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『五年後の鉛筆』第3回 ✲七十二歳の信用口座 ――歯磨き、ラジオ体操、AI小説。誰にも見えなかった一日が、五年後の僕を守るログになる――

✦『五年後の鉛筆』第3回


✲ 七十二歳の信用口座


――歯磨き、ラジオ体操、AI小説。

 誰にも見えなかった一日が、

 五年後の僕を守るログになる――


………


昔は、

誰も見ていなかった。


朝六時半に、

ラジオ体操をしたこと。


体温を測ったこと。

血圧を測ったこと。


玄米とオートミールを

炊いたこと。


英語を聞いたこと。

正信偈を唱えたこと。


チョコ●ップのドアを

開けたこと。


娘と

ゲームで笑ったこと。


夜に歯を磨いたこと。


そんなものは、

誰にも評価されなかった。


金にもならなかった。

履歴書にも書けなかった。


けれど、

AIの時代には違う。


見えなかった一日が、

少しずつ見えるようになる。


歩数。

睡眠。

食事。

血圧。

学習。

発信。

返信。

約束。

運動。

歯科検診。

家族との会話。

誰かを少し助けた記録。


それらが、

知らないうちに

人生のスコアボードへ

積み上がっていく。


怖い時代だ。


でも、

僕はこうも思った。


どうせ

見られる時代が来るなら、

見られて恥ずかしくない一日を、

こちらから作ればいい。


歯を磨く。

言葉を磨く。

体を動かす。

小説を書く。


困っている人に、

ほんの少し灯りを渡す。


六十七歳の僕は、

まだ城を持っていない。


でも、

毎日の小さな行動なら

持っている。


そしてその行動は、

五年後、

七十二歳の僕を守る

信用の小判になるかもしれない。


………


★目次


■第一章

 歯ブラシだけでは

 六割しか届かない


■第二章

 口は戦場ではなく、

 生態系である


■第三章

 一日の小さな行動が、

 信用ログになる


■第四章

 愛嬌という老後資産


■第五章

 歯磨き粉のチューブが、

 文明の配管につながった日


■第六章

 避難所で、

 歯磨きは命になる


❥Z世代のあなたへ


★あとがき

 ホームズとワトソンの

 やすきよ漫才風


………


★本文


■第一章

 歯ブラシだけでは

 六割しか届かない


ある日、

歯科医の先生の話を聞いた。


「歯ブラシだけでは、

 汚れのすべては落ちません」


僕は耳を疑った。


毎日磨いている。

朝も夜も磨いている。

歯医者にも通っている。


それでも、

歯ブラシだけでは届かない

場所があるという。


歯と歯の間。

歯ぐきの境目。

舌の表面。

親知らずの裏。

奥歯の内側。


僕は思った。


なんだ。

人生と同じじゃないか。


学校。

会社。

結婚。

住宅ローン。

定年。


それらは、

人生の表面だった。


きちんと生きてきた。


働いてきた。

税金も払ってきた。

家族も養ってきた。


でも、

それで全部

磨けていたわけではない。


本当に残るものは、

いつも隙間にあった。


言えなかった怒り。

始めなかった夢。

書かなかった小説。

歌わなかった歌。

学ばなかった英語。

触らなかったAI。


人生の四割は、

歯間に残っていた。


そして僕は、

もう一つ気づいた。


これまでの社会は、

表面だけを見ていた。


学歴。

会社名。

肩書き。

年収。

家。

車。

預金。


それらが、

その人の信用だと思われていた。


でもAIの時代には、

もっと細かい場所まで

見られるようになるかもしれない。


何を食べたか。

どれだけ歩いたか。

約束を守ったか。

嘘をついたか。

誰かを助けたか。

怒りに任せて投稿したか。

毎日を雑に扱ったか。


口の中でいえば、

歯の表面ではなく、

歯間まで見られる時代である。


怖い話だ。


でも、

それは同時に希望でもある。


大きな肩書きがなくても、

小さな行動を積み上げられる人は、

見つけてもらえる時代になる。


六十七歳の僕にも、

まだ積み上げられるものがある。


歯ブラシ一本。

短くなった鉛筆一本。


スマホ一台。

AIとの会話。

ラジオ体操。

血圧計。

体重計。


正信偈。

英語のラジオ。

娘とのゲーム。

チョコザップのドア。


夜の歯磨き。


そんなものが、

もし未来の信用ログになるなら、


僕の一日は、

まだ捨てたものではない。


■第二章

 口は戦場ではなく、

 生態系である


先生は、

もう一つ面白いことを言った。


「口の中は、

 ただ除菌すればいい場所では

 ありません」


僕は少し驚いた。


日本人は、

除菌が好きだ。


除菌シート。

除菌スプレー。

抗菌加工。

消臭ビーズ。

アルコール。

清潔。

無臭。

ピカピカ。


たしかに日本は清潔だ。


駅のトイレもきれい。

コンビニもきれい。

弁当の包装もきれい。

病院もきれい。

家庭の台所もきれい。


でも、

きれいすぎることが、

いつも正しいとは限らない。


口の中には、

悪さをする菌だけでなく、

そこに住んで

バランスを取っている菌もいる。


腸に

善玉菌と悪玉菌があるように、


口の中にも、

小さな生態系がある。


歯科医の先生は、

こんなふうに言っていた。


《口は、

 殺菌する場所ではなく、

 育てる環境です。


 悪い菌を増やさないことと、

 必要なバランスを

 壊さないこと。


 その両方が大事です。》


僕はその言葉を、

しばらく考えた。


そうか。


歯磨きとは、

敵を全滅させる戦争ではない。


口の中の町内会を、

荒れないように整えることなのだ。


戦うように磨くのではなく、

整えるように磨く。


悪玉菌を憎むのではなく、

悪玉菌が増える環境を作らない。


舌を削り取るのではなく、

軽く整える。


歯ぐきの境目に、

やさしく毛先を置く。


それは、

口の中だけの話ではなかった。


人生も、

社会も、

同じだった。


力でねじ伏せるより、

隙間を見つける。


敵を全部消そうとするより、

バランスを取り戻す。


そしてこれは、

これから来るかもしれない

信用スコア社会にも

つながると思った。


岡田斗司夫さんが語る

評価経済。


アリババの芝麻信用のような

信用スコア社会。


支払い。

購買履歴。

発信。

人間関係。

約束を守る力。

マナー。

健康。

学習。

移動。

日々の行動。


そういうものが、

知らないうちに

人生のスコアボードへ

積み上がっていく世界。


僕はそれを、

少し怖いと思った。


なぜなら、

その社会では、


「いい人」

かどうかより、


「いい行動が見えているか」

が大事になるからだ。


黙って

真面目に生きている人がいる。


人を傷つけない。

悪口も言わない。

借金もしない。

静かに働く。

静かに暮らす。


昔なら、

そういう人は立派な人だった。


でも評価経済では、

その人は見えにくい。


発信しない。

記録がない。

関係性が残らない。

誰かに評価されない。

助けたことも見えない。

学んだことも見えない。


つまり、

善人なのに、

スコアボードには何も残らない。


反対に、

少し偽善でも、

人前で良い行動をする人がいる。


ありがとうと書く。

学んだことを発信する。

困っている人を手伝う。

健康記録を残す。

約束を守る。


少額でも借りて、

きちんと返す。


レビューを書く。

人に迷惑をかけない。

自分の活動を見える形にする。


すると、

その人のログは残る。


あの人は返す人だ。

あの人は続ける人だ。

あの人は学ぶ人だ。 


あの人は

人とつながれる人だ。


あの人は

社会に参加している人だ。


そう判断される。


ここが怖い。


お金を一円も借りない人より、


少し借りて、

期日通りに返す人の方が、

信用が高く見えることがある。


心の中で善人でいる人より、


少し偽善でも、

人の目を気にして

善い行動を見せる人の方が、

評価されることがある。


つまり、

評価社会では、


「本当に善人か」


だけでは足りない。


「善い行動が見える形で

 残っているか」


が問われる。


僕はそこで、

仏教の九品のことを思い出した。


仏教は、

人を比べるな、

差別するな、

みんな救われる道がある、

そう教えているはずだ。


なのに、

なぜ九品という

段階のような考え方があるのか。


最初は、

そこが少し怖かった。


でも、

少し考えて分かった気がした。


九品とは、

人間を差別する棚ではない。


今の自分の心が、

どちらを向いているかを見る

地図なのかもしれない。


人を傷つける方向へ

向いているのか。


感謝する方向へ

向いているのか。


怠ける方向へ

流れているのか。


少しでも善い方へ

歩こうとしているのか。


下にいる人を

笑うためではない。


そこから上がる道を

見失わないためにある。


AIの信用スコアも、

本当はそうでなければならない。


人を閉じ込める点数ではなく、


昨日より少し善くなった行動を

見つける地図。


そうでなければ、

それは仏教ではなく、

ただの冷たい選別になる。


僕は思った。


信用スコア社会は、

たぶん怖い。


でも、

怖いから逃げているだけでは、

もっと怖い。


何も発信しない。

何も学ばない。

何も記録しない。

誰ともつながらない。


それでいて、

自分は真面目に生きていると

胸の中だけで思っていても、


五年後、

その真面目さは

誰にも見えないかもしれない。


だから僕は、

少し考え方を変えた。


監視されるのではなく、

自分から良いログを残す。


評価されるためだけではなく、

未来の自分を助けるために

行動を見える形にする。


歯を磨く。

体を動かす。

血圧を測る。

英語を聞く。

小説を書く。

AIに聞く。

家族とゲームで笑う。


念仏を唱える。

人を傷つけない。


できないことは、

できないと言う。


分からないことは、

分からないと認める。


そして、

小さな善意を

見える形にする。


偽善でもいい。


最初は、

人によく見られたいだけでもいい。


人の目を気にして

マナーを守るなら、

それは悪いことではない。


評価を気にして

嘘を減らすなら、

それは悪いことではない。


信用を意識して

約束を守るなら、

それは悪いことではない。


偽善でも、

続ければ習慣になる。


習慣になれば、

そのうち本物に近づく。


歯磨きだって同じだ。


最初は、

口臭が怖いから

磨く。


人に嫌われたくないから

磨く。


歯医者に怒られたくないから

磨く。


でも続けているうちに、

自分を大切にする習慣へ

変わっていく。


信用も同じなのかもしれない。


最初は、

点数が怖いから

整える。


評価が怖いから

発信する。


人に見られるから

マナーを守る。


でも、

それを続けていれば、

いつか本当に

人を大切にする自分に近づく。


僕は洗面台の鏡を見た。


歯磨きとは、

口の中を整える

作業だ。


そして、

これからの時代の信用とは、

自分の一日を整える

作業なのかもしれない。


磨くとは、

●すことではない。


磨くとは、

生きられる場所を

整えることだ。


信用を上げるとは、

人を蹴落とすことではない。


自分の毎日を、

少しだけ見える形で

善い方向へ整えることだ。


六十七歳の僕は、

まだ遅くない。


今日の一ポイントなら、

今日から積める。


歯ブラシ一本からでも、

信用ログは始められる。


■第三章

 一日の小さな行動が、

 信用ログになる


今日一日を振り返ると、

僕は少し

不思議な気持ちになった。


♫朝六時半。


ラジオ体操。

体を動かす。


健康信用スコア、

一ポイント。


♫六時四十五分。


体温を測る。

体重を測る。

血圧を測る。


自分の体を

数字で見る。


自己管理信用スコア、

一ポイント。


♫七時。


コーヒータイム。


ひとつまみのドライフルーツを食べ、

頭に少し栄養を送りながら、

AI小説を作る。


創作信用スコア、

一ポイント。


♫十一時。


玄米。

オートミール。

人参。

玉ねぎ。

じゃがいも。

にんにく。

カレールー。


炊き込みご飯を作る。


自炊信用スコア、

一ポイント。


♫午後。


娘と、

ドラゴンクエストの設定をする。


ゲームを通じて、

娘や孫との会話の準備をする。


家族信用スコア、

一ポイント。


♫正信偈を読む。


念仏を唱える。

心の栄養を入れる。


信仰信用スコア、

一ポイント。


♫NHKの英会話を聞く。


聞き取れない。

でも聞く。


学習信用スコア、

一ポイント。


♫チョコ●ップへ行く。


ドアを開ける。

体を動かす。


運動信用スコア、

一ポイント。


♫夜。


AI小説の続きを書く。


世界のニュースと、

自分の人生をつなぐ。


創作信用スコア、

一ポイント。


♫娘とNintendo Switchをする。


間違える。

笑われる。

もう一回やる。


愛嬌信用スコア、

一ポイント。


♫その隙間に、

昔好きだった洋楽を聴く。


七十年代のメロディーが、

少しだけ心を若くする。


感性信用スコア、

一ポイント。


昔なら、

そんなものは誰も数えなかった。


数えなくてもよかった。


ラジオ体操をしようが、

酒を飲んで寝ようが、


英語を学ぼうが、

パチンコに行こうが、


AI小説を書こうが、

テレビの前で怒鳴ろうが、


その差は、

世間からはあまり見えなかった。


でも、

生成AIの時代は違う。


スマートウォッチがある。

健康アプリがある。


決済ログがある。

投稿履歴がある。


学習履歴がある。

移動履歴がある。

検索履歴がある。


AIとの会話ログがある。


何を続けているか。

何を投げ出したか。

何に怒っているか。

何を学んでいるか。

誰とつながっているか。


少しずつ、

人間の一日が

見えるようになっていく。


もちろん、

それは怖い。


監視社会になれば、

息が詰まる。


点数だけで人を判断すれば、

人間は商品になる。


でも、

こうも考えられる。


今まで評価されなかった

小さな努力にも、

光が当たる時代になるかもしれない。


七十二歳になった時、

同じ七十二歳でも、

大きな差がつく。


一方には、


「健康なんか気にしても、

 どうせ死ぬんだ」


「英語なんか勉強して、

 何の役に立つ」


「音楽なんか忘れた」


「カラオケなんか

 不良の遊びだ」


「AIなんか若者のものだ」


「酒と愚痴と昔話だけが

 残った」


そう言いながら、

一日を雑に使っていく人がいる。


もう一方には、


ラジオ体操をする人がいる。

血圧を測る人がいる。

英語を聞く人がいる。

正信偈を唱える人がいる。

AIで小説を書く人がいる。

娘とゲームで笑う人がいる。

歯を磨く人がいる。


どちらが偉いという話ではない。


でも、

五年後、

その差はたぶん出る。


体に出る。

声に出る。

表情に出る。

家族との距離に出る。

信用に出る。


そして、

もしかしたら、

AIのスコアボードにも出る。


僕はそれを、

怖い未来としてだけではなく、

小さな希望として見たい。


なぜなら、

僕には大きな城はないからだ。


僕にあるのは、

小さな一日だけだからだ。


一日を雑に捨てるか。

一日を小さく積み上げるか。


その違いが、

五年後の僕を作る。


そして、

その積み上げは、

誰かに見せるためだけのものではない。


未来の自分を

助けるためのものなのだ。


僕は思った。


歯磨きも同じだ。


一回磨いたからといって、

人生は変わらない。


でも、

磨かない夜が積み重なると、

口の中は変わる。


筋トレも同じ。

e - bike も同じ。

英語も同じ。 

小説も同じ。

念仏も同じ。

カラオケも同じ。

家族とのゲームも同じ。


その場では、

何の意味もないように見える。


でも、

小さな一ポイントが、

五年後の自分を

別の場所へ連れていく。


僕は、

少し笑った。


六十七歳の僕は、

今日もこっそり

ポイントを貯めている。


誰かに

命令されたわけではない。


ランキングに  

載るためでもない。


ただ、

未来の自分に、

そして Z 世代のあなたに、


少しだけ良い場所を

渡したいからだ。


■第四章

 愛嬌という老後資産


五年後、

僕は七十二歳になる。


その頃、AIはもっと 

賢くなっているだろう。


薬の説明も、

介護の相談も、

ニュース解説も、

予定管理も、

話し相手も、


AIやロボットが

かなり上手にやってくれる。


正しい知識は、

AIがくれる。


きれいな慰めも、

AIが言える。


健康アドバイスも、

AIが出せる。


では、

人間のおじいちゃんは

いらなくなるのか。


僕は、

逆だと思う。


AIが正しすぎる時代には、

不完全な人間味が価値になる。


うまくできないゲーム。


ゴミ箱とまな板を間違える姿。


英語の歌を

たどたどしく歌う声。


Y字フロスを怖がる情けなさ。


分からないことを、

若い人に聞ける素直さ。


「わしも分からん」

と笑える余白。


そこに、

人間おじいちゃんの

価値が出る。


五年後に価値が上がるのは、

正しい老人ではない。


愛嬌のある老人だ。


怒鳴らない。

説教しない。


マウントを取らない。

昔の自慢を長々としない。

若い人を否定しない。


できないことを笑える。


教えてもらったら、

ありがとうと言える。


間違えても、

もう一回やれる。


評価社会の中で、

これは大きな資産になる。


なぜなら、

人は正しい答えだけでは

近づかないからだ。


人は、

一緒にいて楽な人に

近づく。


話していると元気になる人に

近づく。


失敗しても笑える人に

近づく。


少しドジでも、

なんだか憎めない人に

近づく。


僕は思った。


七十二歳の僕に必要なのは、

威厳ではなかった。


愛嬌だった。


昔の名刺は、

五年後のドアを開けてくれない。


元証券マンという肩書きも、

昔の実績も、

若い人にはあまり関係ない。


大事なのは、


今日、

機嫌よく話を

聞けるか。


今日、

ありがとうと

言えるか。


今日、

分からないことを 

聞けるか。


今日、

失敗を笑い話に

変えられるか。


それが、

老後の信用口座に

静かに積み上がっていく。


五年後の社会では、

嫌われる老人は

怒鳴られないかもしれない。


ただ、

静かにミュートされる。


説教はブロックされる。


愚痴は既読スルーされる。


昔の自慢は、

AIのノイズ除去に

吸い込まれていく。


誰も正面から喧嘩しない。


ただ、

誘われなくなる。


名前を呼ばれなくなる。


通知が来なくなる。


それが、

一番怖い。


老後の本当の貧しさは、

財布の薄さではない。


誰からも

「最近どう?」

と言われないことだ。


だから僕は、

今日から少し練習する。


偉そうにしない。

分からないことは聞く。

若い人を笑わない。

ありがとうを早めに言う。

失敗談を隠さない。


歯ブラシと同じように、

毎日、

愛嬌を少し磨く。


七十二歳の僕を救うのは、

元証券マンという

肩書きではなく、


今日のラジオ体操と、

今日のありがとうと、

今日の歯磨きかもしれない。


■第五章

 歯磨き粉のチューブが、

 文明の配管につながった日


歯磨き粉は、

ただの白い泡だと思っていた。


チューブを押せば

出る。


ドラッグストアへ行けば

買える。


なくなれば、

また買えばいい。


そんなものだと思っていた。


でもある日、

歯科用の商品が一部

出荷停止になるという

ニュースを見た。


調達難。

主力品優先。

容器。

包装。

部材。


僕は

洗面台の歯磨き粉を見た。


白いチューブ。

青い文字。

小さなキャップ。


昨日まで、

ただの日用品だった。


でも今は違った。


その中には、

石油があった。

ナフサがあった。

樹脂があった。

容器があった。

包装があった。

工場があった。

港があった。

船があった。

保険があった。

中東があった。


歯磨き粉は、

歯を磨くためだけのものでは

なかった。


世界経済が、

細いチューブの形をして、

僕の洗面台に置かれていた。


なぜなら僕は、

生活の当たり前が

一瞬で壊れることを

少しだけ知っていたからだ。


熊本地震の時、

僕は当事者だった。


一度揺れた。


そしてまた、

もう一度大きく揺れた。


部屋の中は散らかった。

棚の物は落ちた。

食器が割れた。


いつもの部屋が、

一瞬で知らない場所になった。


幸い、僕自身は

大きなけがもなく済んだ。


けれど、

それで終わりではなかった。


亡くなった人がいた。

家を失った人がいた。

避難した人がいた。

眠れない夜を過ごした人がいた。


災害とは、

テレビの画面の中で

起きるものではない。


自分のコップが落ちる。

自分の歯ブラシが倒れる。


自分の部屋の床に、

いつもの生活が散らばる。


そこから始まるものなのだ。


人吉の大洪水の時も、

同じだった。


水が来る。

泥が来る。

畳が濡れる。

家具が流れる。

道路が切れる。


人の暮らしが、

水の中で

ぐちゃぐちゃになる。


文明は、

強そうに見えて、

本当は薄い膜の上に立っている。


水道。

電気。

道路。

物流。

薬。

食料。

洗剤。

歯磨き粉。


それらは全部、

何もない時には

当たり前の顔をしている。


でも、

地震が来れば倒れる。

洪水が来れば流れる。

戦争が来れば届かなくなる。

燃料が詰まれば運べなくなる。


樹脂が足りなければ、

容器が作れなくなる。


容器がなければ、

中身があっても売れなくなる。


それが文明だった。


ホルムズ海峡が詰まる。


燃料が細る。

医療が詰まる。

物流が遅れる。

食料が薄くなる。

伝染病が広がる。


そんな時代になると、

いちばん大事になるのは

順番かもしれない。


誰に薬を回すか。

誰を先に運ぶか。

誰を診るか。

誰に燃料を渡すか。

誰に部屋を貸すか。

誰に水を分けるか。


その時、

人はお金だけでなく、

信用を見るようになる。


この人は、

約束を守る人か。


この人は、

怒鳴らない人か。


この人は、

日頃から

自分の体を整えている人か。


この人は、

人と助け合える人か。


この人は、

嘘をつかない人か。


つまり、

危機の時代には、

信用がインフラになる。


白い泡は、

ただの泡ではない。


文明がまだ動いているという

小さなサインだ。


そして、

その文明が揺れた時、


最後に人を支えるのは、

日々の小さな

信用ログなのかもしれない。


■第六章

 避難所で、

 歯磨きは命になる


災害で怖いのは、

揺れた瞬間だけではない。


水が引いたあと。

避難所に移ったあと。

命が助かったあと。


そこから始まる、

二つ目の災害がある。


避難所の体育館。

硬い床。

薄い毛布。

仕切りの少ない空間。


夜中に響く咳。

誰かのいびき。

誰かのため息。


泣き出す子ども。

眠れない老人。


水が足りない。

歯ブラシがない。

入れ歯を洗えない。

口をゆすぐ余裕もない。


食事は冷たい。

眠りは浅い。

心配で唾液は減る。

体力は落ちる。


そして、

口の中の菌が増えていく。


災害で命が助かったのに、

そのあと肺炎で

命を落とす人がいる。


誤嚥性肺炎。


食べ物や唾液が、

ほんの少し気管に入り、


そこに口の中の菌が

一緒に入る。


若くて元気な時なら、

咳で出せるかもしれない。


けれど、

避難所で疲れた高齢者には、

それができないことがある。


水がない。

眠れない。

食べられない。 

磨けない。


その四つが重なると、

口の中は、

小さな危険地帯になる。


僕は、

歯磨きというものを

少し軽く見ていた。


口臭予防。

身だしなみ。


人前で恥ずかしくないため。

歯医者に怒られないため。


そんな程度に思っていた。


でも違った。


歯を磨くことは、

命をつなぐ作業だった。


白い泡を出すことは、

文明がまだ動いているという

小さなサインだった。


歯ブラシを

口に入れることは、

肺を守ることでもあった。


口の中を

清潔にすることは、

自分の命を避難所の床から

少しだけ持ち上げることだった。


そして僕は、

ふと思った。


信用スコアとは、

もしかしたら、

危機の時にその人を

どこまで助けられるかを見る

順番表になってしまうのではないか。


それは怖い。

とても怖い。


人間を点数で分ける社会は、

間違えれば残酷になる。


火葬か、

土葬か、

海か、

山か。


死んだあとの選択まで、

信用で差がつくような未来は、

想像するだけで寒くなる。


でも、

だからこそ、

僕は逆に思う。


点数に支配されるのではなく、

点数にされても

恥ずかしくない一日を

生きるしかない。


人を

蹴落とすためではない。


VIP待遇を

受けるためでもない。


危機の時に、

自分も誰かも

少し助かるために。


毎日、

小さな因を置く。


歯を磨く。

体を動かす。

血圧を測る。

学ぶ。

祈る。

笑う。


家族と話す。

人を傷つけない。


発信する。


困っている人に、

小さな道しるべを渡す。


それが

偽善と言われてもいい。


最初は、人から

良く見られたいだけでもいい。


偽善でも、

誰かを傷つけるよりはずっといい。


偽善でも、

続ければ習慣になる。


習慣になれば、

そのうち本物に近づく。


岡田斗司夫さんが言うような

評価経済の時代には、


見えない善意より、

見える善行が

力を持つかもしれない。


僕はそれを、

少し怖いと思いながら、


同時に、

少し希望にも思っている。


なぜなら、

僕のような六十七歳でも、

今日から見える善行を

一つ積めるからだ。


世界の配管が揺れても、

ナフサが詰まっても、

物流が遅れても、


今日の歯間は、

今日の自分が掃除するしかない。


文明の配管は、

僕一人では直せない。


でも、

自分の口の中の配管なら、

今日少しだけ整えられる。


それが、

六十七歳の僕にできる

小さな復旧作業だった。


白い泡は、

ただの泡ではない。


文明がまだ動いているという

小さなサインだ。


歯磨きは、

ただの習慣ではない。


命を守る、

一番小さな防災訓練だ。


そして、

僕が今日も歯を磨くのは、


明日も食べるため。

明日も話すため。

明日も笑うため。


明日も誰かに、

「大丈夫か」

と声をかけるためだ。


………


❥Z世代のあなたへ


君は、

歯磨きを面倒だと

思うかもしれない。


僕もそうだった。


眠い。

だるい。

明日でいい。

一回くらい大丈夫。


そう思う夜はある。


でも、

歯磨きは、

ただのマナーではない。


口臭を消すためだけでもない。


それは、

自分の体を守る練習であり、


災害の日に命を守る準備であり、


五年後の自分に残す

信用ログでもある。


社会は、

いつも通り動いている時には

強そうに見える。


でも、

地震が来る。

洪水が来る。

物流が止まる。

水が止まる。

電気が止まる。


医療が足りなくなる。

食料が薄くなる。


その時、

本当に頼りになるのは、

毎日の小さな習慣だ。


水を大切にすること。

口を乾かさないこと。

歯を磨くこと。


人に声をかけること。

助けてと言えること。

ありがとうと言えること。


そして、

自分の一日を

雑に捨てないこと。


君の毎日は、

誰にも見られていないようで、

未来の君には見えている。


AIの時代には、

社会にも見えていくかもしれない。


だからといって、

完璧な人間になる必要はない。


ただ、

今日の自分を

一ポイントだけ良くすればいい。


歯を磨く。

歩く。

学ぶ。


誰かにやさしくする。

嘘を減らす。

怒りを少し待つ。

スマホを閉じて眠る。


それだけでいい。


命は、

大きな決意だけで

守られるのではない。


毎晩の歯磨きみたいな、

小さな防災訓練で

少しずつ守られる。


信用も同じだ。


一日で作るものではない。


小さな行動を、

何度も何度も積み上げて、

ようやく自分の中に残る。


君の口を

大事にしてほしい。


君の言葉を

大事にしてほしい。


君の笑顔を

大事にしてほしい。


そして、

君の一日を、

未来の信用ログとして

大事にしてほしい。


………


★あとがき

 ホームズとワトソンの

 やすきよ漫才風


ホームズ:

ワトソン君、今回の事件は、

前回よりさらに深い。


ワトソン:

また深いんですか。

今度の犯人は何です?

奥歯ですか?

歯間ですか?


ホームズ:

犯人は、見えない四割だ。


ワトソン:

見えない四割?

急に歯医者と経営コンサルが

混ざりましたな。


ホームズ:

歯ブラシだけでは、

すべては届かない。

人生も同じだ。


ワトソン:

たしかに。

見える努力だけで人生が整うなら、

みんな苦労しませんわ。


ホームズ:

しかも口は、

戦場ではない。

生態系だ。


ワトソン:

出ましたな。

口の中の町内会。


ホームズ:

悪い菌を全滅させようとして、

町ごと壊してはいけない。


ワトソン:

人間社会でもありますわ。

嫌いな人を全部消したら、

最後は自分しか残らん。


ホームズ:

そして今回の主役は、

信用ログでもある。


ワトソン:

歯磨きから信用スコア?

また話が飛んだなあ。


ホームズ:

飛んでいない。

毎日の小さな行動が、

未来の自分を作る。

それが信用ログだ。


ワトソン:

ラジオ体操も?

血圧測定も?

英語の勉強も?

娘さんとのゲームも?


ホームズ:

全部だ。


ワトソン:

ほな、オーバークックで

ゴミ箱とまな板を間違えたのも

信用ログですか?


ホームズ:

もちろんだ。

失敗しても、

笑ってもう一回やれば、

それも立派なログだ。


ワトソン:

ええ時代になったんか、

怖い時代になったんか、

分からんように

なってきましたわ。


ホームズ:

どちらにもなる。

だからこそ、

毎日の小さな善行が大事なのだ。


ワトソン:

偽善でもええんですか?


ホームズ:

最初は偽善でもいい。

誰かを傷つけるより、

人の目を気にして

少し善く振る舞う方がましだ。


ワトソン:

続けたら本物になる?


ホームズ:

歯磨きと同じだ。

最初は口臭が怖くて磨く。

そのうち、

自分を大事にする習慣になる。


ワトソン:

なるほどなあ。


ホームズ:

では読者諸君。

今夜はスマホを置いて、

まず歯を磨きたまえ。


ワトソン:

そして明日の朝は、

ラジオ体操ですな。


ホームズ:

血圧も測りたまえ。


ワトソン:

英語も一つ聞きましょう。


ホームズ:

AIにも一つ聞こう。


ワトソン:

そしてオーバークックで

皿洗い担当から始めましょう。


ホームズ:

それでいい。

人生の再起動は、

たいてい皿洗いから始まる。


ワトソン:

ほな皆さん、

口の中の町内会と、

未来の信用ログを大切に!

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