貌したのだ。 魔力を最小限まで抑え込み、服従の意思を示すための『愛玩形態』への強制変身である。
「おわっ!?なんだお前、急に縮んだぞ!?……あ、もしかして毛が膨らんでただけか? 威嚇してたんか、お前」
高坂はしゃがみ込み、小さくなった子熊の頭をガシガシと撫でた。 大羆は、撫でられるたびにビクゥッ!と身をすくませながらも、必死に尻尾(短い)を振って媚びを売った。
「なんだ、よく見たら可愛い顔してんな。……ヤスさんも『山では番犬がいると心強い』って言ってたしなぁ。よし、お前、今日から俺の山の番犬(番熊?)な。名前は……そうだな、『ポチ』でいいか」
『ワンッ!!(意訳:我が主よ、御心のままにッ!!)』
人類の存亡を脅かす災厄は、ここに『ポチ』として再就職を果たした。 高坂は満足げに頷くと、ポチの足に絡まっていた百均のワイヤーをペロッと外し、「よし、朝飯のホットサンドの耳、お前にも分けてやるよ」と笑った。
◆ ◆ ◆
その頃。 JSA本部の戦略指令室では、職員たちが幽霊でも見たかのような顔でモニターを凝視していた。
「……き、消えた」
「え?」
「対象のS級モンスターの熱源……西多摩のダンジョン入口付近に到達した直後、突如として魔力反応がゼロになりました!!し、消滅しています!!」
オペレーターの信じられないという報告に、葛城はポカンと口を開けた。
「消滅した、だと……? 馬鹿な。S級モンスターが自然消滅するなどあり得ない。冠位室の連中が間に合ったのか!?」
「い、いえ!冠位室はまだ厚木基地の上空です! それに、戦闘が行われたような大規模な魔力衝突の痕跡も一切ありません!ただ、不自然なまでに……一瞬で消え去ったのです!」
指令室に、不気味な静寂が落ちる。 まるで、巨大な台風が突如として快晴に変わったかのような、理解の範疇を超えた事象。
「……葛城局長。西多摩の入り口で昏睡状態になっていた『天帝の剣』のメンバーですが、先ほど自衛隊のドローンが彼らの姿を捉えました」
「む……無事なのか!?」
「はい。命に別状はありませんが……その……」
モニターに映し出された映像を見て、葛城は絶句した。 そこには、最高級のミスリルアーマーを着込んだA級攻略者たちが、なぜか『立ち入り禁止』と書かれた百均のトラロープの外側に、ゴミのように綺麗に並べられて寝かされていたのだ。 そしてその奥には、昨日は無かったはずの『クマ出没注意』という手書きの可愛らしい看板が、洞窟の入り口に立てかけられている。
「……一体、西多摩の山林で何が起きているんだ……?」
葛城の震える呟きに、答える者は誰もいなかった。 ただ一つ確かなのは、日本を救ったのが国家の最高戦力でも奇跡でもなく、一人の『無自覚な超次元キャンパー』と『百円ショップのくくり罠』であるという、信じがたい事実だけだった。




