ダンジョン暴走
その日、人類は真の絶望を味わうこととなった。
「パリの地下迷宮から未知のモンスター群が溢れ出しました!既存の魔法も物理攻撃も一切通用しません! 防衛ライン、突破されました!」
「ニューヨーク、およびロンドンのS級ダンジョンに突如として異変発生!内部の空間構造が未知変化を繰り返しており、瘴気の濃度が計測器の限界を突破……ッ!攻略者部隊が次々と連絡を絶っています!」
JSA本部の戦略指令室に、悲痛な絶叫が次々と響き渡る。
メインモニターに映し出される世界地図は、瞬く間に危険を示す真っ赤なアラートで染め上げられていった。
数日前に発生した『世界樹シイタケの異常繁殖』
――それに危機感を抱いた世界中のダンジョン・コアが、自己防衛のための防衛本能を一斉に作動させかのように。
結果として、ダンジョンが人類の理解を超えた未知の領域へと強制進化を果たしてしまったかのようである。
「モニターに出ます!これが、各国のダンジョンから溢れ出している未知のモンスターの映像です……!」
画面に映し出されたのは、空を真っ黒に覆い尽くすほどの、巨大な昆虫の大群だった。
玉虫色に鈍く光る外殻を持った、体長二メートルを超えるバッタのような異形の群れ。それが通った後には、コンクリートのビル群も、強固な魔力障壁も、攻略者たちの命すらも、文字通り『何もかもが喰い尽くされ』て、虚無の荒野だけが残されていた。
「物理法則を無視して、触れた物質を次々と捕食している……!?
こんなものが世界中に放たれれば、人類は数日で滅亡するぞ……!」
防衛局長の葛城は、血の気が引いた顔で震える声を絞り出した。 だが、絶望に浸る暇すら彼らには与えられなかった。
「きょ、局長ォォォッ!! 西多摩のすぐ隣……八王子の上空に、巨大な次元の亀裂が発生! 同種の『暴食の蝗害』と思われる群れが、数百万という規模で出現しました!!」
「なんだとッ!?」
葛城の絶叫と同時に、指令室の窓の外――遥か西の空が、飛来する巨大な虫の大群によって真っ黒に染まり始めた。
迎撃に上がった自衛隊の戦闘機が、為す術もなく虫の群れに飲み込まれ、空中でチリとなって消滅していく。
それは日本という国家の終わりを告げる光景だった。
「……総員、玉砕覚悟で防衛線を張れ!せめて、民間人が一人でも多く逃げる時間を稼ぐんだ!!」
葛城が自ら武器を取り、死を覚悟して指令室を飛び出そうとした、その時だった。
『――あーあ。今年は急に暑くなったから、嫌な予感はしてたんだよなぁ』
指令室の通信モニター(ツムギ村の定点カメラ)から、あまりにも呑気で、この絶望的な状況に全くそぐわない声が聞こえてきた。
◆ ◆ ◆
西多摩・ツムギ村。
高坂紬は、ログハウスの縁側に立ち、八王子方面の空を真っ黒に染め上げる『暴食の蝗害』の群れを、ただただ渋い顔で見つめていた。
『キャベツの苗を植えたばっかりなのに、あんなに大量のバッタ(?)が発生しちゃうなんて。これだから夏前の農作業は油断できないんだよ』
「ぼ、ボス・ツムギ!?アレハ、バッタナドトイウ次元ノモノデハ……!世界ヲ喰イ尽クス、未知ノモンスター災害デス!!」
背後でアーサーが顔面を蒼白にしながら叫ぶが、高坂の耳には全く届いていなかった。
彼にとって、空を覆う絶望のモンスター群は、自分の大切な家庭菜園を狙う『ただの害虫』にしか見えていなかったのである。
『しずくちゃん、陸くん!ちょっと縁側の戸を閉めておいて!虫が入ると嫌だから!』
高坂はそう言うと、ジャージのポケットから、百円ショップで買ってきた『蚊取り線香』とライターを取り出した。
カチッ、と火をつける。
ツー……と、一筋の白い煙がツムギ村の空気に溶け込んでいく。
だが、それはただの煙ではなかった。【地主】の強力な防衛意思が乗ったその煙は、もはや人類の知る化学物質ではなく、未知の超結界へと変貌していた。
吸い込めば魂の穢れすらも浄化されるような、神仏の焚く香木にも似た神聖な匂い。
それはおそらく、魔力という概念を超越し、この世界の『害』を拒絶する、底知れぬ未知のエネルギーの奔流だったのかもしれない。
白い煙が八王子の空へと風に乗って流れていく。
すると、数百万という規模で東京を喰い尽くそうとしていた『暴食の蝗害』の群れが、目に見えない巨大な壁に激突したかのように、西多摩の手前でピタリと動きを止めたのだ。
「ギィィィィィ……ッ!?」
「キリキリキリキリッ!!」
未知のモンスターたちは、その白い煙に触れた瞬間、まるで猛毒を浴びたように苦しみ悶え、ポロポロと空から墜落していく。
それはまさしく、殺虫剤を浴びた虫そのものの姿だった。
『よし、煙は効いてるみたいだな。でも、数が多すぎるから、こっちから叩きに行かないと』
高坂は、さらに百円ショップで買ってきたアイテムを取り出した。
単三電池を二本入れて使う、ハエや蚊を電撃で退治する『電撃殺虫ラケット(※テニスラケットのような網に電流が流れるおもちゃ)』である。
『アーサーさん、ちょっと留守番頼むね!俺、畑の害虫駆除してくるから!』
高坂は殺虫ラケットを片手に握りしめ、ジャージ姿のまま、ズカズカとトラロープ(結界)の外――八王子方面へと歩き出した。
◆ ◆ ◆
八王子の防衛ライン。
死を覚悟したJSAの攻略者たちと自衛隊の前に、信じられない光景が広がっていた。
「見ろ……!あれだけ狂暴だったモンスターの群れが、謎の白い煙(蚊取り線香)に巻かれて、パニックを起こしているぞ!?」
「あ、あれは……ツムギ村の方向から歩いてくるのは……高坂紬!?」
絶望の空の下、ジャージ姿の青年が、おもちゃのようなラケットを片手に歩いてくる。
生き残ったバッタ(未知の災害モンスター)の一群が、憎悪に満ちた羽音を響かせながら、一斉に高坂めがけて急降下してきた。
A級攻略者の魔力障壁すら一瞬で喰い破る、死の突撃。
だが、高坂は全く怯むことなく、迫り来る大群に向かって、持っていた電撃殺虫ラケットをテニスの素振りのように『ブンッ!』と横薙ぎに振るった。
『シッシッ!あっち行け!!』
――バチィィィィィィィィィンッ!!!!!!!!
ラケットの網から放たれたのは、単三電池の静電気などでは断じてなかった。 それは、新たな銀河が誕生したかのような、あるいは次元の壁が崩壊したかのような、人類の観測機器では計測すら不可能なほどの眩い極大閃光。
振るった軌道上の空間そのものが『バチッ』という音と共に弾け飛び、おそらくは超新星爆発にも等しい未知のエネルギーが、扇状に放射されたのだ。
「――――ッ!?」
光が収まった後。
日本の空を覆い尽くしていた数百万の『暴食の蝗害』は、死骸一つ残さず、この世界から「消去(殺虫)」されていた。 雲一つない、抜けるような青空だけがそこにある。
「…………えっ?」
「…………は?」
JSAの攻略者たちも、モニター越しに見ていた葛城も、全員が間抜けな声を漏らして固まった。
人類を滅亡に追いやるはずだった未知の世界危機が、ジャージの青年の『素振り一回』で消し飛んでしまったのだ。
さらに、高坂の振るった電撃殺虫ラケットから放たれた【害虫駆除】の波動は、西多摩の地下ネットワーク(大穴)を通じて、光の速さで世界中のダンジョンへと伝播していった。
アメリカ、フランス、中国……世界各地で猛威を振るい始めていた未知の変異モンスターたちは、突如として地下から吹き荒れた『謎の電撃(殺虫)ウェーブ』に呑み込まれ、次々と「ピクピク……」と痙攣して全滅していく。
たった数分の間に、世界を襲ったダンジョン暴走の危機は、完全な沈黙を取り戻したのである。
『いやー、最近の百均グッズはすごいね!一振りしただけで虫が全部いなくなっちゃったよ!これでキャベツも安心だ』
高坂は、少し焦げ臭くなった殺虫ラケットを満足げにポンポンと叩き、何事もなかったかのように西多摩の山林へと引き返していく。
後に『地球防衛戦(あるいは百均ラケットの奇跡)』と呼ばれることとなるこの日。
高坂紬が「今年の虫はデカいなぁ」と勘違いしたまま振るったその一撃は、人類にとって永遠に解明できない『未知の救済』として、歴史の裏側に深く刻み込まれることとなったのである。




