日照権の侵害
西多摩S級ダンジョンの最深部、人類が未だかつて到達したことのない死の領域である。
そこは、太陽の光すら届かない漆黒の空洞であり、マグマだまりと高濃度の瘴気が渦巻く地獄の底だった。
その中央に鎮座する、山脈のように巨大な影が、ゆっくりと瞼を開いた。
『――消えた、だと?』
空間そのものを震わせるような重低音の思念が、洞窟全体を揺らした。
その大きな影の正体は、かつてハワイの島を一つ丸ごと消滅させた元凶であり、現在はこの西多摩S級ダンジョンの最奥で眠りについていた古の時代から生きるとされる『終焉の古竜』である。
古竜は困惑していた。 昨日、自身の縄張りの遥か上層で不快な魔力反応を感じ取ったため、寝起きに小蝿を払うような感覚で、万物をチリに変える極大の『死毒ブレス』を放ったのだ。
本来であれば、地上の山林はおろか、周囲の空間そのものが丸く抉り取られて消滅しているはずだった。
しかし、古竜の放ったブレスは、地上に到達する直前で『何らかの未知なる力』によって強制的に圧縮され、魔法的な繋がりをプツリと切断されてしまったのである。 弾かれたわけでも、相殺されたわけでもない。ただ純粋に、絶大な威力を誇る自身の魔力が、四角い見えない箱のようなものに『収納』され、気配を絶たれたような、そんな奇妙な感覚。
『バカな。我の極大魔法を正面から受け止め、あまつさえ封じ込めるだと………?いかなる神話の遺物であろうと不可能である』
古竜の巨大な眼球に、憤怒と好奇の炎が灯った。
何者かが、自身に泥を塗った。その事実だけで、この傲慢なS級モンスターが地上へ侵攻する理由としては十分すぎた。
『よかろう。久々にこの我自らが空を舞い、地上の下等生物どもに絶望という名の真理を教えてやろう』
ズウゥゥゥゥゥゥンッ!!
古竜が巨大な翼を広げた瞬間、ダンジョンの深層が崩壊を始めた。マグマが逆流し、周囲の岩盤がひび割れる。
長きにわたる沈黙を破り、最悪の災害が今、地上へと向かってゆっくりと上昇を開始した。
◆ ◆ ◆
古竜が胎動を始めたのと同時刻。
日本の遥か上空、高度一万メートルの成層圏に、巨大な影が浮かんでいた。
「日本のJSAが『100円の野菜』の供給を完全にストップさせただと……?ふざけるな」
光学迷彩によって完全に姿を隠された、全長数百メートルに及ぶ巨大な魔法飛行戦艦。 それは、世界各国の闇ギルドや過激派組織が、国家の枠組みを超えて極秘裏に結成した『世界最強の闇の同盟』が誇る、非合法の空中要塞であった。
「あの『黄金のトマト』と『世界樹のネギ』があれば、我々の組織は世界を完全に支配できたはずなのだ。それを、しがない島国の弱小組織(JSA)が独占するなど許されるはずがない」
艦橋の司令室では、世界各国の裏社会を牛耳るSS級(各国独自の最高ランク)の攻略者たちが、葉巻を燻らせながら血走った目でモニターを睨みつけている。
彼らの目的はただ一つ。
西多摩のダンジョンを武力で完全制圧し、高坂紬という『規格外の生産者』を拉致して、自分たちの奴隷(永久機関)とすることだった。
「ターゲットは西多摩の『ツムギ村』だ。日本のJSAが敷いている防衛線など無視しろ。上空から直接降下し、圧倒的な暴力で全てを奪い尽くすのだ!!」
強欲に目が眩んだ世界最強の闇の軍団が、西多摩に向けて飛行戦艦のアクセルを全開に踏み込んだ。
◆ ◆ ◆
地下からは『終焉の古竜』が。
上空からは『世界最強の闇の同盟』が。
未だかつてない規模の二つの絶望が西多摩に向けて同時進行しているその頃。
当の標的である高坂紬は、ツムギ村のログハウスのキッチンで、のんきに朝食の準備をしていた。
『えー、視聴者の皆さん、おはようございます! 今日もいい天気ですね。無人販売所を閉めちゃったんで、これからは引き続き村の仲間たちと自給自足の生活を頑張っていこうと思います』
高坂はスマートフォンを三脚にセットし、炊飯器から立ち上る湯気を浴びながらニッコリと笑った。
【ツムギニキ、おはよう!】
【販売所閉鎖は残念だけど、治安悪化してたからしゃーない】
【今日も相変わらず画質が神(※高濃度の魔力で空間が浄化されているため)】
【てか、今日の朝ごはんなに?】
『今日はですね、昨日偶然手に入った「真っ黒な塩昆布」みたいなやつを使って、おにぎりを作ろうと思います! なんかすごく香ばしくて、美味しそうな匂いがするんですよね』
高坂の手元には、昨日彼が愛用の『百均のタッパー』にしまい込んだものが置かれていた。 フタをパカッと開けた瞬間。
「…………ッ!?」
「――――ッ!?」
キッチン横のダイニングテーブルで待機していた氷室玲奈(EX級)と、アメリカ最強の暗殺者アーサーの表情が、一瞬にして凍りついた。
(な……なんだ、あのどす黒い魔力の塊は……!?)
氷室は、タッパーの中から立ち上る尋常ではない『死の気配』に、全身の産毛が逆立つほどの悪寒を感じていた。
一見すると、ただの真っ黒でパラパラとした塩昆布にしか見えない。
だが、EX級へと至った氷室の魔力感知能力は、その『塩昆布』が放つ異常な波長の危険性を正確に読み取っていた。
氷室の額から、滝のような冷や汗が流れ落ちる。 昨日、葛城局長が訪問していた際、一瞬だけ地響きと共に『何か』が吹き荒れたような感覚があった。だが、すぐに何事もなかったかのように静まったため、気のせいだと思っていたのだ。
(ま、まさか……高坂さんは、S級ボスが放った極大魔法を……ただの『塩昆布』という概念に書き換えて、タッパーに保存したとでも言うの……!?)
もしそれが事実だとしたら、もはや魔法という概念すら通用しない。
古の竜が放つ膨大な破壊エネルギーを、物理的な『おにぎりの具』に変換するなど、神にすら不可能な御業だ。
「ボ、ボス・ツムギ……ソレハ……昨日ノ……」 『え? ああ、これ?なんか黒い突風みたいなのが飛んできたから、家が汚れると思ってタッパーにしまっておいたんだ。ほら、しずくちゃんと陸くんも、冷めないうちに食べて!』
高坂は、氷室の推測を裏付けるような恐ろしい事実をあっけらかんと口にすると、特大のおにぎりを握り、アルバイトの姉弟とアーサー、氷室の前にドンッと置いた。
死毒ブレスの塩昆布おにぎり。
氷室たちの目には、それが「一口食べれば即死するどころか、魂ごとブラックホールに吸い込まれて消滅しそうな呪物」にしか見えなかった。
「ツムギさんが作ってくれたご飯だ!いただきまーす!」
しかし、何も知らない(あるいは高坂を完全に神と崇拝している)陸が、満面の笑みで真っ先にそのおにぎりに噛み付いた。
「あっ、陸くん待って……!!」
しずくが止める間もなかった。
パクッ。 もぐもぐ。 ゴクン。
氷室とアーサーが「終わった」と絶望の目を向けた、その直後。
陸の体が、一瞬だけ漆黒のオーラに包まれ――次の瞬間、パァァァァァッ!!と、太陽のプロミネンスのような眩い極光を放った。
「わあ……!ツムギさん、これすごく美味しいです!口の中でお肉みたいな旨味が爆発して……それに、なんだか体がすっごく軽くなりました!」
陸は目をキラキラさせている。
(バカな……!? 古竜の死毒が、完全に『超絶バフ』に反転している……!?)
氷室は驚愕した。 高坂の未知なる力によってS級モンスターのブレスは、致死性の毒が完全に『極上の旨味と魔力増幅効果』に書き換えられていたのだ。
氷室の目には、陸の全身を覆う強固な魔力障壁が見えた。
それは【全属性魔法・完全無効化】や【状態異常絶対耐性】といった、ゲームバランスを崩壊させるようなチート能力が強制的に付与された証拠だった。
「ほ、本当だ……。私も食べてみます……あっ、美味しい……!魔力が……また底上げされていく……!」
しずくも恐る恐る口にし、その圧倒的な力の上昇に歓喜の声を上げた。
それを見た氷室とアーサーも、覚悟を決めておにぎりを口に運ぶ。
「……ッ!!こ、これは……!!」
「オーマイガー……!ワタシノ暗殺術ノ威力ガ、さらに跳ネ上ガッテイク……!!」
最強のEX級とS級攻略者たちが、さらに限界を突破して『完全無敵のバケモノ』へと進化していく。
高坂紬の作る朝食は、もはや食事というより『神々のドーピング儀式』であった。
『あはは、みんなよく食べるなぁ。おかわりもあるからね』
高坂が自分のおにぎりを頬張ろうとした、その時だった。
――――ヴゥゥゥゥゥゥゥゥンッ!!
突然、西多摩の山林を包み込むように、耳をつんざくような巨大なサイレンが鳴り響いた。 同時に、窓の外の景色が、一瞬にして『夜』のように真っ暗になったのだ。
『えっ?なんだ?急に分厚い雲が出てきた?』
高坂が首を傾げている間にも、氷室とアーサーは椅子から弾かれたように立ち上がっていた。
「……雲じゃない!上空を見てください、光学迷彩を解いた物理的な質量……巨大な『魔法飛行戦艦』です!!」
氷室が窓の外を指差し、鋭い声を上げた。
(マサカ、アレハ……母国との定期連絡で耳にしていた『闇ノ同盟』!?世界中ノ裏社会ヲ牛耳ル連中ガ、直接ココヲ襲撃ニキタト言ウノカ……!いくらなんでも行動がハヤすぎル……)
アーサーも冷や汗を流しながら、かつて自分が属していた裏社会の頂点に君臨する最悪の組織のシンボルを見て震えた。
だが、絶望はそれだけでは終わらなかった。
ズドドドドドドドォォォォォォォンッ!!!!!
空の異変に気を取られていた一同の耳に、今度は大地を引き裂くような地響きが轟いた。
ログハウスから数百メートル離れた裏山の地面が、まるで火山のように吹き飛び、マグマの飛沫と一緒に、山よりも巨大な『漆黒の竜』が地上へと這い出してきたのだ。
「ウソでしょ……!?あの姿、あの魔力……資料でしか見たことがない、かつて海外のS級ダンジョンで目撃され周囲の街を壊滅させたという……『終焉の古竜』……!!」
氷室は絶望的な声で叫んだ。
空には、数千の闇の精鋭を乗せた世界最強の飛行戦艦。
大地には、三十年の時を経て復活した神話級のS級モンスター。
完全無敵のバフを得たばかりの氷室やアーサーですら、あまりの規格外の絶望の挟み撃ちに、武器を構える手すら震えそうになっていた。
一方、JSA本部の戦略指令室では
「レーダーに巨大な反応二つ!!世界同盟のものとおもわれる飛行戦艦と……西多摩の最下層からS級ボスが地上に出現しました!!」
「終わった……日本が……いや、世界が終わる……」
報告を聞いた葛城局長は、モニターの前で白目を剥き、再び泡を吹いて気絶していた。
空と陸からの、人類を滅ぼす絶対的な死の包囲網。 誰もが絶望するその状況下で。
『……おいおい』
高坂紬は、手に持っていた食べかけの塩昆布おにぎりを皿に置き、ピキッとこめかみに青筋を立てた。
『なんだよあのデカい飛行船みたいなやつ。あんなデカいもん勝手に飛ばして、うちの日当たりを悪くする気か? せっかく朝から干してる布団が台無しじゃないか』
高坂の視点では、世界最強の飛行戦艦は「日照権を侵害する非常に迷惑な飛行船」にしか見えていなかった。
『それに、あっちのデカいトカゲ!裏山の地面に勝手に穴開けやがって……!あそこ、来週しずくちゃん達と一緒にサツマイモを植えようと思って、一生懸命耕してた場所なのに!』
終焉の古竜もまた、「苦労して整地した畑を荒らしたデカいトカゲ」として、高坂の逆鱗(地主としての怒り)に触れてしまったのである。
『アーサーさん、氷室さん、しずくちゃん、陸くん。ちょっとここで待ってて』
高坂は、部屋の隅に立てかけてあった『百均の竹ほうき』を手に取り、ズカズカと縁側へと歩き出した。
『ちょっと、タチの悪いご近所と迷惑な野良動物に、苦情言ってくるわ』
人類の存亡を懸けた三つ巴の頂上決戦。
しかし、その実態は『日照権と畑を荒らされた地主の、絶対的なお仕置き』の始まりに過ぎなかった。




