【episode25】正式に練習生
韓国で正式に契約を結んでから、数週間が経った。
その間、私は韓国での生活に向けて準備を進めていた。学校のこと、荷物のこと、寮での生活について、両親や事務所のスタッフと何度も話し合った。そして今日、私は練習生として韓国で生活するため、再び空港に来ていた。
「パスポートは持った? 必要な書類も確認した?」
「もう何回も確認したよ、お母さん!」
鞄を抱える私に、母は心配そうな顔を向けた。父も隣で頷いている。
「向こうに着いたら、困ったことがあったらすぐに連絡するんだぞ。練習が大変でも、無理して我慢する必要はないからな」
「うん。ちゃんと連絡する!」
笑顔で答えたけれど、胸の奥は少しだけ苦しかった。これまで当たり前だった家族との生活が、今日から変わるのだ。朝起きれば家族がいて、学校から帰れば家がある。疲れた日は自分の部屋でゆっくりできる。そんな毎日から離れ、これからは自分で考えて行動しなければならない。
寂しくないと言えば嘘になる。でも、それ以上に楽しみだった。韓国でレッスンを受けられる。もっと歌が上手くなれる。もっとダンスが上手くなれる。夢に向かって、本格的に進み始められるのだから。
「……じゃあ、行ってくるね!」
私は両親に向かって頭を下げた。
「いってらっしゃい。体には気をつけるのよ」
「応援してるからな」
二人の声を背中に受けながら、私は搭乗口へ向かった。振り返ると、両親はまだこちらを見て手を振っている。私も手を振り返してから、前を向いた。
待っていてね、韓国。今度こそ、本当のスタートだ。
***
韓国に到着すると、事務所のスタッフさんが迎えに来てくれていた。挨拶を交わして車に乗り込み、窓の外を眺める。見慣れない街並みや、聞こえてくる韓国語。契約のために来たときとは違う。今回は、ここで生活するために来たのだ。
「今日から寮生活ですね。生活面で困ったことがあれば、いつでも担当スタッフに相談してください」
「はい。よろしくお願いします!」
返事をしたものの、私は少し緊張していた。これから一緒に暮らす練習生は、どんな人たちなのだろう。仲良くできるかな。レッスンについていけるかな。考え始めると、不安が次々と浮かんでくる。
しばらくして、車がマンションの前で止まった。スタッフさんに案内されて建物に入り、エレベーターで上の階へ向かう。廊下を進んだ先に、一つの部屋があった。
「こちらが練習生の寮です」
「……ここが」
スタッフさんがインターホンを押すと、中から足音が聞こえてきた。扉が開き、同年代くらいの女の子が顔を出す。
「あっ、新しく来るって聞いてた子?」
「そうですよ。音羽萌花さんです。これから一緒に生活することになります」
「はじめまして! 音羽萌花です。よろしくお願いします!」
私が頭を下げると、女の子はにこっと笑った。
「私はユナ! よろしくね。荷物、重かったでしょ? 中に入って!」
部屋の中に入ると、リビングには何人かの女の子がいた。ソファに座っていた子がこちらを振り向き、テーブルで飲み物を飲んでいた子も顔を上げる。
「新しい練習生?」
「うん! 今日から一緒に住むんだって!」
ユナが紹介してくれると、みんなが順番に挨拶してくれた。
「私はソヨン。よろしくね」
「私はミナ。困ったことがあったら聞いてね」
「よろしくお願いします!」
韓国語で挨拶を返すと、ミナが少し驚いた顔をした。
「韓国語、話せるんだね!」
「まだ勉強中だけど、少しなら!」
「すごいじゃん。私、日本語は全然できないから、教えてもらおうかな」
そんな会話に、思わず笑みがこぼれた。まだ会ったばかりなのに、みんな自然に話しかけてくれる。それだけで、少し安心できた。
スタッフさんから寮のルールや生活について説明を受けたあと、私は自分の部屋へ案内された。部屋にはベッドと机、収納スペースが用意されている。派手ではないけれど、これから生活する場所としては十分だった。
「ここが萌花のスペースね。荷物を整理したら、リビングに来て! みんなで夕飯にしようって話してたんだ」
「ありがとう、ユナ!」
私はスーツケースを開け、服や洗面用具、勉強道具を収納場所にしまっていった。最後に、いつも使っている練習ノートを机の上に置く。これからは、ここで練習の記録をつけていくのだ。
ノートを開き、新しいページに今日の日付を書いた。
『韓国での寮生活、スタート。今日から本格的に練習生としての生活が始まる』
その下に目標を書き足そうとしたとき、スマートフォンが震えた。
事務所からの連絡だった。
『音羽さん、本日は到着後、寮で荷物を整理したあと、午後のレッスンに参加していただきます。動きやすい服装と室内用シューズを用意してください。詳しい時間は担当スタッフがご案内します』
「……えっ、今日から!?」
思わず声が出た。
いや、考えてみれば当たり前だ。私は旅行に来たわけじゃない。練習生として韓国に来たのだから、レッスンがあるのは当然だ。
むしろ、早く実力を見てもらいたい。
「ユナ! 今日って、みんなレッスンあるの?」
部屋から顔を出して尋ねると、ユナは当たり前のように頷いた。
「あるよ! 午後からダンスレッスン。萌花も参加するんでしょ?」
「うん! ……ちなみに、どんな感じ?」
「先生によるけど、今日は新しく入った子もいるから、基礎を確認するんじゃないかな。初日から大変かもしれないけど、頑張ろうね!」
「うん!」
私は急いで荷物の整理を終え、動きやすい服に着替えた。室内用シューズを鞄に入れ、練習ノートも持っていく。準備を終えてリビングに戻ると、ユナたちも出かける支度をしていた。
「じゃあ、行こっか!」
「よろしくお願いします!」
私は新しい仲間たちと一緒に、事務所へ向かった。
***
事務所に到着すると、スタッフさんに案内されて練習室へ入った。広い室内の壁一面に鏡があり、床はダンスをしやすいように整えられている。スピーカーや音響機器も設置されていて、ここで毎日練習するのだと思うと、自然と背筋が伸びた。
すでに何人かの練習生が集まっていた。年齢も雰囲気もさまざまで、みんなそれぞれストレッチをしたり、音楽に合わせて動きを確認したりしている。
「みんな、集まって」
先生が入ってくると、練習生たちが一斉に姿勢を正した。
「今日から新しく練習に参加する子がいます。日本から来た音羽萌花さんです」
視線が一斉にこちらへ集まった。
「音羽萌花です。よろしくお願いします!」
私は深く頭を下げた。
「よろしくね。では、さっそく始めましょう。今日は全員の基礎を確認します。経験がある人も、初めての人も、手を抜かずに取り組んでください」
先生の言葉に、私は頷いた。
最初はストレッチと基礎トレーニング。そのあと、リズムの取り方や体の使い方を確認し、短い振り付けを覚えることになった。
振り付け自体は難しすぎるものではなかった。けれど、先生は動きの正確さだけでなく、重心の位置や腕の角度、目線まで細かく見ていた。
「そこ、もう一度。腕だけを動かすのではなく、体全体でリズムを取って」
「はい!」
音楽が流れる。私は鏡で自分の姿を確認しながら、指示された動きを繰り返した。
前世でも、ダンスは何度も練習してきた。基礎の大切さも、細かな動きが全体の印象を変えることも知っている。だからこそ、ここで経験に甘えるつもりはなかった。
先生が近づいてきて、私の動きをじっと見た。
「音羽さん、ダンスの経験は長いの?」
「はい。ずっと練習してきました」
「そう。リズムの取り方はいいわね。ただ、動きをきれいに見せようとする意識が強い分、少し硬くなるところがある。もっと音楽に乗ってみて」
「わかりました!」
私はもう一度、最初の位置に戻った。
音楽を聴く。リズムを感じる。振り付けをただ正確になぞるのではなく、曲そのものを体で表現する。
次に踊り終えたとき、先生は小さく頷いた。
「今の方がいい。指示を受けて、すぐに修正できるのは強みね」
「ありがとうございます!」
胸の奥が熱くなった。嬉しい。でも、まだ満足しない。私はもう一度、鏡の前に立った。
その後も、基礎トレーニングと振り付けの練習は続いた。途中で息が上がり、足が重くなる。それでも、周りの練習生たちは集中を切らさずに取り組んでいた。私も最後まで気を抜かないよう、何度も自分に言い聞かせた。
ようやく休憩に入ると、ユナがタオルを持って近づいてきた。
「お疲れさま! 初日、どうだった?」
「思ってたより、ずっと細かく見られるんだね。でも、すごく勉強になった!」
「でしょ? 先生、細かいところまでよく見てるんだよね」
「うん。でも、そういうところを直していけば、もっと上手くなれると思う」
そう答えると、ユナは少し驚いたあと、笑顔になった。
「萌花って、前向きだね」
「だって、上手くなりたいから!」
私はタオルで汗を拭いた。疲れてはいる。でも、それ以上に、もっと練習したいという気持ちが強くなっていた。
***
ダンスレッスンのあとには、短いボーカルチェックもあった。先生から指定されたフレーズを歌い、音程や発声の癖を確認してもらう。
私は息を整え、伴奏に合わせて歌い始めた。歌い終わると、ボーカルの先生が資料に何かを書き込んだ。
「音程は安定しているわね。声の出し方も、基本はできている。ただ、歌詞の意味を伝える部分は、これからもっと伸ばせそう」
「歌詞の意味を伝える……ですか?」
「ええ。音を正しく出すことと、聴く人に気持ちを届けることは別なの。技術を磨くのと同時に、どう表現するかも考えてみて」
「はい。頑張ります!」
私はその言葉を、忘れないように心の中に刻んだ。
レッスンが終わった頃には、すっかり夕方になっていた。体は疲れていたけれど、不思議と気持ちは軽かった。今日一日だけでも、自分の課題がいくつも見つかったからだ。
帰り道、ユナが私の顔を覗き込んだ。
「疲れた?」
「ちょっと。でも、楽しかった!」
「よかった! 最初は大変だと思うけど、少しずつ慣れていこうね」
「うん。これからよろしくね、ユナ!」
「こちらこそ!」
寮に戻ると、みんなで夕飯を食べた。今日のレッスンで注意されたことを話すと、ソヨンが自分の経験も教えてくれた。
「私も最初は、動きを正確にすることばっかり考えてたよ。でも、先生に『踊りながら音楽を楽しんで』って言われて、少しずつ変わったんだ」
「そうなんだ……。私も意識してみる!」
「一緒に頑張ろうね」
食事を終え、自分の部屋に戻った私は、練習ノートを開いた。今日注意されたこと、できたこと、次に意識すること。忘れないうちに、一つずつ書き込んでいく。
『ダンス:動きが硬くならないよう、音楽に乗る。体全体でリズムを取る』
『ボーカル:音程だけでなく、歌詞の意味や感情を伝えることを意識する』
そして最後に、今日の感想を書いた。
『初日からレッスン。疲れたけど、学ぶことがたくさんあった。ここで成長して、絶対にデビューする』
書き終えた私は、ペンを置いた。
前世では、夢を追いかける途中で諦めざるを得なかった。でも、今の私は違う。ここには、私を指導してくれる先生がいて、一緒に頑張る仲間がいる。そして何より、もう一度挑戦できるチャンスがある。
「……絶対、デビューするから」
私はノートを閉じ、明日の準備を始めた。韓国での生活は始まったばかり。明日もきっと、今日とは違う課題が見つかるだろう。
でも、怖くはない。
一日ずつ、少しずつ。昨日より今日、今日より明日の自分が成長できるように。
私の練習生生活は、こうして本格的に始まった。




