【episode23】希望 〜瑠夏サイド付き〜
文化祭が終わっても、体育館で起きた出来事は、学校中の話題になっていた。
「ねえ、音羽さんが韓国の事務所にスカウトされたって本当!?」
「しかも、オーディションの案内じゃなくて正式合格なんでしょ?」
「四曲も踊って歌ってたし、あれだけできるなら納得かも……!」
廊下を歩くだけで、あちこちから私の名前が聞こえてくる。昨日までほとんど話したことのなかった子にまで声をかけられ、私は何度も同じ説明をすることになった。
「うん、本当だよ。でも、これから家族と相談して、詳しいことを決めていくんだ」
そう答えると、みんな目を輝かせた。
「えーっ、すごい! 絶対アイドルになってよ!」
「デビューしたら教えてね!」
「私、昨日の動画撮ったから、友達にも見せる!」
うれしかった。私のパフォーマンスを見て、こんなふうに応援してくれる人がいる。その事実が、夢に一歩近づけたことと同じくらい、胸に響いた。
もちろん、練習生になれたからといって、すぐにアイドルとしてデビューできるわけではない。これから先、どんな生活が待っているのかも、まだわからないことだらけだ。それでも、ようやく夢に向かうための大きなチャンスを掴めた。そのことが、何よりもうれしかった。
放課後、私は先生に呼び止められた。
「音羽さん、ちょっといいかな?」
職員室に向かうと、先生は私に椅子を勧めた。
「今日の文化祭のことなんだけど、R&M entertainmentの代表の方から、学校にも連絡があったよ。正式に練習生として迎えたいというお話だったそうだね」
「はい。私も、まだびっくりしていて……」
「そうだろうね。先生も驚いたよ。でも、音羽さんがこれまで頑張ってきたことが、今日のステージにつながったんだと思う」
先生の言葉に、私は少し照れくさくなった。
「ただ、韓国での練習生生活となると、学校のことや生活のことも含めて、ご家族としっかり話し合う必要がある。事務所の方から詳しい説明を受けて、納得したうえで決めるんだよ」
「はい。ちゃんと相談します」
「うん。それと、今日の動画がSNSで広まっているみたいだから、個人情報には気をつけてね。知らない人から連絡が来ても、ひとりで対応しないこと」
「わかりました」
夢が近づいたからこそ、気をつけなければいけないこともある。浮かれすぎず、ひとつずつ進めていこう。私は先生にお礼を言い、職員室を出た。
廊下の窓から、夕方の光が差し込んでいた。
――お母さんとお父さん、どんな反応するかな。
うれしいと言ってくれるだろうか。それとも、韓国に行くことを心配するだろうか。そもそも、練習生になったらどんな生活が待っているのか、私自身もまだ全部わかっていない。
でも、ひとつだけ確かなことがある。
私は、アイドルになりたい。
その気持ちだけは、誰にも譲れなかった。
***
家に帰ると、私は鞄を置くより先に、リビングへ向かった。
「お母さん、お父さん! ちょっと聞いてほしいことがあるの!」
二人は突然の大声に驚いて、こちらを振り返った。
「どうしたの、萌花? そんなに慌てて」
「文化祭で何かあったのか?」
「実はね……」
私は文化祭のステージで四曲を披露したこと、その直後にR&M entertainmentの社長がステージに上がってきたこと、そして正式に練習生として迎えたいと言われたことを、順番に説明した。
話しているうちに、だんだん実感が湧いてきた。口に出すたび、あれは本当に起きたことなのだと思える。
「……それで、正式合格って言われたの?」
お母さんが目を丸くした。
「うん。スカウトだから、オーディションを受けるための案内じゃなくて、事務所として私を練習生に迎えたいって」
「すごいな……」
お父さんは驚いた様子で、しばらく黙っていた。それから、私の顔を見て尋ねた。
「萌花は、どうしたいんだ?」
私は迷わず答えた。
「行きたい。練習生になりたい。もちろん、韓国で生活することも、練習が大変なことも、簡単じゃないってわかってる。でも、私はずっとアイドルになりたかったから。せっかくもらえたチャンスを、無駄にしたくないの」
二人は顔を見合わせた。
「……少し、詳しく話を聞かせてほしいな」
お母さんは真剣な表情で言った。
「事務所がどんなところなのか、生活や学校はどうなるのか、費用はどれくらいかかるのか。萌花の夢を応援したくないわけじゃないのよ。でも、大切なことだから、ちゃんと確認してから決めたいの」
「うん。私も、それがいいと思う」
私は頷いた。
ここで、何もかもが一気に決まるわけじゃない。夢を叶えるためには、実力だけじゃなく、現実的な準備も必要になる。
それでも、両親は私の夢を頭ごなしに否定しなかった。そのことが、何よりもうれしかった。
「じゃあ、事務所から詳しい連絡が来たら、一緒に話を聞こう」
お父さんの言葉に、私は大きく頷いた。
「ありがとう!」
自分の部屋に戻った私は、机の上に置いてある練習ノートを開いた。これまで書き込んできた韓国語の単語や、ダンスで気をつけること、歌の課題。ページをめくるたび、今まで積み重ねてきた時間がそこに残っている。
ノートの最後に、私は新しい一文を書き加えた。
『夢への切符を手に入れた。ここからが、本当の勝負。』
ペンを置き、私は小さく息を吐いた。
うれしい。でも、まだ満足なんてしていられない。
練習生になれたとしても、そこから先にはもっと厳しい練習が待っているはずだ。歌もダンスも、韓国語も、表現力も。磨かなければいけないものは、まだまだたくさんある。
「もっと上手くなろう」
私はノートを閉じた。
「絶対に、夢を叶えるんだ」
窓の外では、夕日がゆっくりと沈んでいった。
***
瑠夏サイド
「……ねえ、あれ見た?」
澪音がスマホの画面を見せてきた。
文化祭のパフォーマンスを撮影した動画だった。ステージの上で踊る萌花の姿と、最後に体育館中から拍手が起こる場面。動画には、すでにたくさんのコメントがついていた。
『この子、普通にプロみたい』
『四曲全部雰囲気が違うのに、どれも似合ってる!』
『韓国の事務所にスカウトされたって本当?』
『デビューしたら絶対応援する!』
「……何これ」
思わず声が出た。
「動画、こんなに広まってるの? 学校の公式アカウントだけじゃなくて、個人でも投稿されてるみたい」
澪音は画面をスクロールしながら説明した。文化祭の動画は、学校の公式アカウントに投稿されたものだけではなかった。観客が撮影した短い動画もSNSに上がり、萌花のパフォーマンスが次々と共有されているらしい。
「でも、まだデビューしたわけじゃないんでしょ?」
麗奈が強い口調で言った。
「練習生になるってだけじゃん。そこからデビューできるかなんてわからないし」
「それはそうだけど……」
澪音の返事には、いつもの余裕がなかった。
私はスマホの画面を見つめたまま、ぎゅっと唇を結んだ。
なんで?
なんで、こんなことになってるの?
だって、文化祭で歌って踊るだけのはずだった。四曲も披露するなんて聞いたときは、途中で失敗すると思っていた。歌えなくなったり、振りを間違えたりすれば、調子に乗っている萌花に現実を思い知らせてやれる。そうなれば、また私たちのほうに注目が戻ってくるはずだった。
なのに、どうして?
どうして、あんなに歓声が上がるの?
どうして、韓国の芸能事務所の社長が出てくるの?
どうして、私たちが見下していた相手が、こんな大勢の前で認められているの?
「……ねえ、ちょっと待ってよ」
私は思わず声を上げた。
「だって、あの子、ただダンスが好きなだけでしょ? 学校でちょっと目立ってただけじゃん……」
自分に言い聞かせるように言ったけれど、澪音も麗奈も、すぐには返事をしなかった。
「でも、瑠夏……。社長本人が正式合格って言ってたよね?」
澪音の言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
そうだ。
聞き間違いじゃない。
スカウト。正式合格。
その言葉が、頭の中で何度も繰り返される。
「……なんで、萌花なの?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「私だって、みんなからかわいいって言われてるし……。澪音も麗奈も、私のほうが目立ってるって言ってたじゃん」
「瑠夏……」
「なのに、なんであの子ばっかり……!」
最後の言葉は、ほとんど声になっていなかった。
澪音は周囲を気にして、慌てて私の腕を引いた。
「ちょっと、声大きいって! みんなこっち見てる!」
実際、近くにいた生徒たちが私たちの様子に気づき始めていた。
「え、あの三人、音羽さんと仲いいんじゃなかったの?」
「なんか、すごい顔してない?」
「さっきまで普通に見てたのに……」
「っ……!」
私は慌てて表情を取り繕った。しかし、笑顔を作ろうとしても、頬が引きつるばかりだった。
麗奈が小声で言った。
「……これ、どうするの?」
「どうするって、何が?」
「何がって……! あの子、本当に韓国の事務所に行くかもしれないんだよ? このまま有名になったら、私たちが今まで何してたかだって……」
「やめて!」
思わず、鋭い声で遮った。
二人がびくっと肩を揺らす。
「今、それ言わないで……!」
自分でも、何をどうすればいいのかわからなかった。
今までなら、少し嫌味を言えばよかった。周りに聞こえるように悪口を言って、萌花がひとりになるように仕向ければよかった。自分たちが笑っていれば、周りも一緒になって笑ってくれる。そうやって、萌花の立場を少しずつ悪くしていけばいいと思っていた。
でも、今は違う。
目の前にいるのは、ただクラスで目立っているだけの女の子じゃない。大勢の観客を魅了し、韓国の芸能事務所の社長に実力を認められ、正式に練習生として迎えられることになった女の子だ。
もし本当にデビューしたら?
もし、テレビやSNSで何万人、何十万人もの人に知られるようになったら?
もし、今日のことが広まって、学校中が萌花の味方になったら?
考えれば考えるほど、胸の中がざわついていく。
「……こんなの、納得できない」
私は唇を噛んだ。
「絶対、何かの間違いだよ。だって、私たちのほうが……」
そこまで言って、言葉が止まった。
自分たちのほうが、何なのだろう。
かわいい? 人気がある? クラスで目立っている?
でも、さっきのステージで、観客の目を奪っていたのは萌花だった。社長が声をかけたのも萌花だった。そして、正式合格を告げられたのも――。
「……っ、もういい!」
私は顔を背けた。
「帰ろ。こんなの、見てらんない」
「でも、まだ文化祭……」
「いいから!」
澪音と麗奈は、慌てて私の後を追ってきた。しかし、二人ともさっきまでの余裕はすっかり消えていた。
「……ねえ、瑠夏。これから、本当にどうする?」
澪音が不安そうに尋ねた。
私はすぐには答えられなかった。
だって、わからない。
今までみたいに、萌花を笑っていればいいの? 陰で悪口を言って、周りから孤立させればいいの? そんなことをしたって、もう何も変わらないんじゃないの?
それでも、あの子が自分たちより先に進んでいくのを、黙って見ているなんてできなかった。
「……まだ、終わってないから」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。
「え?」
「何でもない!」
私は二人を置いて、足早に歩き出した。
頭の中には、ステージの上で笑っていた萌花の姿が、何度も浮かんでいた。
あの笑顔が、どうしても許せなかった。
そして何より、今まで感じたことのない焦りが、私の中で膨らみ続けていた。




