【episode24】契約
契約の話が来てから、数日が経った。
机の上には、R&M entertainmentから送られてきた書類が置かれている。正式な練習生契約についての案内と、韓国での面談日程。何度読み返しても、そこに書かれた会社名を見るたびに胸が高鳴った。
R&M entertainment。韓国の大手芸能事務所。前世の私が、何度も画面越しに見ていたような世界。その事務所と、今の私は本当に契約を結ぼうとしている。
「萌花、パスポート持った?」
「持った! 必要な書類も全部確認したよ!」
玄関で母に返事をしながら、私は鞄の中身をもう一度確認した。パスポート、契約に関する書類、筆記用具。それから、何度も読み返した事務所からの案内。忘れ物はない。
今日は、両親と一緒に韓国へ行く。目的は観光でも買い物でもない。R&M entertainmentの本社で社長と直接会い、練習生契約の内容を確認するためだ。
「そんなに緊張してるの?」
父に聞かれて、私は思わず自分の手を見た。たしかに、指先に少し力が入っている。
「……してる。でも、楽しみの方が大きいかな」
「大事な契約だからね。わからないことがあったら、遠慮せずに聞くんだよ。急いでサインする必要はないんだから」
「うん、わかってる!」
私は大きくうなずいた。夢を叶えるための一歩だからこそ、勢いだけで進むつもりはない。自分の将来に関わることだ。ちゃんと内容を理解して、納得したうえで契約したい。
そして、私たちは韓国へ向かった。
飛行機の窓から景色を眺めながら、私はこれまでのことを思い返していた。前世では、どれだけ練習しても、どれだけ努力しても、夢に手が届かなかった。最後に告げられたのは、「ビジュアルがダメです」という言葉。あのときの悔しさは、今でも忘れていない。
でも、今の私は違う。もう一度チャンスをつかんだ。だからこそ、今度は絶対に途中で諦めたくない。
「……絶対、アイドルになる」
小さくつぶやいた言葉は、機内の静かな空気に溶けていった。
韓国に到着し、移動を終えた私たちの目の前に、大きな建物が現れた。入口にはR&M entertainmentのロゴが掲げられている。写真や映像で見たことはあったけれど、実際に目の前にすると、想像していた以上の迫力だった。
「ここが……」
思わず足を止める。ここで、たくさんの練習生がデビューを目指して努力している。いつか私も、その中の一人になるのだ。
「萌花、行こうか」
母に声をかけられ、私は「うん!」と答えて歩き出した。
受付で名前と面談の予定を伝えると、スタッフが丁寧に案内してくれた。廊下を進む途中、ガラス越しにダンス練習室が見えた。中では何人かの練習生が音楽に合わせて踊っている。揃った動き、真剣な表情、床を踏む音。見ているだけで、自然と背筋が伸びた。
ここでは、夢を叶えるためにみんなが本気で努力している。私も、ここで戦っていくんだ。
案内された会議室に入ると、社長と契約担当のスタッフが待っていた。
「遠いところまで来ていただき、ありがとうございます」
社長が立ち上がり、私たちに挨拶をした。画面越しではなく、直接会う社長。その存在感に少し圧倒されながらも、私はしっかりと頭を下げた。
「音羽萌花です。本日はよろしくお願いいたします」
「こちらこそ。文化祭でのパフォーマンス、とても印象に残っていますよ」
社長は穏やかに微笑んだ。
「歌とダンスの技術だけでなく、観客を惹きつける力がありました。ただ、これから練習生として活動していくなら、さらに伸ばしていくべき部分もあります。私たちは、その成長に期待しています」
「はい。もっと上手くなりたいです。歌もダンスも、韓国語も、全部頑張ります」
自分の口から出た言葉に、迷いはなかった。
その後、契約担当のスタッフが書類を机の上に広げた。いよいよ、本題だ。
「それでは、契約内容について一つずつご説明いたします。ご不明な点があれば、その都度お尋ねください」
まず説明されたのは、練習生としての立場についてだった。今回の契約は、R&M entertainmentの練習生としてレッスンや評価を受けるためのもの。契約したからといって、デビューが確約されるわけではない。今後の成長や評価、グループ編成などによって、デビューまでの道のりは変わる。
「つまり、契約を結んだ時点でデビューが決まるわけではない、ということですね?」
父が確認すると、スタッフはうなずいた。
「はい。練習生として経験を積み、定期的な評価を受けていただきます。その結果によって、今後の活動方針を検討します」
「萌花本人が努力することはもちろんですが、会社側はどのような基準で評価するのでしょうか?」
母も真剣な表情で質問した。
「歌唱力、ダンス、韓国語、表現力、ステージでの対応力など、複数の項目を総合的に確認します。一度の評価だけで判断するのではなく、日々の成長も見ていきます」
私は説明を聞きながら、頭の中で整理していった。歌、ダンス、韓国語、表現力。どれも、これからさらに磨いていかなければならないものだ。
次に説明されたのは、レッスンの内容だった。ボーカル、ダンス、韓国語の授業に加え、表情やカメラへの対応、ステージでの見せ方なども学ぶことになる。必要に応じて、個別の指導や追加の評価が行われる場合もあるそうだ。
「レッスンの時間やスケジュールは、どのように決まるのでしょうか?」
母の質問に、スタッフが資料を示した。
「基本的な予定はこちらで組みます。ただし、学業との両立が必要な場合は、ご家族と相談しながら調整します。学校生活を含め、本人の状況を確認したうえで進めます」
その言葉に、私は少し安心した。アイドルを目指すからといって、何もかも一人で決めていいわけではない。家族と相談しながら進めることも、大切なことなのだ。
続いて、契約期間と更新についての説明があった。契約には定められた期間があり、継続する場合は双方で条件を確認すること。契約を終了する際の手続きについても、書面に記載されている内容を確認した。
費用についても、細かい説明が続いた。会社が負担するもの、本人や家族に費用が発生する可能性のあるもの、それぞれの条件が資料に記載されている。父と母は該当する項目を一つずつ確認し、わからない部分はその場で質問した。
さらに、韓国で活動する場合の生活環境や安全面、緊急時の連絡体制、個人情報の管理についても説明された。写真や動画の撮影・公開に関するルール、SNSの利用制限、会社の許可が必要な活動についても、具体的に確認していく。
「韓国での生活が必要になった場合は、いつ頃からになるのでしょうか?」
父が尋ねた。
「現時点で、すぐに長期間の移住を決めていただく必要はありません。実際に韓国での生活が必要になる段階になれば、学業や住居、生活のサポートなどについて、ご家族と改めて相談し、別途必要な手続きを進めます」
「その場合も、本人と家族が内容を確認してから決められる、ということですね?」
「はい。今回の契約だけで、今後の生活に関するすべてが決定するわけではありません」
母は説明を聞き終えると、契約書の該当部分に目を落とした。父も同じように書類を確認している。私は二人の様子を見ながら、改めて契約の重さを感じていた。
これは、ただ憧れの会社に名前を登録するだけの話ではない。自分の夢に向かって進むために、責任を持って結ぶ約束なのだ。
契約担当のスタッフが、最後のページを開いた。
「以上が、今回の練習生契約の主な内容となります。ほかに確認したい点はございますか?」
父と母はもう一度、資料を最初から見直した。いくつか細かな確認をしたあと、二人は顔を見合わせてうなずいた。
「説明は理解できました。萌花本人の意思も確認したうえで、契約したいと思います」
社長が私に視線を向けた。
「萌花さん。あなた自身は、どうしたいですか?」
私は一度、息を吸った。
この瞬間を、ずっと夢見ていた。前世では届かなかった場所。何度も諦めそうになって、それでも諦めきれなかった夢。その夢に、もう一度挑戦できる機会が目の前にある。
「私は、R&M entertainmentの練習生になりたいです。まだ足りないところがあるのもわかっています。でも、だからこそ、もっと練習して成長したいです。いつか、たくさんの人に夢を与えられるアイドルになります」
言い終えると、社長は静かにうなずいた。
「その気持ちを忘れずに、努力を続けてください。私たちも、あなたの成長を見守っていきます」
契約書が私の前に置かれた。署名欄には、私の名前を書くための空白がある。ペンを手に取ると、少しだけ指先が震えた。
音羽萌花。
一文字ずつ、丁寧に書いていく。続いて、保護者欄に父が署名した。必要な書類をすべて確認し、契約担当のスタッフが手続きを進めていく。
そして、契約が正式に成立したことを告げられた。
「本日より、音羽萌花さんはR&M entertainmentの練習生となります。これからよろしくお願いいたします」
「よろしくお願いいたします!」
私は深く頭を下げた。
たった今、自分の夢に向かうための大きな一歩を踏み出した。まだデビューが決まったわけではない。これから厳しい評価もあるだろうし、思い通りにいかないことだってあるはずだ。それでも、私はここから逃げない。
帰りの移動中、私は鞄からノートを取り出した。いつも練習内容や目標を書き込んでいるノートだ。新しいページを開き、今日の日付を書いた。
『R&M entertainment、練習生契約成立。今日、私は夢への一歩を踏み出した』
その下に、もう一行付け加える。
『絶対にデビューする。昨日より今日、今日より明日の自分が成長できるように』
書き終えた私は、ノートを閉じて窓の外を見た。
韓国の景色が流れていく。ここが、これから私が何度も訪れる場所になるかもしれない。いつか、この国で本格的に活動する日が来るかもしれない。
でも、今はまだ練習生だ。焦る必要はない。一つずつ実力を身につけて、できることを増やしていこう。
「……待っててね。絶対、アイドルになるから」
私はノートを胸に抱き、もう一度、心の中で誓った。




