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『五年後の鉛筆』第36回 ✲「マイケルジョーダンの冗談(笑)」――根性は、空腹の上には建たない――

✦『五年後の鉛筆』第36回


✲「マイケルジョーダンの冗談(笑)」


――根性は、

 空腹の上には建たない――


………


「おじいちゃん」


ゆづきが、

炊飯器のふたを開けた。


「今日も戦うん?」


「戦う」


「誰と?」


「健康寿命と」


「相手が地味すぎる(笑)」


炊飯器の中には。


玄米。


オートミール。


人参。


玉ねぎ。


じゃがいも。


少しの魚。


「町内代表の、

 試合前メシじゃ」


「何の代表?」


「七十二歳・

 凡人アスリート日本代表」


「そんな大会ないよ」


「だから優勝できる」


「出場者一人じゃん」


「不戦勝じゃ!」


ゆづきは笑った。


二十一歳。


東京の大学を中退して。


瀬戸内の田舎の町で。


AIを使う小さな会社を、

始めていた。


僕は七十二歳。


自転車には乗れる。


ラジオ体操もできる。


英語の歌も。


相変わらずFでつまずく。


その朝。


ラジオから。


日本代表を長年支えた、

西芳照シェフの話が流れた。


僕は箸を止めた。


「西さんじゃ」


ゆづきは笑った。


「また始まった。


 おじいちゃんの

 三大師匠」


「誰じゃ」


「マイケル・ジョーダン。


 西シェフ。


 いなかっぺ大将」


「大ちゃんを

 師匠扱いするな」


「でも。


 どんぶり三杯、

 食べてたんでしょ?」


僕は少し考えた。


「……先生かもしれん」


………


★目次


■第1章

 七十二歳、代表戦の朝


■第2章

 健康寿命72.57歳という、

 見えない締切


■第3章

 マイケル・ジョーダンは、

 ベロで飛んだのか


■第4章

 西シェフは、

 負けた日の食堂を知っていた


■第5章

 水野南北の、

 桃色の腸


■第6章

 コッペパン一個の、

 未来予報


■第7章

 星飛雄馬は、

 水を飲まなかった


■第8章

 大ちゃんと仙人は、

 最初から空を飛ばない


■第9章

 梅干し入り白湯と、

 五十キロの敗北


■第10章

 長友のサバ、

 吉田のベリー


■第11章

 人生後半は、

 キッチンカー


■第12章

 西さんの最後の大会


■第13章

 残った習慣だけが、

 代表選手になった


■第14章

 七十二歳の、

 予選リーグ最終戦


■第15章

 ご飯を食べて、

 また明日へ行く


………


■第1章

 七十二歳、代表戦の朝


「今日の相手は、

 誰なん?」


ゆづきが聞いた。


「坂」


「また坂?」


「坂はな。


 毎年、

 強くなる」


「おじいちゃんが

 毎年弱くなってるだけでは?」


「失礼な。


 e-bikeは、

 前期高齢者の

 フレンドじゃ」


僕は。


上あごの前歯の少し後ろへ。


舌先を、

そっと置いた。


奥歯は噛まない。


肩を落とす。


息を止めない。


「ジョーダン舌じゃ」


「またベロ?」


「ベロではない。


 集中のスイッチじゃ」


「NBAに訴えられるよ」


「マイケル・ジョーダンも。


 集中したら、

 舌が出たんじゃ」


「でもおじいちゃん。


 舌を出してないよ」


「日本人は奥ゆかしいから。


 上あごへ、

 隠すんじゃ」


「何その理屈」


「これはな。


 昔聞いた口の体操をもとに。


 わしが勝手に編み出した」


僕は少し間を置いた。


「ジョーダン――


 冗談舌じゃ」


ゆづきが笑った。


「ただの、

 あいうべ運動系じゃん」


「昭和の知恵を、

 NBAへ輸出したんじゃ」


「されてない」


自転車へまたがる。


昔より。


サドルは低くした。


ハンドルは高くした。


前へ前へ。


体重を預ける形ではない。


転ばない。


息を止めない。


帰ってこられる。


七十二歳の自転車は。


速さより、

帰還率が大事だった。


「無理せんでね」


ゆづきが言った。


「無理はせん」


「去年。


 五十キロ走って、

 熱出した人が言う?」


「去年の僕は、

 まだ若かった」


「七十一歳で?」


「若かった」


川沿いの道へ出た。


坂は。


昔より長く見える。


でも。


脚は動いた。


ペダルを踏む。


息を吐く。


肩を落とす。


舌を軽く置く。


バッグには。


梅干しを一つ入れた、

白湯の水筒。


「年寄りはな」


僕は言った。


「喉が渇いてからでは。


 少し遅いんじゃ」


「梅干しだけで、

 五十キロを倒そうとしないでね」


「倒さんよ」


「水分。


 休憩。


 無理しない判断。


 全部セットよ」


「はい」


七十二歳は。


終点ではない。


ただ。


昔のように。


何も考えず走ってはいけない。


体が変わったら。


勝ち方を変える。


僕は。


川沿いの坂で。


e-bikeの力も借りながら。


今日も。


自分の代表戦を始めた。


………


■第2章

 健康寿命72.57歳という、

 見えない締切


帰ると。


ゆづきが、

スマホを見ていた。


「おじいちゃん」


「何じゃ」


「男性の健康寿命って。


 平均で、

 七十二・五七歳なんよね」


「うん」


「平均寿命は?」


「八十一歳くらいじゃ」


「じゃあ。


 間に八年くらい、

 あるんだ」


僕はうなずいた。


「そうじゃ」


「嫌な数字だね」


「違う」


僕は言った。


「悪くない数字じゃ」


「なんで?」


「締切が見える」


ゆづきは少し黙った。


「嫌な言い方」


「違う。


 締切があるから。


 今日用ができる」


「今日用?」


「今日やる用事じゃ」


僕は指を折った。


「今日、

 少し動く。


 今日、

 誰かと話す。


 今日、

 何か一つ覚える。


 今日、

 ちゃんと寝る」


「それが?」


「締切がない人生は。


 何でも明日に、

 送ってしまう」


ゆづきは笑った。


「おじいちゃん、

 まだ会社員みたい」


「元会社員じゃ」


「まだ残ってるね」


「残っとる」


僕は窓の外を見た。


「でも。


 今は誰にも、

 命令されん」


「じゃあ誰が。


 おじいちゃんを動かすの?」


僕は答えた。


「明日の僕じゃ」


「急にかっこつけた」


「腹が減った明日の僕は。


 今日の僕が何もせんかったら。


 困るじゃろ」


ゆづきは笑った。


「結局ご飯の話」


「人生は。


 だいたい腹から始まる」


………


■第3章

 マイケル・ジョーダンは、

 ベロで飛んだのか


その夜。


ゆづきが。


昔のバスケットボール映像を出した。


空中で。


マイケル・ジョーダンが、

舌を出していた。


「ほら」


僕は言った。


「飛んどる」


「飛んでる」


「ベロも出とる」


「出てる」


「つまり」


「つまり?」


「ベロで飛んだ」


「違う(笑)」


ゆづきは、

画面を止めた。


宙に浮いたジョーダンは。


今見ても。


少し人間離れしていた。


「ジョーダンがすごいのは。


 舌じゃないよ」


「では何じゃ」


「若い時の跳び方に。


 ずっと、

 しがみつかなかったこと」


僕は黙った。


「年を取ったら。


 少し離れて、

 決める技を使った」


「フェードアウェイ」


「そうじゃ」


「高く跳べないなら。


 下がって決める」


「うん」


「前へ突っ込めんから。


 負けたんじゃない」


ゆづきが言った。


「勝ち方を、

 変えたんだよ」


僕は。


自分の手を見た。


若い頃。


一日三百件。


知らない家の玄関を、

叩いたことがある。


今は無理じゃ。


夜更かしをして。


次の日も平気な顔をする。


それも無理じゃ。


「なら」


僕は言った。


「AIに手伝ってもらう。


 e-bikeを使う。


 早く寝る。


 小説を書く」


「おじいちゃんの

 フェードアウェイ?」


「そうじゃ」


僕は言った。


「少し下がる。


 少し道具を借りる。


 少し休む。


 それでも。


 自分の点は取りに行く」


ジョーダンは。


ベロで飛んだのではない。


父から受け取った癖を。


自分だけの集中の合図にした。


そして。


体が変わるたびに。


勝ち方を変えた。


僕も。


上あごへ。


小さな合図を置く。


今日も転ばず。


今日も息をして。


今日も。


自分の体で生きるために。


………


■第4章

 西シェフは、

 負けた日の食堂を知っていた


西さんは。


サッカー日本代表の

料理人だった。


ハンバーグ。


銀だらの西京焼き。


うなぎ。


カレー。


有名な献立だけなら。


料理番組みたいに聞こえる。


でも。


西さんのすごさは。


料理の名前ではない。


勝った日の食堂と。


負けた日の食堂の違いを。


知っていたことじゃ。


勝った日の食堂は。


にぎやかだ。


若い選手が大盛りを取る。


笑い声がする。


皿はすぐ空になる。


でも。


負けた日の食堂は違う。


誰も大きな声を出さない。


箸だけが。


少しずつ止まっていく。


皿が減らない。


いつも魚を頼む選手が。


「今日はいいです」


と言う。


そんな夜に。


「栄養が足りません」


と言っても。


人は食べられない。


西さんは。


栄養表より先に。


選手の顔を見た。


今日。


食べられる入口は何か。


一口でも。


胃まで届くものは何か。


明日。


もう一度走るために。


今。


何を置けばいいのか。


「おじいちゃん」


ゆづきが言った。


「西さんって。


 料理人なのに、

 カウンセラーみたい」


「料理人じゃ」


「でも。


 心も見てる」


「ご飯はな」


僕は言った。


「心を通らんと。


 胃まで行かん」


ゆづきは少し考えた。


「名言っぽい」


「本当じゃ」


西さんは。


大きな大会の後。


若い料理人を育ててほしいと、

頼まれたという。


レシピを渡すだけではない。


選手の顔を見る目を。


次の人へ渡す。


僕は。


その話が好きだった。


料理とは。


腹を満たすだけではない。


人が。


もう一度。


自分の人生へ戻るための、

入口を作ることなのかもしれん。


………


■第5章

 水野南北の、

 桃色の腸


ゆづきの大先輩が。


町へ帰ってきた。


名前は美果。


四十歳。


東京の会社を辞めて。


しばらく実家にいるらしい。


「こんにちは」


細い声だった。


昼なのに。


手に持っていたのは。


コンビニのコーヒーだけだった。


「昼飯は?」


僕は聞いた。


「あとで」


「何を食べるんじゃ」


「冷凍うどんとか」


「ご飯は?」


「太る」


僕は少し黙った。


昔なら。


説教していたかもしれない。


米を食え。


魚を食え。


若い者はだめじゃ。


でも。


美果の顔を見ると。


そんな顔ではなかった。


時間がない顔ではない。


食べる力が。


少しずつ消えている顔だった。


「美果ちゃん」


僕は言った。


「少しだけ食べるか」


「少しだけなら」


ゆづきが。


小さな茶碗を出した。


美果は一口食べた。


「おいしい」


「じゃろ」


「でも。


 こんなの食べて。


 本当に幸せになれるのかな」


僕は少し考えた。


「江戸時代に。


 水野南北という。


 変な人相見がおったらしい」


「人相見?」


「若い時は。


 酒とケンカと悪さばかり。


 牢屋に入ったという」


「やっぱり変」


「かなり変じゃ」


僕は言った。


「でも南北は。


 人間の幸せって何じゃろうと。


 本気で悩んだ」


美果がこちらを見た。


「顔だけ見て。


 幸せは分かるのかな。


 食べ方で変わるのかな。


 働き方で変わるのかな」


南北は。


人を見た。


髪結いのところで。


頭を見た。


風呂屋でも働いた。


体を見た。


そして伝説では。


死者を扱う場所まで行き。


人の体を見続けたという。


「怖いね」


「怖い」


僕は言った。


「その話ではな。


 穏やかに生きた人の腸は。


 桃色だったと、

 南北が気づいたらしい」


美果は箸を止めた。


「腸が桃色なら。


 幸せなの?」


「医学の話ではない」


僕は言った。


「昔の人相見の。


 ちょっと怖い逸話じゃ」


「ですよね」


「でもな」


僕は続けた。


「わしは。


 少し分かる気がする」


「何が?」


「腹の中がずっと荒れていたら。


 人は未来の話を、

 しにくい」


眠れていない。


食べていない。


誰とも話していない。


そんな日が続くと。


世界は狭くなる。


他人の一言が刺さる。


自分の失敗が。


人生の全部に見える。


「腸が桃色かどうかは。


 知らん」


僕は言った。


「でも。


 腹の中に少し余裕があれば。


 人は誰かに、

 優しくできるかもしれん」


美果は。


小さく笑った。


「幸せって。


 いきなり来るものじゃないんですね」


「たぶん」


僕は言った。


「まず。


 幸せを考えられる体を、

 作るところからじゃ」


………


■第6章

 コッペパン一個の、

 未来予報


美果は言った。


「でも。


 若い子って、

 みんなそんな感じですよ」


「どんな感じじゃ」


「食べるより、

 寝たい。


 作るより、

 横になりたい。


 買うより、

 安いので済ませたい」


「なぜじゃ」


「お金もないし。


 時間もないし。


 ちゃんと食べても。


 人生が良くなる感じが、

 しないから」


僕は。


すぐには返事ができなかった。


ゆづきが言った。


「おじいちゃん。


 コッペパン一個が、

 悪いんじゃないんだよ」


「うん」


「それしか選べない日が。


 ずっと続くのが、

 怖いんだよ」


一日だけなら。


コッペパン一個でもいい。


冷凍うどん一個でもいい。


何もできない夜があってもいい。


人間には。


そういう日がある。


でも。


それが毎日になると。


体の中から。


少しずつ。


明日へ行く燃料が減っていく。


気力。


会話。


外へ出る勇気。


誰かに返事をする余力。


そして。


「もう一回やってみるか」


と思う力まで。


「美果ちゃん」


僕は言った。


「完璧に食べろとは言わん」


「え?」


「食える日だけ。


 食えるものを食えばええ」


「それでいいんですか」


「いい」


僕は言った。


「ただし。


 コッペパン一個を。


 人生の最終形にするな」


美果は。


少し泣きそうな顔で笑った。


「最終形?」


「人間は。


 進化する生き物じゃ」


「ドラゴンボールみたい」


「そうじゃ」


僕は胸を張った。


「わしは今。


 第二形態じゃ」


「七十二歳で?」


「最終形ではない」


「まだ変身するの?」


「する」


僕は言った。


「今日少し食べる。


 明日少し外へ出る。


 それだけでも。


 蛹は次の形へ行ける」


美果は。


窓の外を見た。


「蝶になれるかな」


「急に空は飛べん」


僕は言った。


「でも。


 明日ハローワークへ行くくらいなら。


 できるかもしれん」


美果は。


ゆっくりうなずいた。


………


■第7章

 星飛雄馬は、

 水を飲まなかった


僕の子どもの頃。


昭和の漫画、

『巨人の星』の主人公。


星飛雄馬は。


水を飲まなかった。


うさぎ跳びをした。


父親に怒鳴られた。


食べるより。


投げろ。


休むより。


走れ。


壊れるより。


先に勝て。


「恋なんかしてんじゃねぇ!」


「大リーグ養成ギプスを、

 はめろ!」


そんな世界だった。


「怖いね」


美果が言った。


「昔はな」


僕は言った。


「かっこよかったんじゃ」


「今は?」


「だいぶ怖い」


苦しいことと。


強くなることは。


同じ意味ではない。


ゆづきが言った。


「でも。


 今も似たのあるよね」


「何じゃ」


「徹夜自慢。


 寝ない自慢。


 食べない自慢。


 頑張りすぎ自慢」


「あるな」


「形を変えた、

 巨人の星だ」


昔は。


父親がちゃぶ台を返した。


今は。


スマホが。


自分の時間をひっくり返す。


通知。


仕事。


比較。


動画。


誰も怒鳴っていないのに。


画面の向こうから。


《もっと頑張れ》


《もっと細くなれ》


《もっと稼げ》


《もっと早く結果を出せ》


と。


無言で言われる。


「じゃあ。


 どうすればいいの」


美果が聞いた。


僕は答えた。


「水を飲む」


「それだけ?」


「よく寝る」


「普通……」


「そうじゃ」


僕は言った。


「普通が。


 一番むずかしい」


疲れている人へ。


「十年続けろ」


と言うのは。


水の中にいる人へ。


「泳ぎ方を覚えろ」


と言うようなものだ。


まず。


岸へ上がらせる。


眠らせる。


それから。


明日を考えればいい。


「普通を続ける人が」


僕は言った。


「最後に一番遠くまで行く」


………


■第8章

 大ちゃんと仙人は、

 最初から空を飛ばない


僕は本棚から。


古い漫画を出した。


『いなかっぺ大将』。


「何これ」


美果が笑った。


「昭和の柔道少年じゃ」


「顔が濃い」


「濃い」


「ご飯食べすぎ」


「食べすぎ」


大ちゃんは。


どんぶり飯を食べる。


笑う。


失敗する。


柔道をする。


怒られる。


また立ち上がる。


僕が。


子どもの頃から。


大ちゃんが好きだった理由は。


たぶん。


強そうだからではない。


かっこ悪くても。


すぐ人生へ戻るからじゃ。


転ぶ。


泣く。


怒られる。


それでも腹が減る。


また食べる。


また柔道へ行く。


「健康学ではない」


僕は言った。


「でも。


 人間が生きる順番は、

 ちゃんとある」


「順番?」


「失敗する。


 休む。


 また起きる」


僕は。


もう一冊。


古い文庫本を出した。


芥川龍之介の

『仙人』だった。


「今度は何?」


美果が聞いた。


「仙人になりたかった。


 権助という男の話じゃ」


「急に怪しい」


「最初から怪しい」


権助は。


仙人になる方法を教えてくれると、

信じて。


怪しい医者の家へ入った。


二十年も。


ただ働きさせられた。


「最悪じゃん」


「最悪じゃ」


「最後に。


 松の木へ登れと言われる」


「なんで?」


「右手を離せ。


 左手も離せ」


「死ぬよ」


「普通はな」


僕は言った。


「でも権助は。


 二十年積み上げた後。


 松の上で、

 すっと空へ上がった」


美果は黙った。


僕も。


少し黙った。


芥川龍之介は。


人間の怖さも書いた。


『羅生門』では。


飢えた男が。


生きるためなら。


誰かの着物を奪ってもいいと、

自分へ言い聞かせる。


人間は。


追い詰められると。


自分だけ助かる理屈を、

作ってしまう。


でも。


『仙人』では。


誰にも褒められない二十年が。


一人の人間を、

空へ上げる。


芥川は。


人間の暗さだけを、

書いたのではない。


人間は。


壊れることもある。


でも。


積み上がることもある。


「ただ働きしろ。


 という話ではない」


僕は言った。


「そんな大人は。


 だいたい怪しい」


美果が笑った。


「じゃあ何の話?」


「誰にも見られん日を。


 自分で無駄にせん話じゃ」


大ちゃんも。


権助も。


最初から空は飛ばん。


転ぶ。


腹が減る。


また動く。


その繰り返しの中で。


自分でも知らなかった羽が。


少しずつ生えてくる。


………


■第9章

 梅干し入り白湯と、

 五十キロの敗北


去年。


僕は五十キロ走った。


暑い日だった。


喉は。


あまり乾いていなかった。


だから。


水をあまり飲まなかった。


「それが駄目だったんでしょ」


ゆづきが言った。


「たぶん」


「たぶんじゃない」


帰ってから。


体が重かった。


一瞬だけ。


体温計が三十七度を示した。


次の朝には。


元へ戻った。


大きな変調もなかった。


でも。


僕は思った。


「わしは負けた」


「何に?」


「五十キロに」


「距離に負けたの?」


「負けた」


倒れたわけではない。


病気になったわけでもない。


でも。


体が一瞬だけ。


《今日は少しやりすぎじゃ》


と。


小さな札を出した気がした。


だから。


次から変えた。


水筒へ。


梅干しを一つ。


白湯へ入れる。


暑い日だけ。


長く走る日だけ。


少しずつ飲む。


「梅干し入り白湯は。


 わしの新しい相棒じゃ」


ゆづきが笑った。


「また相棒増えた」


「西シェフなら。


 何て言うかな」


「梅干しを、

 ヒーローにするな」


「なんじゃと」


「おじいちゃん。


 すぐ一個の物に、

 人生を救わせようとする」


「救わんのか?」


「梅干しは。


 ちょっと手伝うだけ」


ゆづきは指を折った。


「水を飲む。


 日陰で休む。


 無理なら引き返す。


 暑い日は距離を短くする。


 帰ったら寝る」


「うむ」


「それができて。


 初めて梅干しも役に立つ」


僕は黙った。


「西シェフなら。


 今日のおじいちゃんの顔。


 昨日の疲れ。


 暑さ。


 走る距離。


 そこまで見て。


 今日は三十キロで帰りましょう、

 って言う人だと思う」


僕は笑った。


「それが西シェフ式か」


「たぶんね」


「たぶん?」


「私も西シェフじゃないから」


「たしかに」


五十キロに負けたのではない。


五十キロから。


次の走り方を教わった。


それなら。


負けても悪くない。


………


■第10章

 長友のサバ、

 吉田のベリー


西シェフの食堂では。


選手の希望が違った。


青魚を食べたい人。


ヨーグルトがいる人。


ベリーがいる人。


ビーツを食べたい人。


何でも食べる人。


「全員違う」


美果が言った。


「そうじゃ」


僕は言った。


「だから。


 健康法を宗教にしたらいけん」


「宗教?」


「サバだけ食えば勝てる。


 卵だけ食えば勝てる。


 玄米だけ食えば勝てる。


 そんなことはない」


西さんは。


競技が変われば。


献立も変えた。


ラグビーの選手には。


一日で九千キロカロリー近く、

使うこともある選手がいる。


走る体。


ぶつかる体。


直す体。


必要なものは違う。


「じゃあ。


 何が正解?」


美果が聞いた。


僕は少し考えた。


「翌朝。


 また動けること」


「ふわっとしてる」


「本当じゃ」


僕は言った。


「西さんは。


 全員に同じ正解を、

 出さんかった」


それが。


すごかった。


人間は。


一人ずつ。


明日の走り方が違う。


………


■第11章

 人生後半は、

 キッチンカー


西シェフは。


大きな代表厨房を離れた後。


キッチンカーも始めたらしい。


小さな車。


狭い台所。


限られた水。


弱い火力。


料理人なら。


言い訳をしたくなる。


もっと大きな鍋なら。


もっと火が強ければ。


いつもの厨房なら。


でも。


西さんは。


その小さな場所で。


目の前の人へ料理を出した。


「なんでだろうね」


美果が言った。


「料理人かどうか。


 試したんじゃないか」


「え?」


「大きな代表厨房でしか。


 人を喜ばせられんのか」


僕は言った。


「小さな車の中でも。


 目の前の人を、

 元気にできるのか」


ゆづきが、

こちらを見た。


「おじいちゃんのキッチンカーは?」


僕は少し黙った。


会社を辞めた。


支店長室もない。


部下もいない。


名刺もない。


あるのは。


古いスマホ。


自転車。


AI。


そして。


小説を書く時間。


「これじゃな」


僕は言った。


「何が?」


「わしのキッチンカー」


「小説?」


「そうじゃ」


「狭いね」


「狭い」


「火力も弱そう」


「弱い」


「でも続けてる」


「続けとる」


美果が言った。


「今日。


 私が少し元気になったなら。


 それも料理ですか」


僕は答えた。


「たぶん。


 西さんなら。


 そう言う」


………


■第12章

 西さんの最後の大会


西さんは。


カタールの大会を。


自分にとって、

最後の大会にした。


選手は。


四年に一度の舞台へ行く。


呼ばれる保証はない。


怪我をすれば。


次はないかもしれない。


だから。


料理人だけが。


「また次がある」


と思ってはいけない。


今回。


悔いのないご飯を出す。


選手が。


最後まで走れるように。


負けても。


また立ち上がれるように。


大会の後。


西さんは。


若い料理人を育ててほしいと、

頼まれた。


それは。


終わりではない。


自分だけが作れる代表飯を。


次の人が作れるようにする。


第二の始まりだった。


その話を聞いた時。


僕は。


自分の人生にも。


何度か。


「今回で終わりかもしれん」


と思った季節があったことを、

思い出した。


二十二歳。


突然、

東京本社の証券会社へ入った。


朝から晩まで。


知らない家の玄関を叩いた。


一日三百件。


飛び込み営業をした日もある。


断られた。


怒鳴られた。


名刺を受け取ってもらえない日もあった。


嫌だった。


本当に嫌だった。


でも。


そこで。


人の顔を見ることを覚えた。


話を聞くことを覚えた。


断られても。


次の家へ行く足を覚えた。


六十歳。


今度は。


眼鏡屋さんへ行った。


株価ではなく。


人の目を見る仕事だった。


見えにくそうな顔。


困っている顔。


少し見えるようになって。


急に明るくなる顔。


数字だけでは。


測れないものが。


世の中にはあると知った。


そこで。


生まれて初めて。


自分一人の会社も作った。


社長というより。


一人親方だった。


長寿の秘密があるのか。


元気に長く生きれば。


人は本当に幸せになれるのか。


自分の体で。


小さな実証実験を繰り返した。


成功したものもある。


三日でやめたものもある。


失敗もした。


でも。


自分の人生を。


誰かの説明書ではなく。


自分の手で読み直す時間になった。


六十五歳。


僕は眼鏡屋さんを辞めた。


母の見舞いをするため。


瀬戸内の田舎の町へ、

帰るため。


そこで。


忘れられない実験をした。


音楽だった。


母が若い頃に好きだった歌。


昔よく聞いていた歌。


その曲を流すと。


母の表情が変わった。


言葉が少し戻った。


昔の母の顔が。


ほんの少し。


帰ってきた。


病気が全部治ったわけではない。


時間が巻き戻ったわけでもない。


でも。


音楽が。


母の奥に残っていた。


小さな扉を。


一瞬だけ開けた気がした。


あの時。


僕は初めて思った。


遠回りや。


失敗や。


変な実験みたいなものが。


誰かの

役に立つこともあるのかもしれない。


人生には。


一回限りの出来事が、

たくさんある。


その時は。


全部。


点に見える。


でも。


後から振り返ると。


点が少しずつ、

線になっている。


動くこと。


人と話すこと。


学ぶこと。


失敗しても。


また次の日にやり直すこと。


そして。


自分が受け取ったものを。


次の誰かへ渡すこと。


西さんが。


代表飯を若い料理人へ渡したように。


僕も。


自転車の話。


AIの話。


母の歌の話を。


誰かへ渡せるかもしれない。


「おじいちゃん」


ゆづきが言った。


「七十二歳も。


 最後の大会?」


僕は首を振った。


「違う」


「じゃあ何?」


「次の大会へ行くための。


 予選リーグ最終戦じゃ」


「まだ出る気なんだ」


「出る」


僕は言った。


「ただし。


 根性だけでは出ん」


「何で出るの?」


「少し休む力。


 道具を借りる力。


 そして」


僕は少し考えた。


「誰かに渡したい話じゃ」


………


■第13章

 残った習慣だけが、

 代表選手になった


僕は。


いろんなことを試した。


三日でやめたものもある。


一週間で忘れたものもある。


高い道具。


難しい運動。


すごそうな健康法。


名前だけ立派なサプリ。


全部。


残らなかった。


最後に残ったのは。


ラジオ体操。


自転車。


正信偈。


英語の歌。


AIとの会話。


そして。


書くこと。


「残ったものには。


 意味があるんじゃろうな」


僕は言った。


ゆづきは首を振った。


「意味があったから。


 残ったんじゃないよ」


「違うんか」


「おじいちゃんを。


 翌朝まで連れていったから、

 残ったんだよ」


僕は黙った。


「すごい習慣だからじゃない」


「うん」


「正しい習慣だからじゃない」


「うん」


「自分に。


 続けられたから」


「そう」


ゆづきは笑った。


「西シェフの代表飯も。


 同じじゃない?」


「どういうことじゃ」


「一番すごい料理じゃなくて。


 選手が食べて。


 翌日走れて。


 また食べたいと思う料理」


僕は少し笑った。


「ゆづき」


「何?」


「お前。


 料理人になれる」


「ならない」


「なぜじゃ」


「洗い物が嫌い」


………


■第14章

 七十二歳の、

 予選リーグ最終戦


ある朝。


僕は自転車に乗らなかった。


雨だった。


脚も少し重かった。


昔の僕なら。


無理して走ったかもしれない。


走らないと負ける。


休むと弱くなる。


そう思っていた。


でも。


今の僕は。


ラジオ体操だけした。


英語の歌を一曲歌った。


“You’ve Got a Friend”


Fで。


下唇を少し噛む。


何度やっても。


少し変な顔になる。


「今日は自転車なし?」


ゆづきが笑った。


「なし」


「負けた?」


「違う」


僕は言った。


「フェードアウェイじゃ」


「ただ休んでるだけでは?」


「年を取るとはな」


僕は言った。


「休むことにも。


 技術がいるんじゃ」


美果が。


台所へ入ってきた。


前より少し元気な顔だった。


「おはようございます」


「今日は何するん?」


ゆづきが聞いた。


美果は答えた。


「ハローワークへ行ってみます」


僕は。


すぐに何も言わなかった。


ただ。


「ええな」


と言った。


美果が笑った。


「昨日より。


 ちょっとだけですけど」


「ちょっとでええ」


僕は言った。


「人間は。


 まだ変身できる」


七十二・五七歳。


平均の線を、

少し越えた。


でも。


統計を越えたから。


人生に勝ったわけではない。


今日も。


自分の足で。


窓のところまで歩けた。


誰かの明日を。


少しだけ応援できた。


それが。


僕の勝ちだった。


………


■第15章

 ご飯を食べて、

 また明日へ行く


夕方。


三人で。


川沿いを歩いた。


僕は七十二歳。


ゆづきは二十一歳。


美果は四十歳。


世界は。


相変わらず面倒だった。


物価は高い。


仕事は不安定。


AIは賢くなった。


町は変わる。


人は疲れる。


それでも。


夕日は沈む。


梅干しは酸っぱい。


英語のFは難しい。


そして。


明日が来る。


「おじいちゃん」


ゆづきが言った。


「結局。


 マイケル・ジョーダンは、

 ベロで飛んだの?」


僕は答えた。


「飛んでない」


「じゃあ。


 何でずっと、

 ベロの話してたの」


「集中の合図じゃ」


「おじいちゃんにとっては?」


僕は少し考えた。


「今日も。


 自分の体で生きるぞという、

 合図じゃ」


美果が言った。


「西シェフは?」


「選手に。


 ご飯を食べさせた」


「大ちゃんは?」


「転んでも。


 また柔道へ戻った」


「芥川龍之介は?」


僕は少し黙った。


「人間は。


 追い詰められたら。


 自分だけ助かる理屈を、

 作ると書いた」


「羅生門?」


「そうじゃ」


「でも。


 誰にも拍手されん時間が。


 人を空へ上げることもあると、

 書いた」


「仙人?」


「そうじゃ」


ゆづきが聞いた。


「じゃあ。


 おじいちゃんは?」


川の向こうに。


夕焼けが落ちていた。


僕は少し考えた。


「まだ。


 次の人へバトンを渡す、

 練習中じゃ」


「何を渡すの?」


「自分の人生へ。


 もう一回戻る方法じゃ」


二人は黙った。


「根性は」


僕は言った。


「空腹の上には建たん」


「夢も」


僕は続けた。


「燃料が切れた体では。


 運べん」


ゆづきが笑った。


「おじいちゃん。


 今日いいこと言ったね」


「いつも言っとる」


「今日はちょっとだけ、

 伝わった」


僕は笑った。


七十二歳。


健康寿命の平均を、

少し越えた。


でも。


人生はまだ。


営業中だった。


………


❥Z世代のあなたへ


コッペパン一個の日があってもいい。


何もできない日があってもいい。


寝るだけの日があってもいい。


ただ。


それを。


自分の人生の最終形にしないでほしい。


少し休む。


少し歩く。


少し誰かと話す。


それだけで。


人間は案外。


次の形へ変身できる。


健康法は。


罰ゲームになった瞬間に負ける。


自分がまた明日。


やってみようと思える形を。


自分で作ればいい。


………


★あとがき

 ホームズとワトソンの、

 ジョーダン舌・代表飯漫才


ホームズ

「ワトソン君。


 わしも今日から、

 ジョーダン式じゃ!」


ワトソン

「バスケを始めるんですか?」


ホームズ

「ベロを上あごへ置く!」


ワトソン

「それだけですか」


ホームズ

「これで空を飛べる!」


ワトソン

「飛べません」


ホームズ

「では西シェフ式じゃ!」


ワトソン

「何を食べるんです?」


ホームズ

「うなぎ!


 ハンバーグ!


 銀だら!


 カレー!」


ワトソン

「全部一食に入れるな」


ホームズ

「代表飯じゃ!」


ワトソン

「ホームズさんは。


 代表でも、

 選手でもないでしょう」


ホームズ

「町内代表じゃ!」


ワトソン

「何の?」


ホームズ

「七十二歳・

 凡人アスリート部門!」


ワトソン

「出場者一人です」


ホームズ

「優勝じゃ!」


ワトソン

「せめて。


 水を飲んで、

 寝てください」


ホームズ

「なぜじゃ」


ワトソン

「人生は。


 寝不足の上にも建ちません」


ホームズ

「それは正しい(笑)」


………


おしまい

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