【episode7】初めてのレッスン
土曜日。ついに、体験レッスンの日がやってきた。
目を覚ました私は、まだ起きて間もないというのに、いつもよりずっと頭が冴えていることに気がついた。
今日はダンスと歌を習いに行く。そう思うだけで胸が高鳴って、ベッドの上でしばらくぼんやりしているなんてこともできなかった。
私はすぐに起き上がると、カーテンを開けて朝の光を部屋に入れ、洗面所へ向かった。顔を洗って髪を整え、動きやすい服に着替える。鞄には飲み物とタオルを入れて、忘れ物がないか何度も確認した。準備をしながら、ここ数日間のことを思い出す。
転生してから、私は毎日のように練習してきた。前の人生で十年間かけて身につけたダンスの知識を思い出しながら、今の身体で同じ動きができるように何度も繰り返し、鏡を見ながら身体の軸や重心、腕や足の角度まで細かく確認した。
最初は前の身体との違いに戸惑ったものの、毎日練習しているうちに少しずつ感覚が戻ってきて、今では身体のどこをどう動かせばいいのか、ほとんど迷うことはなくなっていた。
歌も同じだった。発声や呼吸から始めて、音程を安定させる練習をしたり、前の人生で歌っていた曲を何度も繰り返したりしながら、この身体の声を使いこなせるように練習してきた。
声そのものは前の人生とは違うけれど、どうすれば綺麗に響くのか、どこで息を使えばいいのかという感覚は残っている。
だから、今日の私は「初めてダンスと歌を習う十三歳」ではない。
前世で十年間積み重ねた経験と、転生してから毎日続けてきた練習。その二つを合わせれば、少なくとも普通の初心者に負けるつもりはなかった。
「……よし」
鏡の中の自分を見て、私は小さく頷いた。
これなら大丈夫。
リビングへ行くと、母が出かける準備をしていた。
「萌花、もう準備できた?」
「うん! いつでも行けるよ!」
「じゃあ、そろそろ出ようか」
「うん!」
私は鞄を持って玄関へ向かった。
スクールへ向かう道を歩いている間も、私は緊張するというより、早く踊りたいという気持ちのほうが強かった。
前の人生では何度も通ったレッスンという場所も、この人生では初めてだ。どんな先生なのか、どんな子がいるのか、どんな練習をするのか。考えれば考えるほど楽しみになってくる。
やがて、目的の建物が見えてきた。入口にはスクールの看板があり、扉の向こうから音楽が聞こえている。その音を聞いた瞬間、私は思わず足を止めた。
「……ここか」
今日から、私の夢への道が本格的に始まる。
受付を済ませると、スタッフの人がレッスン室まで案内してくれた。母とはそこで別れ、私は一人で教室へ向かう。廊下を歩いていると、いくつかの部屋から音楽や声が聞こえてきた。どの部屋でも誰かが練習しているらしい。
私はレッスン室の前で一度深呼吸をしてから、扉を開けた。
「こんにちは!」
「こんにちはー!」
中にはすでに何人かの女の子がいた。私が入ってくると、そのうちの一人がこちらを見て声をかけてくれた。
「今日、体験?」
「うん!」
「私も体験から始めたよ。先生優しいから大丈夫!」
「ありがとう」
少し話していると、先生がレッスン室へ入ってきた。
「みんな、おはよう。今日は体験の子がいるから、最初に自己紹介しようか」
一人ずつ名前を言っていき、私の番になる。
「音羽萌花です。今日はよろしくお願いします!」
「よろしくね、萌花ちゃん。ダンスはやったことある?」
「はい。家で練習してきました」
「そうなんだ。じゃあ、今日は基礎からやってみようか」
「はい!」
最初はストレッチだった。先生の動きを見ながら身体を伸ばしていく。続いて、リズムトレーニングが始まった。
先生が一度ステップを見せる。
「まずはこれ。音に合わせて、右、左、右、左。上半身は力を抜いてね」
私は先生の動きをじっと見た。
そして、音楽が流れた瞬間、身体を動かした。
右、左、右、左。
ただ足を動かすだけではなく、身体の重心を音に合わせて移動させ、上半身も自然に連動させる。先生が説明した動きを一度見ただけで、ほとんど迷うことなく身体が動いていく。
隣にいた女の子が、ちらっと私を見る。
「……え?」
その声が聞こえたけれど、私は気にせず音楽に集中した。
次のステップへ進む。
先生が少し複雑な動きを見せた。
「じゃあ、今度はこれをやってみよう」
一度見ただけ。
私はすぐに動き始めた。
足の位置、身体の向き、腕の動き。全部を音に合わせて繋げていく。
曲が止まった。
先生が黙って私を見ている。
「……萌花ちゃん」
「はい?」
「今の、初めて?」
「はい」
「本当に?」
「……はい」
先生が少し驚いたように瞬きをした。
「いや……振り覚えるの、めちゃくちゃ早いね」
周りの女の子たちも私を見ている。
「え、普通に踊れてない?」
「体験だよね?」
「私より全然上手い……」
小さな声が聞こえてきて、私は少しだけ恥ずかしくなった。
でも、まだここからだ。
先生が音楽を変えた。
「じゃあ、今度は少し長い振りをやってみようか。さっきより難しいよ」
「はい!」
先生が振り付けを見せていく。
私は鏡を見ながら、一つ一つの動きを頭に入れていった。
そして、音楽が流れる。
私は迷わず踊り始めた。
身体の軸を崩さない。腕の先まで意識する。音のアクセントに合わせて動きに強弱をつけ、振り付けと振り付けの間も止まらず自然に繋げていく。
曲が終わった。
レッスン室が一瞬、静かになった。
先生が口を開く。
「……すごいね」
「え?」
「正直、体験の子にここまでできると思ってなかった」
先生は少し笑いながら、私のほうへ歩いてきた。
「リズム感もあるし、身体の使い方もかなり分かってる。しかも、振りを覚えるのが速い。ダンス経験がないって言われたら、たぶん信じられないと思う」
「ありがとうございます!」
私は笑顔で答えた。
前世で十年間やってきたんだから、このくらいできて当然。
……なんて言ったら、さすがに変な人扱いされるよね。
私は心の中でそう思いながら、次のレッスンを待った。
ダンスが終わると、今度は歌のレッスンが始まった。
先生が発声の説明をしてから、みんなで声を出していく。私はこれまで何度も練習してきた呼吸と発声を意識しながら、声を出した。
「じゃあ、萌花ちゃん。一人で少し歌ってみようか」
「はい!」
音源が流れる。
私は一度息を吸ってから、歌い始めた。
声がレッスン室に響く。
音程は安定していて、息も必要以上に乱れない。高音も無理に声を張り上げず、自然に出していく。曲の雰囲気に合わせて声の強弱も変えながら、最後まで歌い切った。
歌い終わった瞬間、先生が目を丸くした。
「……え?」
「?」
「萌花ちゃん、ちょっと待って」
先生が困惑したように笑う。
「歌も初めてじゃないよね?」
「えっと……家で練習してました」
「家で?」
「はい」
「……すごいな」
先生はしばらく考えるように黙ったあと、もう一度私を見る。
「音程、ほとんど外れてない。声のコントロールもできてるし、呼吸もしっかり使えてる。普通にレッスンを受けてきた子みたい」
周りの子たちも驚いた顔でこちらを見ていた。
「ダンスも歌もできるの?」
「すご……」
「同い年くらいだよね?」
私は少し照れながら笑った。
でも、先生はそこで終わらせなかった。
「ただ、もっと上を目指せると思うよ」
「本当ですか?」
「うん。ダンスは細かい表現、歌はもっと感情の乗せ方を覚えたら、かなり変わる。今でも十分上手だけど、ここから先は技術だけじゃなくて、どう見せるかが大事になってくるから」
「分かりました!」
私は大きく頷いた。
できる。
もっと上手くなれる。
そう言ってもらえたことが嬉しかった。
やがて体験レッスンが終わった。
「今日はここまで。お疲れさま!」
「ありがとうございました!」
私は先生に頭を下げ、荷物を持ってレッスン室を出た。
廊下に出ると、母が待っていた。
「どうだった?」
「楽しかった!」
私は笑顔で答えた。
「先生に、ダンスも歌もすごいって言ってもらえた!」
「本当? よかったね」
「うん!」
スクールを出て、母と並んで歩く。
私はさっきのレッスンを思い返していた。
周りの子たちが驚いていたこと。先生が何度も「初めて?」と聞いてきたこと。そして、もっと上を目指せると言ってもらえたこと。
前の人生では、どれだけ努力しても、最後まで夢には届かなかった。
でも、今の私は違う。
十三歳から始められる。
前世で十年間積み重ねた経験がある。
そして、何より――今度は最初から、自分の夢を諦めるつもりなんてない。
「……絶対、なれる」
私は夕方の空を見上げながら、小さく呟いた。
まだオーディションも受けていない。まだステージにも立っていない。
それでも今日、私は確かに一歩前へ進んだ。
この先、どんな未来が待っているのかは分からない。
だけど、今度こそ、私は絶対に、K-POPアイドルになる。




