【episode19】いじめと文化祭
最低。
あの日、校舎裏で瑠夏たちに言い返してから、私の学校生活は少しずつ変わっていった。
最初に変わったのは、クラスの空気だった。
朝、教室に入ると、何人かの女子がこちらを見て、わざと聞こえるように声をひそめた。
「ねえ、来たよ」
「うわ、今日もいるんだけど」
「よく普通に学校来られるよね。私だったら恥ずかしくて無理かも」
くすくすと笑う声が聞こえる。
……はいはい、私のことね。
私は聞こえないふりをして、自分の席に向かった。反応したら、きっと喜ぶ。そう思って、何も言わずに鞄を机の横にかけた。
「ていうか、あの子、最近調子乗りすぎじゃない?」
「分かる。ちょっと男子と話してるだけで、自分が特別だと思ってそう」
「アイドルになりたいんだっけ? その前に、クラスで嫌われてること気づいた方がいいんじゃない?」
また笑い声が上がった。
声の主は、瑠夏たちとよく一緒にいる女子たちだった。本人たちがどこまで知っているのかは分からない。でも、瑠夏たちが近くにいると、悪口はさらに大きくなった。
「ねえ、瑠夏。あの子ってさ、昨日も朝比奈くんと話してたよね?」
「えー、まだ話してるの? すごいね、ほんと」
瑠夏は私をちらりと見て、わざとらしく肩をすくめた。
「まあ、別にいいんじゃない? 私、もう何も言わないし」
「優しーい!」
澪音が笑った。
「私だったら、あんなこと言われたら絶対許せないけどなあ」
「分かる。普通、あんな言い方しないよね」
麗奈まで加わり、三人は楽しそうに話していた。
……いや、全部聞こえてるんだけど。
もう少し声を小さくする努力くらいしたらどうなの。
そう思ったけれど、口には出さなかった。ここで言い返せば、また面倒なことになる。今は余計な争いを増やしたくなかった。
私は席に座り、教科書を取り出そうとした。
そのとき、机の上に何かが書かれていることに気づいた。
油性ペンで、机の端に大きく書かれた文字。
『調子乗んな』
その下には、小さく『ぶりっこ』『嫌われ者』と続いていた。
「…………」
思わず、しばらく眺めてしまった。
え、何これ。
小学生でも、もうちょっとマシな嫌がらせを考えるんじゃない?
幼稚なことするねぇ……。
心の中で呆れながらも、私は額に手を当てた。
いや、待って。
これ、どうしよう。
消せるのかな。油性ペンだよね、これ。先生に見つかったら説明しなきゃいけないし、勝手に消して机を傷めたらそれはそれで面倒だ。
……いや、そういう問題じゃないか。
誰がやったのかは分からない。でも、こんなことをする人がいる教室で、これからも毎日過ごさなきゃいけないのかと思うと、さすがに頭が痛くなった。
「どうしたの、萌花ちゃん?」
近くを通りかかった女子が、机を覗き込んだ。
「あー……これね」
私は苦笑した。
すると、その子は一瞬だけ表情を変えたあと、困ったように目をそらした。
「……大変だね」
そう言って、足早に離れていった。
……え、終わり?
いや、助けてほしいわけじゃないけど。
せめて、誰がやったのか一緒に考えてくれるとか、先生に知らせるとか、何かないのかな。
そう思ってしまった自分に、私は小さく息を吐いた。
誰かが助けてくれることを、期待しすぎていたのかもしれない。
私は先生に事情を説明し、机の落書きについて相談した。先生は真剣な顔で話を聞き、確認してみると言ってくれた。ただ、その場では誰がやったのか分からなかった。
結局、机の文字は先生に確認してもらってから、学校の用具を使って消すことになった。
落書きが消えた机を見ても、気分が晴れることはなかった。
*
嫌がらせは、それだけでは終わらなかった。
次の日、体育の授業で使うはずの体操服が、鞄の中からなくなっていた。最初は自分が入れ忘れたのかと思ったけれど、朝、ちゃんと確認した記憶がある。
念のため鞄の中身を全部出してみても、見つからない。
「どうしたの?」
クラスメイトに聞かれ、私は事情を説明した。
すると、その子は周りを気にするように視線を動かした。
「あ……そうなんだ。でも、忘れたんじゃない?」
「朝は入ってたと思うんだけど……」
「そっか。まあ、先生に言ったら?」
そう言って、会話を切り上げられてしまった。
結局、先生に相談して予備の体操服を借りることになった。授業が終わって教室に戻ると、私の机の中から、なくなったはずの体操服が出てきた。
……え?
なんで、ここに?
私は体操服を見つめた。
誰かが、わざわざ鞄から出して机の中に入れたのだろうか。
考えたくなかったけれど、そうとしか思えなかった。
その日の帰り、廊下を歩いていると、後ろから声が聞こえた。
「ねえ、音羽ってさ、最近ずっと被害者ぶってない?」
「分かるー。何かあったらすぐ先生に言うタイプ?」
「先生に気に入られてるからって、何でも許されると思ってるんじゃない?」
足音が近づいてくる。
振り返ると、瑠夏と澪音、それからクラスメイトが二人いた。
「……何か用?」
私が尋ねると、瑠夏は目を丸くした。
「え? 別に? ただ話してただけだよ?」
「そうそう。自分のことだと思ったの?」
澪音が笑った。
「ねえ、瑠夏。こういうのって、何て言うんだっけ?」
「えー、何だろう?」
二人は顔を見合わせ、楽しそうに笑った。
「自意識過剰?」
「それそれ!」
……なるほど。
ここまで分かりやすいと、逆に感心する。
私は小さく息を吐き、その場を離れた。
後ろから、また笑い声が聞こえた。
*
それからも、似たようなことが続いた。
授業中、私が発言すると、後ろの席から小さな笑い声が聞こえる。
「また目立とうとしてる」
「先生に褒められたいんじゃない?」
班活動では、私の意見だけ露骨に無視された。話し合いに参加しようとすると、誰かが別の話題を始める。私が話し終わる前に、別の子が大きな声で話し出すこともあった。
「ねえ、萌花ちゃんって本当にアイドルになれると思ってるの?」
ある日の休み時間、澪音が突然尋ねてきた。
「……何?」
「だって、そんなに嫌われてるのに、アイドルになって大丈夫なのかなって。ファンって、そういうところも見てるんじゃない?」
「そうだよね。性格って大事だもんね」
麗奈が冷たく笑った。
「自分が人気者になれるって、本気で思ってるのがすごいよね」
私はノートを閉じた。
……ああ、もう。
何を言っても、何をしても、結局は私を馬鹿にする材料にされる。
「ねえ、何か言い返したら?」
瑠夏が私の顔を覗き込んだ。
「この前みたいにさ。あんなに偉そうに言い返せるんだから、今日も何か言えばいいじゃん」
「……別に、言うことないから」
「ふーん。急に大人しくなっちゃったね?」
「つまんないの」
麗奈が吐き捨てるように言い、三人は離れていった。
私は机に視線を落とした。
本当は、言い返したかった。
ふざけないで。いい加減にして。何で私ばっかり、こんなことをされなきゃいけないの?
そう叫びたかった。
でも、毎回言い返していたら、きっと終わらない。
それに、私にはやることがある。
ダンスの練習も、歌の練習も、韓国語の勉強も。夢を叶えるために、時間はいくらあっても足りない。
こんなことに、私の全部を持っていかれたくなかった。
だから私は、学校ではできるだけ反応しないことにした。
悪口が聞こえても、聞こえないふりをする。嫌味を言われても、必要以上に相手にしない。机に何か書かれていたら、先生に相談する。
それでも、傷つかないわけではなかった。
教室で一人になったとき。みんなが楽しそうに話しているのに、自分だけ会話に入れないとき。何もしていないのに笑われたとき。
ふとした瞬間に、胸の奥が重くなった。
――私、何か間違えたのかな。
あのとき、黙っていればよかったのだろうか。
瑠夏たちに謝って、朝比奈くんと話すのをやめていれば、こんなことにはならなかったのだろうか。
そんな考えが頭をよぎるたび、私は首を横に振った。
違う。
私は、悪いことなんてしていない。
誰と話すかは、私が決めていい。
自分の夢を追いかけることだって、誰かに許可をもらう必要なんてない。
私はアイドルになるために、今できることを頑張る。
誰かに認めてもらうためだけじゃない。自分が本当に叶えたい夢だからだ。
だから、やめたくなかった。
*
それからしばらく経ったある日。
朝、教室に入ると、黒板の端に大きく『文化祭について』と書かれていた。
窓の外から吹き込む風も、少しずつ涼しくなっている。いつの間にか、季節は秋へと近づいていた。
もう、そんな時期なんだ。
席に着いて教科書を出していると、担任の先生が教室に入ってきた。
「みんな、そろそろ文化祭の準備を始めるぞ。今日はクラスで何をするか、意見を出し合ってもらう」
その言葉に、教室が一気にざわついた。
「えー、何やる?」
「劇とか?」
「お化け屋敷は?」
「準備、大変そうじゃない?」
みんなが思い思いに話し始める。
文化祭。
せっかくの行事なのだから、できれば楽しく過ごしたい。そう思う一方で、今のクラスの雰囲気を考えると、素直に楽しみにすることはできなかった。
「じゃあ、何かやりたいことがある人は発表してみてくれ」
先生に促され、何人かが手を挙げた。
「演劇はどうですか?」
「台本とか考えるの大変そう」
「じゃあ、教室でカフェとか?」
「飲食ってできるんですか?」
「お化け屋敷なら、準備もみんなでできそうじゃない?」
次々と意見が出るものの、なかなか決め手が見つからない。
「うーん、ほかに何かないか?」
先生が教室を見回した。
そのとき、私は教室の少し前の方に座っている三人に気づいた。
瑠夏、澪音、麗奈。
三人はそれまで、ほとんど話し合いに参加していなかった。けれど、周りの意見が途切れた瞬間、顔を見合わせた。
そして、瑠夏がにっこりと笑った。
澪音も、麗奈も、まるで同じことを考えているかのように頷いている。
……何?
嫌な予感がした。
「先生、私たち、ちょっといい案があるんですけど!」
瑠夏が明るい声で手を挙げた。
「おっ、何だ? 聞かせてくれ」
三人はもう一度、顔を見合わせた。
その表情を見た瞬間、私の胸の奥がざわついた。
瑠夏はクラスのみんなを見渡し、いつもの可愛らしい笑顔で口を開いた。
「実はね、私たち、いいこと思いついちゃったんだよね!」
瑠夏はそう言いながら、にこっと笑った。その笑顔はいつもと変わらない。けれど、隣にいる澪音と麗奈も同じように笑っているのを見て、私はなんとなく嫌な予感がした。
「なになに? 聞きたい!」
クラスの女子が興味津々で身を乗り出す。瑠夏はみんなの反応を確かめるように教室を見回してから、明るい声で言った。
「うちのクラス、文化祭でステージ発表とかやるのはどうかなって!」
「ステージ発表?」
「歌とかダンスとか?」
「え、楽しそうじゃん!」
クラスメイトたちが口々に反応する。瑠夏は満足そうにうなずくと、思いついたばかりの名案を披露するように続けた。
「ほら、うちのクラスってアイドル志望の子いるじゃん? その子に歌って踊ってしてもらうの、いいかなって!」
……え?
「アイドル志望って、萌花のこと?」
「そうそう! 萌花ちゃん!」
瑠夏は、まるで私のために考えてくれた案だと言わんばかりの笑顔を浮かべた。
「せっかくダンスも習ってるんだし、歌も練習してるんでしょ? だったら文化祭で披露してもらったらいいんじゃないかなって! それで、歌って踊ってるところをSNSに載せたら、お客さんもいっぱい来てくれるかもしれないじゃん!」
「えー、いいじゃん!」
「確かに! アイドルのステージみたいで面白そう!」
「萌花って、どんな曲踊れるの?」
クラスメイトたちが盛り上がり始める。純粋に楽しそうだと思っている子もいるのだろう。だけど、私は少しも浮かれた気分になれなかった。
だって、どう考えてもおかしい。
文化祭はクラスみんなで作り上げるもののはずなのに、いつの間にか私一人が歌って踊る企画になっている。それに、SNSに載せるって……私のパフォーマンスを、クラスの宣伝に使うつもりなの?
「もちろん、萌花ちゃんが嫌じゃなかったらだけどね?」
瑠夏はそう付け足した。けれど、その言葉とは裏腹に、教室中の視線が私に集まっている。ここで断れば、せっかくの企画を台無しにした人みたいに思われるかもしれない。そんな空気が、少しずつできあがっていた。
「でもさ、アイドルになりたいんだったら、こういうのってチャンスじゃない?」
澪音が首をかしげながら言った。
「人前で歌って踊れるし、SNSに動画も載せられるし! 夢に近づけるかもしれないよ?」
「そうそう。自分のためにもなるんじゃない?」
麗奈もさらっと続ける。
……私のため?
思わず心の中で聞き返してしまった。
確かに、人前でパフォーマンスをする経験は大切だ。ステージに立つことも、カメラに映ることも、アイドルを目指すなら避けては通れない。だから、文化祭で歌って踊ること自体は、嫌ではなかった。
でも、この三人が私の夢を応援してくれているわけじゃないことくらい、もうわかっている。
「萌花ちゃん、どうかな?」
先生までこちらを見た。クラスメイトたちも返事を待っている。
私は少し考えてから、口を開いた。
「……まだ、曲も何も決まってないよね?」
「うん! だから、これから決めればいいじゃん!」
瑠夏は即答した。
「萌花ちゃんが一人で歌って踊る感じで! その方が、アイドルっぽくて絶対いいと思うんだよね!」
一人で。
その言葉が、妙に引っかかった。
みんなで協力して作り上げるステージじゃない。私が一人で準備して、一人で練習して、一人で歌って踊る。そのうえ、動画をSNSに載せてクラスの宣伝にも使う。
それって、本当に文化祭の企画なのかな。でも、SNSで韓国デビューのチャンスになるのなら。
「…やりまーす。」
私はひとまず、そう答えた。
瑠夏はぱっと笑った。あちらもあちらでチャンスができたかのように。
先生がほかの意見も聞いたうえで、文化祭の企画はステージ発表を中心に検討することになった。具体的な内容や準備については、これから決めていくらしい。教室は文化祭の話題でにぎわい始め、クラスメイトたちは楽しそうに話していた。
その中で、瑠夏たちは顔を寄せ合い、何やら小さな声で話している。私と目が合うと、三人そろってにこっと笑った。
……最低。
私は心の中でつぶやいた。
机に書かれた落書きも、聞こえるように言われる悪口も、今回の企画も。人を困らせることばかり考えて、いったい何が楽しいんだろう。
けれど、少しだけ悔しいことに、ステージで歌って踊るという案そのものは、悪くないと思ってしまった。
本当は、いつか大勢の人の前でパフォーマンスをしたい。自分の歌やダンスで、見ている人の心を動かせるアイドルになりたい。そのために、今だって毎日努力している。
文化祭は、その夢に向けた経験の一つになるかもしれない。
だからこそ、あの子たちに利用されるのは嫌だった。自分の夢を、誰かの嫌がらせの道具になんてされたくない。
私は黒板に書かれた「文化祭」の文字を見つめた。
誰かに言われたからじゃない。誰かに利用されるためでもない。
私自身が、そうしたいと思えるステージにする。
小さくつぶやいて、私はノートを開いた。




