『五年後の鉛筆』第38回 ✲ 540億円の赤字と、 ゲームをやめられなかった君 (笑) ―― ゲームをやめろと言われた夜、君はまだ、人生のセーブデータを消していなかった。――
✦『五年後の鉛筆』第38回
✲ 540億円の赤字と、
ゲームをやめられなかった君(笑)
――水と食事だけでは、
人は明日へ行けない。
ゲームをやめろと言われた夜、
君はまだ、
人生のセーブデータを消していなかった。――
………
★目次
■ 1章
五百四十億円の赤字
■ 2章
四千二百六十八万人の
「好き」
■ 3章
九兆五千億円は、
誰の財布へ行ったのか
■ 4章
五・八兆円から二十兆円へ
■ 5章
五百五十六億円の新しい賭け
■ 6章
一万円高くなったSwitch
■ 7章
四兆四千二百億円の遊び場
■ 8章
六千億円の
「見えないゲーム屋」
■ 9章
五百四十億円と、二十兆円の間
■ 10章
三十万七千四百四十六個の宝
■ 11章
一千九十三館のダンジョン
■ 12章
ポカリ、ポカリスエット
■ 13章
水と食事と、楽しみ
■ 14章
五年後の第二の免許
■ 15章
君の
セーブデータは消えていない
❥Z世代のあなたへ
★あとがき
ホームズとワトソン、
クールジャパンを取り調べる(笑)
………
■ 1章
五百四十億円の赤字
「おじいちゃん。
五百四十億円の赤字って、
どれぐらい赤いん?」
ゆづきが、
スマホから顔を上げた。
二〇三一年。
瀬戸内のある田舎。
祖父の家の茶の間では、
冷房の音と、
古い扇風機の音が
一緒に鳴っていた。
祖父は言った。
「真っ赤じゃな。
トマトケチャップでも、
そこまで赤くならん」
ニュースには、
こう出ていた。
《クールジャパン機構
累積損益
マイナス五百四十億円》
クールジャパン機構。
アニメ。
ゲーム。
映画。
食べ物。
地方の旅。
日本酒。
服。
日本の「面白い」を、
世界へ売ろうとした官民ファンド。
十年以上前。
国は言った。
「日本には、
世界に売れる物がある」
それは間違っていなかった。
ポケモン。
マリオ。
ドラえもん。
漫画。
寿司。
温泉。
祭り。
駅弁。
コンビニ。
人間は、
日本の自動販売機の前でさえ、
なぜか写真を撮る。
「でもおじいちゃん。
みんな日本を好きなのに、
なんで赤字なん?」
祖父は湯呑みを置いた。
「そこが今回の事件じゃ」
「事件?」
「日本が人気になることと。
国のファンドが黒字になることは。
同じゲームではなかったんじゃ」
ゆづきは首をかしげた。
「恋愛と結婚みたいな?」
「もっと怖い」
祖父は言った。
「恋愛と連結決算じゃ」
………
■ 2章
四千二百六十八万人の
「好き」
二〇二五年。
日本へ来た外国人は、
四千二百六十八万人。
過去最高だった。
四千二百六十八万人。
日本の人口を
一億二千万人ほどと考えれば、
日本の
三人に一人分ぐらいの人が、
一年の間に、
外国から日本へ来たようなものだ。
京都へ行く人。
東京へ行く人。
富士山を見る人。
北海道で雪を見る人。
アニメショップへ走る人。
コンビニで、
おにぎりを十個買う人。
「四千二百六十八万人って、
すごいじゃん」
ゆづきが言った。
「そうじゃ」
「クールジャパン、
大成功じゃん」
祖父は少し考えた。
「文化の帳簿では、
大成功かもしれん」
「文化の帳簿?」
「人間には、
二つの帳簿がある」
祖父は指を二本立てた。
「一つは、
人が笑ったか。
また来たいと思ったか。
その町を好きになったか。
その作品を忘れなかったか。
そういう帳簿じゃ」
「もう一つは?」
「金が戻ったか。
投資した金が、
次の若い人へ回ったか。
赤字を誰が抱えたか。
そういう帳簿じゃ」
ゆづきは言った。
「同じじゃないん?」
「似とる。
でも同じではない」
祖父は庭を見た。
「花が咲いた。
それは成功じゃ。
でも植木鉢の底に穴が開いて、
水が全部こぼれとったら。
花は咲いても、
次の年には枯れる」
………
■ 3章
九兆五千億円は、
誰の財布へ行ったのか
二〇二五年。
訪日外国人の消費額は、
約九兆五千億円。
九兆五千億円。
その数字は、
町の観光ポスターより
ずっと大きかった。
ホテル。
飛行機。
新幹線。
百貨店。
免税店。
飲食店。
テーマパーク。
カード会社。
不動産会社。
海外予約サイト。
みんなが、
少しずつ笑った。
だが祖父は、
冷蔵庫の前に立っていた。
近所の小さな旅館の主人が、
店をたたんだ。
外国人は増えた。
予約も入った。
だが清掃する人が足りない。
食材が高い。
光熱費も高い。
建物が古い。
屋根を直す金がない。
「お客さんは来とるのに」
旅館の主人は言った。
「わしらの方が、
先にへばってしまった」
ゆづきは聞いた。
「九兆五千億円って、
どこへ行ったん?」
祖父は答えた。
「それが大事なんじゃ」
観光客が増える。
それは良い。
しかし。
利益が、
大きな予約サイト。
都市のホテル。
高い家賃を取る大家。
東京の本社。
海外のプラットフォーム。
そこへ吸い込まれたら。
地方の町には、
ゴミだけ残る。
道路だけ傷む。
水道だけ古くなる。
働く人だけ疲れる。
祖父は言った。
「人が来ることと。
町が豊かになることも。
似とるが、
別のゲームなんじゃ」
………
■ 4章
五・八兆円から二十兆円へ
政府は新しい目標を出した。
日本発コンテンツの海外売上を、
二〇二三年の
五・八兆円から。
二〇三三年には、
二十兆円へ。
二十兆円。
ゲーム。
アニメ。
漫画。
音楽。
実写。
キャラクター。
グッズ。
配信。
世界中の人へ、
日本の物語を届ける。
ゆづきは数字を見た。
「五・八兆円が、
二十兆円?」
「約三倍半じゃ」
「すごい目標だね」
「すごい」
「でもおじいちゃん。
五百四十億円の
赤字だったんでしょ?」
「そうじゃ」
「また同じことにならない?」
祖父は答えなかった。
その代わり、
次女の話をした。
次女は、
ゲームの翻訳をしていた。
剣を持つ勇者が言う。
《ここで待ってろ》
その一言を、
英語にする。
フランス語にする。
中国語にする。
韓国語にする。
ただ訳すだけではない。
強がりなのか。
怒っているのか。
泣くのを我慢しているのか。
その人物が、
どんな人間なのか。
そこまで渡さなければ、
海外の子どもは、
同じ場面で笑えない。
祖父は言った。
「二十兆円を目指すなら。
ゲームを作る人だけでなく。
翻訳する人。
契約する人。
世界へ運ぶ人。
権利を守る人。
全部が飯を食えるようにせんといけん」
ゆづきが言った。
「ゲームの裏方だね」
「違う」
祖父は言った。
「文化の配管工じゃ」
………
■ 5章
五百五十六億円の新しい賭け
政府は、
コンテンツ産業への支援予算を、
五百五十六億円規模まで
広げた。
以前より大きい金だった。
アニメ。
ゲーム。
映画。
海外展開。
制作環境。
人材。
デジタル。
国は、
前より本気になったように見えた。
だが祖父は思った。
金を出すことは、
悪いことではない。
半導体にも、
金が出る。
防災にも、
金が出る。
道路にも、
金が出る。
金を出さなければ、
始まらないことはある。
問題は。
何へ出すか。
誰へ届くか。
何年待つか。
失敗した時、
誰が責任を持つか。
そこだった。
ゆづきが言った。
「国がお金出したら、
次のマリオが生まれる?」
祖父は笑った。
「会議で作ったマリオは、
たぶん最初のキノコの前で
稟議書が止まる」
「ゲームオーバーじゃん」
「そうじゃ」
「じゃあ国は何をするの?」
祖父は答えた。
「マリオを作ろうとするな。
マリオを作れる子が。
途中で家賃に負けず。
病気になっても。
翻訳者が見つからなくても。
夢をあきらめずに済む土台を作れ」
………
■ 6章
一万円高くなったSwitch
二〇二六年。
Switch 2の国内価格は、
四万九千九百八十円から。
五万九千九百八十円へ。
一万円上がった。
すみれが、
画面を見て言った。
「一万円って、
ソフト一本分より高いじゃん」
「そうじゃな」
「何でゲーム機が高くなるん?」
祖父は言った。
「AIが、
人間の遊ぶ物まで
食べ始めたんじゃ」
「え?」
AIには、
半導体がいる。
メモリーがいる。
サーバーがいる。
電気がいる。
冷やす機械がいる。
世界中の巨大企業が、
同じ部品を欲しがる。
すると。
PCが高くなる。
スマホが高くなる。
ゲーム機も高くなる。
学校の端末も高くなる。
未来へ入るための画面が、
少しずつ遠くなる。
すみれが言った。
「AIって、
賢くなる前に、
うちらの財布を攻撃してくるん?」
祖父は笑った。
「最初の敵は、
だいたい
チュートリアルに出てくる」
「嫌なチュートリアルだなあ」
だが祖父は、
少し真顔になった。
「だからな。
ゲームをする子を、
“遊んどるだけ”と
簡単に言ったらいけん」
ゲーム機は、
ただの箱ではない。
友達と話す場所。
失敗しても、
また始める場所。
部屋から出られない子が、
外の誰かと、
初めて言葉を交わす場所。
人生が止まったと思った子が、
まだ何かを攻略しようとしている場所。
そこには。
水でも。
食事でもない。
三つ目のものがある。
楽しみだ。
………
■ 7章
四兆四千二百億円の遊び場
ソニーは、
ゲーム事業の次の年の売上を、
四兆四千二百億円と見込んだ。
四兆四千二百億円。
ゲーム機を売る。
ソフトを売る。
ダウンロードを売る。
追加コンテンツを売る。
月額サービスを売る。
映画を作る。
音楽を流す。
キャラクターを育てる。
もうゲームは、
ゲーム機の中だけにいなかった。
ゆづきが言った。
「ゲームって、
もうおもちゃじゃないんだね」
「昔からおもちゃじゃった」
「え?」
「人間が生き延びるための
おもちゃじゃ」
祖父は言った。
子どもは遊びで、
大人の真似をする。
戦う。
作る。
協力する。
失敗する。
順番を待つ。
怒られる。
仲直りする。
泣く。
笑う。
ゲームは、
人生の仮免許みたいなものだった。
もちろん。
ゲームだけで、
現実は解決しない。
ゲームの中で、
就職は決まらない。
家賃も払えない。
病院の予約も取れない。
親子のけんかも、
ボタン一つでは治らない。
でも。
人生の仮免許を持った子を、
「そんな物を捨てろ」と言って、
車道の前に放り出したら。
それは教育ではない。
ただの置き去りだ。
………
■ 8章
六千億円の
「見えないゲーム屋」
ソニーは、
ゲーム事業の営業利益を、
六千億円と見込んだ。
売上が少し減っても。
利益は大きくなる。
なぜか。
ゲーム機を何台売ったかだけでなく。
ネットワーク。
課金。
ソフト。
追加コンテンツ。
ファンとのつながり。
そこからお金が回るからだ。
祖父は言った。
「昔のゲーム屋は、
箱を売った」
「今は?」
「時間を売る」
「時間?」
「ゲームを遊ぶ時間。
友達と話す時間。
次の冒険を待つ時間。
好きなキャラクターを
忘れない時間じゃ」
ゆづきが言った。
「それ、ちょっと怖いね」
「怖い」
祖父はうなずいた。
楽しみは、
人を生かす。
でも。
楽しみを売る会社が、
人間の時間を全部持っていったら。
人は、
外へ出る力も失う。
だから。
ゲームを悪者にするのではなく。
ゲームの中で手に入れた力を、
外へつなぐ道がいる。
祖父は言った。
「楽しみは、
部屋に閉じ込める鍵ではない」
「じゃあ何?」
「外へ戻るための、
小さな窓じゃ」
………
■ 9章
五百四十億円と、二十兆円の間
五百四十億円の赤字。
二十兆円の目標。
数字だけ見ると、
まるで別の国の話だった。
一つは、
失敗した過去。
一つは、
大きすぎる未来。
だが祖父は、
その間にいる人間を見た。
引きこもりの子。
学校へ行けなくなった子。
仕事を辞めた子。
親の年金で生きている子。
働きたくないのではない。
働く場所へ行くまでに、
心が止まってしまった子。
ゲームをしている。
親は言う。
「またゲームか」
近所は言う。
「あんなことしとるから
引きこもりになるんじゃ」
テレビは言う。
「依存です」
だが祖父は、
少し違うと思った。
「ゲームをしとるから、
人生が止まったんじゃない」
ゆづきが聞いた。
「じゃあ?」
「人生が止まりそうになった時。
ゲームだけが、
完全には見捨てんかったんじゃ」
ゲームの中では、
役割がある。
回復役。
盾役。
地図を読む役。
素材を集める役。
作戦を立てる役。
一人では勝てない敵を、
誰かと一緒に倒す役。
現実で役割を失った子が、
ゲームの中でだけ、
まだ誰かに必要とされている。
それを。
「くだらない」と言って、
取り上げてしまうのは。
最後の火種に、
水をかけるようなものだった。
………
■ 10章
三十万七千四百四十六個の宝
文化遺産オンラインには、
三十万七千四百四十六件を超える
文化財や作品の情報がある。
三十万件。
絵。
茶碗。
古い地図。
祭り。
仏像。
建物。
写真。
郷土資料。
日本には、
すでに宝がある。
問題は。
宝がないことではない。
誰が見つけるのか。
誰が説明するのか。
誰が英語へ訳すのか。
誰が子どもへ渡すのか。
誰が、
次の世代の遊びに変えるのか。
ゆづきが言った。
「三十万件あったら、
ゲームにできそう」
祖父は笑った。
「できる」
昔の城。
消えた港町。
山の神様。
祭りの太鼓。
古い商店街。
地元の伝説。
全部、
ゲームの舞台になる。
だが。
それを作る人が、
低賃金で。
徹夜で。
不安定な仕事だけをさせられたら。
文化は宝でも。
宝箱を開ける人がいなくなる。
祖父は言った。
「クールジャパンの本当の仕事はな。
宝を増やすことではない。
宝を開ける子を、
途中であきらめさせんことじゃ」
………
■ 11章
一千九十三館のダンジョン
文化遺産オンラインには、
一千九十三館の施設が参加している。
博物館。
美術館。
資料館。
郷土館。
だが。
地方の小さな博物館は、
時々ひっそりしている。
若者は言う。
「何があるのか分からない」
館の人は言う。
「来てもらえない」
町は言う。
「予算がない」
祖父は思った。
これは、
ゲームでいうと、
入口のないダンジョンだ。
中に宝がある。
物語がある。
昔の人の失敗がある。
今の町を助ける知恵がある。
でも。
地図がない。
看板がない。
仲間がいない。
レベル一の若者が、
一人で入ったら、
三分で帰る。
ゆづきが言った。
「ゲーム好きの子に、
町の博物館を攻略させたら?」
「どういうことじゃ」
「展示を見て。
謎を解いて。
町の人に聞いて。
古い写真と今の場所を比べて。
最後に、
自分で動画にするとか」
祖父は、
しばらく黙った。
「それじゃ」
「何?」
「クールジャパンは、
海外へ売る前に。
日本の子どもが、
自分の町を面白がれるように
せんといけん」
世界へ行く前に。
自分が住む町の宝を、
一度でも触った子は。
簡単には、
自分の人生を
ゴミ箱へ捨てない。
………
■ 12章
ポカリ、ポカリスエット
淳は、
三十八歳だった。
大学を出てから。
仕事を何度も辞めた。
食品工場。
スーパー。
倉庫。
どこへ行っても、
最初は頑張ろうと思った。
朝も起きた。
作業も覚えた。
怒られても、
黙っていた。
だが。
人の声が重なると、
頭の中が真っ白になった。
急げと言われる。
もっと笑えと言われる。
なんでできんのかと言われる。
電話が鳴る。
レジに人が並ぶ。
工場の機械が鳴る。
その全部が、
少しずつ胸の中へ積もった。
そしてある朝。
靴を履けなくなった。
玄関の前で、
体が動かなくなった。
「またか」
父親は言った。
「また逃げるんか」
淳は何も言えなかった。
自分でも、
情けなかった。
大学まで出してもらった。
何度も仕事を紹介してもらった。
それなのに。
続かない。
また辞めた。
また家にいる。
またゲームをしている。
父親の怒鳴り声を聞くたび。
淳の中に、
何かが積もった。
情けなさ。
悔しさ。
恥ずかしさ。
「お前は、
何をやっても続かん」
その言葉が。
毎日。
胸の奥へ刺さった。
ある夜。
父親が、
Switchを見て言った。
「またそれか」
淳は、
何も言わなかった。
「ゲームばっかりしとるから、
お前はダメなんじゃ」
何度も聞いた言葉だった。
だがその日だけ。
淳の中で、
何かが切れた。
「うるさい!」
自分でも驚くほど、
大きな声だった。
父親が振り向いた。
「何じゃと?」
淳は立ち上がった。
「何も知らんくせに!」
気がつけば。
淳の手が先に動いていた。
ポカリ。
父親の肩を、
一度。
ポカリ。
胸を、
もう一度。
ポカリ。
淳は父親を殴っていた。
強い拳ではなかった。
ただ。
三十八年間。
言えなかった言葉が、
手から漏れたような拳だった。
父親は、
黙っていた。
淳も、
すぐに我に返った。
自分の手を見た。
震えていた。
「ごめん」
と言った。
でも。
ごめんと言っても。
殴ったことは消えない。
父親の顔も。
淳の中の怒りも。
家の中には。
長い沈黙だけが残った。
淳は自分の部屋へ戻った。
Switchをつけた。
画面の中では。
いつもの仲間が、
いつものように待っていた。
《次、どうする?》
淳は、
コントローラーを置いた。
その夜。
冷蔵庫を開けた。
ポカリスエットを一本取った。
青いラベルを見ながら、
小さな声で言った。
「ポカリ」
一口飲んだ。
「ポカリ」
もう一口飲んだ。
さっきは。
怒りで、
ポカリした。
今は。
のどが渇いて、
ポカリスエットだった。
自分で思って。
少しだけ笑った。
涙が出ていた。
でも。
少しだけ笑った。
水分。
塩分。
少しだけ甘い。
何もできない自分にも。
体だけは、
生きろと言ってくる。
「ポカリスエット」
今度は、
ちゃんと商品名を言った。
「今日は、
こっちのポカリにしとくか」
その言葉だけが、
夜の部屋に残った。
ゲームの画面をつけた。
任天堂のSwitch。
それだけは、
まだ手放していなかった。
ゲームの中では、
淳は地図を見た。
敵の動きを見た。
仲間が困ると、
少し遅れてでも助けに行った。
現実では。
自分がどこへ行きたいのか、
分からなかった。
面接では、
書類審査の段階で落ちた。
「経験が足りない」
「年齢が」
「今回はご縁がなく」
メールの文字だけが、
静かに積もった。
淳は思った。
自分は、
走りの棒にもかからない。
どこへ行きたいのかも分からない。
何をしたいのかも分からない。
ただ。
家にいても苦しい。
外へ出ても苦しい。
ゲームをしている時だけ、
少しだけ息ができた。
そんな時。
ポリテクセンターの人が、
淳に言った。
「ここまで来たんだから。
もう一回だけ、
やってみましょう」
淳は、
機械の勉強を始めた。
図面。
工具。
安全確認。
金属の名前。
寸法。
溶接の基礎。
最初は、
何も分からなかった。
でもゲームと同じだった。
最初からラスボスには行かない。
一つずつ覚える。
失敗したら戻る。
分からなければ聞く。
昨日できなかったことを、
今日一つだけできるようにする。
ポリテクセンターの担当者は、
淳のために動いた。
紹介メールを送った。
十通。
百通。
三百通。
五百通。
そして。
七百通。
七百通の紹介メール。
今まで。
書類審査で跳ねられていた男に。
七百回。
「この人を一度、
会ってみてください」
と送ってくれた。
淳は、
後でその数字を知った。
七百通。
自分一人では、
とっくにあきらめていた。
だが。
誰かが、
自分の代わりに。
七百回。
扉を叩いてくれていた。
瀬戸内の造船所から、
連絡が来た。
面接の日。
淳は、
ポカリを一本買った。
昔と同じ青いラベル。
でも。
あの夜とは違った。
「ポカリ」
小さく言った。
「今日は。
殴る方じゃなくて、
飲む方のポカリじゃ」
自分で言って。
少しだけ笑えた。
面接は、
思ったより短かった。
何をしたいのか。
何ができるのか。
そんな立派な言葉は、
うまく出なかった。
淳は正直に言った。
「何度も仕事を辞めました。
自分が何に向いているかも、
よく分かりません。
でも。
ここで、
もう一度やり直したいです」
数日後。
採用の連絡が来た。
あまりにも、
あっさり決まった。
今まで。
書類で落ちていた男が。
面接の前に、
消されていた男が。
造船所へ行くことになった。
淳は、
電話を切った後。
しばらく動けなかった。
泣いたのか。
笑ったのか。
自分でも分からなかった。
その夜。
Switchをつけた。
ゲームの中で、
仲間が言った。
《次、どうする?》
淳は、
コントローラーを握った。
前より少しだけ、
まっすぐ画面を見た。
《行こう》
と入力した。
現実でも。
ゲームでも。
人生は、
いきなり大逆転しない。
でも。
七百通のメール。
一本のポカリ。
一回の面接。
一台のSwitch。
そんな小さなものが。
止まっていた人生を、
もう一度動かすことがある。
淳は、
まだゲームをやめていない。
だが。
ゲームしかない人生では、
なくなり始めていた。
造船所の朝。
海の向こうに、
大きな船が見えた。
淳は思った。
自分はずっと。
沈んでいたのではない。
港を見つけられずに、
漂っていただけだったのかもしれない。
そして今。
ようやく。
岸へ近づき始めていた。
………
■ 13章
水と食事と、楽しみ
祖父は、
町の若者向け集会で話した。
水がいる。
食事がいる。
住む家もいる。
仕事もいる。
それは間違いない。
だが。
人間は。
水と食事だけで、
明日を選ぶわけではない。
楽しみがいる。
ゲーム。
漫画。
音楽。
推し。
スポーツ。
祭り。
カラオケ。
友達とのくだらない会話。
祖父は言った。
「楽しみは、
余った金で買う物ではない」
会場が静かになった。
「楽しみは、
人間が明日へ行くための
燃料じゃ」
淳が、
後ろの席で聞いていた。
「ゲームをやめろと言う前に。
その子がゲームの中で
何を守っているのか。
見てほしい」
祖父は続けた。
「勝ちたい気持ちか。
仲間か。
役割か。
失敗しても再開する癖か。
自分では気づかないうちに。
その子は、
生きる練習をしているかもしれん」
もちろん。
ゲームのしすぎで、
生活が崩れるなら。
助けがいる。
睡眠が壊れるなら。
医者もいる。
家族の会話もいる。
生活リズムもいる。
そして。
怒りが手になる前に。
誰かへ話せる場所がいる。
しかし。
ゲームを悪者にして。
その子の唯一の楽しみを
奪うだけなら。
それは治療ではない。
ただの没収だ。
………
■ 14章
五年後の第二の免許
二〇三一年。
町は、
新しい制度を始めた。
名前は。
《第二の免許》
ゲーム。
動画編集。
翻訳。
配信。
地図作り。
デザイン。
プログラミング。
AIの使い方。
防災ゲーム。
町歩きゲーム。
オンラインで覚えたことを、
現実の役割へつなぐ。
淳は、
博物館のゲーム企画に加わった。
昔の地図を、
今の町の地図へ重ねる。
水害が起きた時。
どこが危ないか。
どこへ逃げるか。
子どもが遊びながら、
覚えられるようにする。
ゲームで地図を読んできた淳は、
避難ルートを作る役になった。
町の防災担当が言った。
「ここの細い道。
昼は通れても。
夜は危ないな」
淳は言った。
「じゃあゲームでは、
夜になると見えにくくしましょう。
ライトを取らないと、
進めないようにする」
担当者は驚いた。
「それなら子どもも覚える」
淳は、
少し恥ずかしそうにした。
ゲームは、
現実から逃げる場所だった。
だが。
ゲームで覚えた地図の読み方が。
町の人を逃がす地図になった。
祖父は言った。
「ほらな」
淳が聞いた。
「何がです?」
「君のセーブデータは。
最初から無駄じゃなかった」
………
■ 15章
君のセーブデータは消えていない
クールジャパン機構は、
五百四十億円の赤字を出した。
訪日客は、
四千二百六十八万人に増えた。
消費額は、
九兆五千億円になった。
国は、
日本発コンテンツを、
二十兆円産業にしたいと言った。
Switch 2は、
一万円高くなった。
ソニーは、
四兆四千二百億円の売上を見込んだ。
六千億円の利益を見込んだ。
数字だけなら。
世界は、
巨大なゲームのようだった。
だが。
本当に大切なのは。
どの会社の株価が上がるか。
どの国が勝つか。
それだけではない。
ゲームをやめられなかった子が。
五年後。
誰かの役に立てる場所を
持てるか。
翻訳が好きな子が。
世界へ日本の言葉を
渡せるか。
絵が好きな子が。
家賃を払いながら
描き続けられるか。
町を歩くのが苦手な子が。
ゲームの地図を通じて、
町の避難路を覚えられるか。
人と話せない子が。
オンラインの仲間から、
現実の一人へ
声をかけられるか。
そこが。
本当のクールジャパンじゃ。
ゆづきが言った。
「おじいちゃん。
ゲームって、
人生の逃げ場じゃないん?」
祖父は答えた。
「逃げ場でもええ」
「え?」
「逃げる場所がなければ。
人間は死ぬことがある」
ゆづきは黙った。
祖父は続けた。
「でも。
逃げ場があるだけでは、
ずっと苦しい」
「じゃあどうするの?」
「逃げ場を。
帰る橋に変えるんじゃ」
水。
食事。
楽しみ。
この三つを。
誰か一人の根性ではなく。
町が守る。
国が守る。
会社が守る。
家族が守る。
そして。
君自身が、
もう一度取りに行く。
祖父は、
淳へ言った。
「ゲームで全滅した時。
どうする?」
淳は答えた。
「戻ります」
「どこへ?」
「最後にセーブした所へ」
祖父は笑った。
「人生も同じじゃ。
君はまだ。
セーブデータを消していない」
………
❥Z世代のあなたへ
ゲームをやっているから、
人生が終わるわけではない。
部屋から出られないから、
君の価値がなくなるわけでもない。
仕事が続かなかったから、
君が壊れた人間になるわけでもない。
ただ。
一人で抱え続けると、
ゲームの中の夜だけが長くなる。
だから。
水を飲んでほしい。
何か食べてほしい。
眠ってほしい。
そして。
ゲームをしていい。
漫画を読んでいい。
推しを見ていい。
笑っていい。
ただし。
その楽しみを。
「自分はダメだ」という証拠に
使わないでほしい。
ゲームの中で。
君が覚えたことがある。
仲間を待ったこと。
失敗しても、
もう一度始めたこと。
地図を見たこと。
素材を集めたこと。
誰かを回復したこと。
強い敵から逃げたこと。
それは。
何もしていなかった時間ではない。
現実へ戻るための、
見えない練習だったかもしれない。
日本はこれから。
AI。
半導体。
データセンター。
外国人労働者。
熱波。
豪雨。
高齢化。
いろんな問題を抱える。
だからこそ。
水だけでは足りない。
食事だけでも足りない。
楽しみを失わない人がいる町。
役割を取り戻せる町。
全滅した人を、
もう一度仲間に入れられる町。
そんな町が、
一番強い。
君がゲームをやめられなかったことを。
いつか。
誰かを助ける力に変えてほしい。
………
★あとがき
ホームズとワトソン、
クールジャパンを取り調べる(笑)
ホームズ
「ワトソン君。
今回の犯人が分かった」
ワトソン
「また室外機ですか」
ホームズ
「違う。
今回は、
“楽しみをぜいたく品だと
思った心”じゃ」
ワトソン
「名前が長い犯人ですね」
ホームズ
「水は必要。
食事も必要。
でも楽しみは、
余った金で買う物だと
思われてきた」
ワトソン
「違うんですか?」
ホームズ
「違う。
楽しみは、
明日へ行くための回復薬じゃ」
ワトソン
「ゲームも?」
ホームズ
「ゲームも。
漫画も。
音楽も。
祭りも。
孫に“また全滅したん?”と
笑われる時間もじゃ」
ワトソン
「先生は、
だいぶ全滅しましたね」
ホームズ
「そこは事件と関係ない」
ワトソン
「クールジャパンは、
結局どうしたらいいんです?」
ホームズ
「国が次のマリオを、
会議で作らんことじゃ」
ワトソン
「何でです?」
ホームズ
「会議で作ったマリオは。
キノコを取る前に、
稟議書を三枚書く」
ワトソン
「それ、
一面クリアできんですね」
ホームズ
「国はな。
マリオを作る人が。
途中で家賃に負けず。
翻訳する人が。
ちゃんと飯を食えて。
世界へ届ける道を作る」
ワトソン
「配管工事ですね」
ホームズ
「そうじゃ。
文化の配管工事じゃ」
ワトソン
「地味ですね」
ホームズ
「だが。
配管が詰まったら。
どんな豪邸も住めん」
ワトソン
「AIの城も?」
ホームズ
「AIの城もじゃ」
ワトソン
「先生。
ゲームをやめられない若者には、
何て言うんです?」
ホームズ
「ゲームをやめろとは言わん」
ワトソン
「おお」
ホームズ
「ただし。
回復薬を全部、
最初の雑魚敵に使うな」
ワトソン
「急に現実的!」
ホームズ
「水を飲め。
飯を食え。
寝ろ。
誰かに一言しゃべれ。
そして。
またゲームをしろ」
ワトソン
「それでいいんですか?」
ホームズ
「いい。
その次に。
ゲームで覚えた力を、
一ミリだけ外へ出せ」
ワトソン
「一ミリ?」
ホームズ
「いきなり世界を救わんでいい。
まず。
ゴミを出せ」
ワトソン
「小さい!」
ホームズ
「人生の再起動はな。
だいたいゴミ出しから始まる」
ワトソン
「先生。
今日のゴミは?」
ホームズ
「燃えるゴミじゃ」
ワトソン
「先生の言い訳も、
一緒に出しときますか」
ホームズ
「それは不燃物じゃ!」
ワトソン
「分別が難しい(笑)」
――世界は、
大きな数字で動いている。
だが人間は、
水と食事と楽しみで、
明日へ進む。
全滅してもいい。
セーブデータさえ消さなければ。
人生は、
まだ次の章へ進める。――




