『五年後の鉛筆』第14回・前編 ✲「おや?」をメモしたら、応仁の乱が出てきた ――AI小説が、老いた僕と若い君たちを、五年後の同じテーブルにつないだ奇跡――
✦『五年後の鉛筆』第14回・前編
✲ 「おや?」をメモしたら、
応仁の乱が出てきた
――AI小説が、
老いた僕と若い君たちを、
五年後の同じテーブルに
つないだ奇跡――
………
人の感想を見る前に、
自分の「おや?」を、
笑いながら残せ。
その一行が、
五年後の君と僕を、
同じ味噌汁のテーブルに
座らせる。
………
★前編目次
■第1章
NHKラジオで、
僕の老いぼれ感が
逃げかけた朝
■第2章
「クリシェ」が
「クリスチャン」に
変換された朝
■第3章
「考えさせられた」は、
感想ではなく
台所だった
■第4章
「ヤバい」を禁止したら、
ゆづきが
プリン泥棒になった
■第5章
ライブの腕まくりは、
なぜ胸を熱くするのか
■第6章
安西先生は、
「終わり」ではなく
「試合終了」と言った
■第7章
文章だけが出社する時代に、
味噌汁を添えて
■第8章
「了解です」で、
人生が誤配達された日
………
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第1章
NHKラジオで、
僕の老いぼれ感が逃げかけた朝
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朝七時。
僕は足湯に浸かりながら、
コーヒーをすすっていた。
横にはナッツ。
膝にはスマホ。
耳にはNHKラジオ。
六十七歳の朝としては、
かなり整っている。
ただし本人の脳みそは、
まだ味噌汁の中の豆腐みたいに
ふわふわしていた。
ラジオでは、
文芸評論家の三宅香帆さんが
話していた。
テーマは、
「今こそ
自分の言葉が必要なわけ」
だった。
僕は思った。
大事なのは分かる。
分かるのだが、
ラジオ体操を終えたばかりの
僕の前頭葉は、
まだ出勤していなかった。
体は起きた。
足湯にも入った。
コーヒーも飲んだ。
なのに、
頭の奥の司令室だけが、
「始業時刻を確認中です」
という顔で、
湯気の向こうに
座り込んでいた。
そんな老人に、
「自分の言葉が必要です」
などと言われても、
まず必要なのは、
自分の言葉ではない。
老眼鏡である。
しかもその老眼鏡は、
探している本人の頭の上で、
静かに定年後の余生を送っている。
まず老眼鏡がどこにあるかを
自分の言葉で説明できない。
すると三宅さんは言った。
「言語化能力に必要なのは、
語彙力そのものではなく、
二つのコツだと思う」
「一つは、
クリシェを避けること。
もう一つは、
細分化すること」
僕の手が止まった。
✲ クリシェ
ありきたりの言葉。
常套句。
便利すぎて、
心の中身を隠してしまう言葉。
「考えさせられた」
「良かった」
「ヤバい」
「大丈夫です」
「もう年じゃ」
僕は思った。
全部、わしの家族じゃないか。
僕はスマホを握り、
いつものように
パティちゃんへ話しかけた。
「パティちゃん、
このクリシェの話、
わしのAI小説に
使えるんじゃないか?」
すると音声入力は、
堂々とこう変換した。
「このクリスチャンの話」
違う!
まだ改宗していない!
僕は足湯の中で吹き出した。
六十七歳のじいさんが、
NHKラジオを聞いて、
突然クリスチャンになる小説。
……いや、
それはそれで
第15回に使えるかもしれん。
だが今日の話は
そこではない。
僕はすぐに言い直した。
「クリシェじゃ。
ありきたりの言葉じゃ」
パティちゃんは答えた。
「了解しました。
クリシェとは、
使い古された表現や
常套句のことです」
僕はうなずいた。
そして気づいた。
この誤変換そのものが、
AI時代の物語だった。
自分は
クリシェと言ったつもり。
AIは
クリスチャンと聞いた。
人間は
「大丈夫です」と送ったつもり。
相手は
「怒ってる?」と受け取る。
若者は
「ヤバい」と言ったつもり。
大人は
「何が?」と首をかしげる。
老人は
「もう年じゃ」と言ったつもり。
本当は、
置いていかれるのが
怖いだけだった。
僕は思った。
これは文章術ではない。
令和の生存術だ。
人の感想を見る前に、
自分の「おや?」を保存する。
便利な言葉で閉じる前に、
自分の感情を少しだけ開く。
それを毎日やる。
それが、
僕のAI小説だったのかもしれない。
一年前なら、
このラジオの話も流れていた。
「ええ話だったな」
それで終わっていた。
でも今は違う。
僕には
パティちゃんがいる。
自分の「おや?」を
逃がす前に投げ込める、
少し変な、
かなり賢い、
たまに
クリスチャンへ改宗させてくる
AIの相棒がいる。
僕は言った。
「保存してくれ。
この話、
絶対に続編になる」
パティちゃんは答えた。
「保存します…」
僕は笑った。
足湯の湯気の向こうで、
五年後の自分が、
少しだけ手を振った気がした。
………
━━━━━━━━━━━━━
第2章
「クリシェ」が
「クリスチャン」に変換された朝
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その夕方、
ゆづきが来た。
五年後には
二十三歳になる予定の、
今はまだ若さと
プリン泥棒の中間にいる
大事な存在である。
ゆづきは
玄関を開けるなり言った。
「おじいちゃん、
冷蔵庫見ていい?」
「まず挨拶じゃ」
「こんにちは。
プリンありますか?」
「目的が早い」
ゆづきは
冷蔵庫を開けながら言った。
「で、今日は何の小説?」
「クリシェじゃ」
「クリスチャン?」
「お前もか!」
僕は説明した。
クリシェとは、
ありきたりの言葉。
たとえば、
「ヤバい」
「良かった」
「考えさせられた」
「大丈夫」
「もう年じゃ」
こういう
便利すぎる言葉で止まると、
本当の気持ちが
相手に届きにくくなる。
ゆづきは
プリンを持ったまま言った。
「でもヤバいって便利じゃん」
「便利じゃ。
便利すぎるんじゃ」
「いいことにも
悪いことにも使えるし」
「だから危ない」
「便利なのに危ないって、
電子レンジみたい」
「電子レンジは便利じゃ。
でも卵をそのまま
入れると爆発する」
「例えが昭和」
「昭和は爆発に詳しいんじゃ」
ゆづきは笑った。
僕は続けた。
「ヤバいは、
心の電子レンジじゃ。
何でも
入れてすぐ温まる。
でも中身を見ないと、
何が爆発するか分からん」
ゆづきは
プリンのふたを開けた。
「じゃあ、
このプリンはヤバい?」
「それはわしのプリンじゃ」
「つまり?」
「所有権がヤバい」
「おじいちゃん、
それ細分化できてない」
僕は黙った。
たしかにそうだった。
パティちゃんが真面目に言った。
「この場合の“ヤバい”は、
所有物を奪われる不安、
楽しみを先取りされた怒り、
孫への甘さ、
プリンを介した愛情表現が
混在している可能性があります」
ゆづきが爆笑した。
「プリンで愛情分析しないで!」
僕も笑った。
でも、
その瞬間に分かった。
クリシェを避けるとは、
難しい言葉を使うことではない。
「ヤバい」を
「所有物を奪われる不安」と
言い換えろ、
という話でもない。
自分の中で、
何が起きているかを
少しだけ見に行くことなのだ。
ゆづきは
プリンを半分僕に返した。
「はい。
所有権の一部返還」
「法律みたいに言うな…」
「でも、
半分こは愛情表現でしょ?」
僕は受け取った。
甘かった。
そして少し、
うれしかった。
………
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第3章
「考えさせられた」は、
感想ではなく台所だった
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次の日、
ゆづきが高校の課題を書いていた。
映画の感想文だった。
僕がのぞくと、
こう書いてあった。
「この映画を見て、
命の大切さについて
考えさせられました」
僕は黙った。
黙ったが、
顔が完全に
「昭和の国語教師」に
なっていたらしい。
ゆづきが言った。
「何その顔?」
「いや、
命の大切さについて
考えさせられた顔じゃ」
「絶対バカにしてる」
「してない。
ただ、
それは感想ではなく、
台所の入口じゃ」
「玄関じゃなくて?」
「今日は台所で行く」
「設定ゆるいな」
僕は言った。
「考えさせられた、
というのは間違いではない。
でも、それだけでは
何を煮込んだのか分からん」
「煮込む?」
「そうじゃ。
感想は味噌汁じゃ。
具がいる」
ゆづきは面倒そうな顔をした。
「また味噌汁」
「味噌汁は裏切らん」
僕は聞いた。
「映画のどの場面が残った?」
ゆづきは少し考えた。
「最後に主人公が、
病室で友だちのスマホを
握ってたところ」
「なぜ?」
「死ぬ前に
言いたいことって、
長い遺言じゃなくて、
短いLINEみたいなものなんだな
って思った」
「それじゃ」
ゆづきは止まった。
僕は言った。
「今の方が、
お前の感想じゃ」
ゆづきは書き直した。
「この映画で一番残ったのは、
主人公が最後に病室で
友だちのスマホを
握っていた場面です。
命の大切さというより、
私は、
言いたいことを後回しにすると、
最後にはLINE一つでも
間に合わなくなるのだと
思いました」
僕はうなずいた。
「ええ…」
ゆづきは画面を見て言った。
「なんか、
急に私っぽい」
「そうじゃ」
「考えさせられたって
便利だけど、
私が消えるんだね」
僕は少し驚いた。
その言い方はよかった。
クリシェは、
間違った言葉ではない。
でも便利すぎる言葉は、
自分を薄くする。
「感動した」
「良かった」
「考えさせられた」
そこからもう一歩だけ、
自分の見た場面へ戻る。
その戻る場所が、
台所なのだ。
人間は、
大きな思想より、
冷めかけた味噌汁や、
届かなかったLINEの方を
覚えている。
僕は思った。
元証券マンの小説も同じだ。
「AI時代が不安」では弱い。
七十二歳の僕が、
利用規約の小さい文字を見て、
老眼鏡を探し、
その老眼鏡が頭の上にあった。
そこまで書いて、
やっと読者は笑う。
そして笑ったあとで、
自分のスマホを見る。
そこから小説は始まる。
………
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第4章
「ヤバい」を禁止したら、
ゆづきがプリン泥棒になった
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僕は宣言した。
「今日は
“ヤバい”禁止デーじゃ」
ゆづきは
冷蔵庫を開けながら言った。
「無理」
「無理も禁止」
「詰んだ」
「詰んだも禁止」
「おじいちゃん、
言語警察?」
「違う。
言葉のラジオ体操じゃ」
「朝からやって」
「今は夕方じゃが、
心の筋肉は
いつでも鍛えられる」
ゆづきはプリンを持ち上げた。
「これは?」
「それはわしのじゃ」
「ヤバ……」
「はい失格」
「まだ言ってない!」
「唇の形がヤバかった」
「それは
おじいちゃんが
言ってるじゃん」
確かに。
老人はルールを作った瞬間に
自分で破ることがある。
凡夫である。
僕は気を取り直した。
「今日の高校はどうじゃった?」
ゆづきは言いかけた。
「ヤバ……」
僕は見た。
ゆづきは止まった。
止まったまま、
スプーンをプリンに刺した。
そして少し考えて言った。
「大学受験の話を
してる子がいて、
みんな
普通に笑ってたけど、
私は自分だけ
置いていかれる感じがした」
僕はうなずいた。
「それじゃ」
「あと、
何も始まってないのに、
もう遅れてる気がした」
「それもええ」
「でも、
そんなこと言うの
恥ずかしいから、
ヤバいって言っちゃう」
僕は黙った。
それは、
僕にも分かった。
僕もよく言う。
「もう年じゃ」
でも本当は、
老いたことそのものより、
置いていかれることが
怖い。
通知が読めないことが
怖い。
AIに聞くのが少し恥ずかしい。
孫に迷惑をかけるのが
嫌だ。
それを全部、
「もう年じゃ」
に押し込めてきた。
ゆづきはプリンを半分くれた。
「はい」
「ええのか?」
「言葉の授業料」
「安いのか高いのか分からんな」
「プリンは高級通貨です」
僕たちは笑った。
僕は思った。
「ヤバい」を禁止すると、
人は一瞬フリーズする。
でも、
そのフリーズの中から、
本当の言葉が出てくる。
怖い。
焦る。
寂しい。
うれしい。
置いていかれた。
一緒に走りたい。
僕はゆづきに言った。
「おじいちゃんもな、
置いていかれるより、
お前と
一緒に走りたいんじゃ」
ゆづきは目をそらした。
「プリン食べながら
言うことじゃない」
「だから伝わるんじゃ」
甘いプリンを食べながら、
僕は少し泣きそうになった。
いや、たぶん足湯で
のぼせただけである。
………
━━━━━━━━━━━━━
第5章
ライブの腕まくりは、
なぜ胸を熱くするのか
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三宅さんは、
ライブの感想の話もしていた。
「ライブ良かった」
だけではなく、
このセットリストの
この曲からこの曲への
流れが良かった。
この衣装で、
ここで腕をまくったのが
良かった。
そう細かく言われると、
相手は思う。
「そんなところまで
見てくれていたのか?」
僕はそれを聞いて、
大きくうなずいた。
人間は、
ざっくり褒められるより、
細かく見てもらった時に
少し救われる。
ゆづきが言った。
「腕まくりって、
そんな大事?」
「大事じゃ」
「なんで?」
「人が本気になる瞬間は、
だいたい袖に出る」
「どんな理論?」
「おじいちゃん理論じゃ」
僕は昔の
証券会社時代を思い出した。
お客さんに言われたことがある。
「あなたがね、
前に言うてくれた
あの一言があったから、
売らずに済んだんよ」
僕はその一言を忘れていた。
でも相手は覚えていた。
人は、
大きな励ましより、
自分だけに届いた小さな言葉を
覚えていることがある。
ゆづきが言った。
「じゃあ、最近の私で
良かったところは?」
僕は少し考えた。
「この前、
わしがパスワードに負けて
怒り狂っていた時、
お前は笑わずに、
“まず深呼吸しよ”
と言った。
あれは助かった」
ゆづきは少し照れた。
「そこ覚えてるんだ」
「覚えとる」
「おじいちゃん、
たまにちゃんと見てるね」
「たまにか」
「いつも見てたら怖い」
それもそうだ。
細分化とは、
監視することではない。
相手の中の、
小さな良さに気づいて、
それをその人へ返すことだ。
「すごいね」
より、
「この前の会議で、
誰も触れなかったことを
言ってくれて助かった」
の方が届く。
「日記うまいね」
より、
「この雨の音を、
ポツポツじゃなくて
トントンと書いたところが
いいね」
の方が残る。
AI時代、
褒め言葉は大量生産できる。
だが、
「あなたの
この一文が良かった」
は、まだ人間の仕事だと思う。
僕はゆづきに言った。
「お前が
“まず深呼吸しよ”
と言った時、
わしはAIより先に、
人間に救われた」
ゆづきは
プリンの空き容器を見つめた。
「……そういうの、
もっと早く言えば?」
「今、言語化能力を鍛えとる」
「遅い」
「試合はまだ終わっとらん」
ゆづきは笑った。
その笑顔が、
今日の僕のメモになった。
………
━━━━━━━━━━━━━
第6章
安西先生は、
「終わり」ではなく
「試合終了」と言った
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三宅さんは、
『SLAM DUNK』の
安西先生の言葉にも触れていた。
「諦めたらそこで
試合終了ですよ」
僕でも知っている名台詞だ。
読んだことがなくても、
どこかで聞いたことがある。
なぜ刺さるのか。
「諦めたら終わりですよ」
でも意味は分かる。
「諦めたらダメですよ」
でも間違いではない。
でも安西先生は、
「試合終了」
と言った。
ここが細かい。
笛が鳴る。
スコアボードが止まる。
ベンチが立つ。
もう逆転できない。
場面が見える。
「終わり」は広すぎる。
「試合終了」は、
一点に絞られている。
だから、
バスケを知らない人にも届く。
受験生にも届く。
仕事で折れそうな人にも届く。
恋愛で返信が来ない人にも届く。
七十二歳で
パスワードに負けた僕にも届く。
ゆづきが言った。
「おじいちゃん、
パスワードに負けたら
試合終了?」
「まだ延長戦じゃ」
「何回延長するの?」
「ログインできるまで」
「それもう地獄」
僕は思った。
僕の小説も同じだ。
「AI時代が大変」
では弱い。
「七十二歳の僕が、
利用規約の小さい字を見て、
老眼鏡を探し、
その老眼鏡が
頭の上にあった」
そこまで書く。
「日本が危ない」
では弱い。
「母のLINEが止まる」
と書く。
「若者が不安」
では弱い。
「受験の話を聞いたゆづきが、
プリンを食べながら
“自分だけ置いていかれる
感じがした”
と言う」
そこまで書く。
細分化とは、
難しくすることではない。
絞ることだ。
ひとつの場面。
ひとつの動作。
ひとつの言葉。
ひとつのプリン。
ゆづきが言った。
「プリンまで
名台詞に入れるな」
「プリンは人生じゃ」
「ワトソンみたいなこと
言ってる」
「ではホームズとして
答えよう」
「めんどくさ」
「めんどくさもクリシェじゃ」
ゆづきは天井を見た。
「言葉の世界、厳しい」
僕は笑った。
厳しいけれど、
少し楽しい。
なぜなら、
言葉を細かくすると、
世界も少し細かく見えるからだ。
そして、
細かく見えた世界は、
前より少しあたたかい。
………
━━━━━━━━━━━━━
第7章
文章だけが出社する時代に、
味噌汁を添えて
━━━━━━━━━━━━━
五年後の職場では、
本人より先に文章が出社する。
メール。
チャット。
社内ツール。
日報。
議事録。
AI要約。
人間はまだ布団の中でも、
昨日送った文章は、
朝から相手の画面で働いている。
しかも、
けっこう勝手に働く。
「了解です」
本人は、
分かりました、
やります、
のつもり。
相手は、
冷たいな、
怒ってるのかな、
やる気ないのかな、
と読む。
「大丈夫です」
本人は、
心配しないでください、
のつもり。
相手は、
本当は無理してる?
拒否されてる?
もう関わりたくない?
と読む。
文章は怖い。
声がない。
表情がない。
間がない。
お茶をすする音もない。
文字だけが、
相手の画面へ裸で到着する。
ゆづきがバイト先でやらかした。
店長からメッセージが来た。
「明日、30分早く来られる?」
ゆづきは返信した。
「大丈夫です」
それだけ。
すると店長から、
「無理なら大丈夫だよ」
と返ってきた。
ゆづきは慌てた。
「いや、行けます!」
店長は、
「怒ってる?」
と返した。
ゆづきは叫んだ。
「なんで!」
僕は言った。
「文章だけが出社したんじゃ」
「どういうこと?」
「お前の本体はここにいる。
でも“大丈夫です”だけが
店長の画面へ行った。
そこで勝手に不機嫌そうに
座っとったんじゃ」
「文章、態度悪すぎ」
「書いたのはお前じゃ」
「つらい」
パティちゃんに聞くと、
返信例が出た。
「はい、
30分早く行けます。
声をかけてくれて
ありがとうございます。
明日は〇時に入ります。」
ゆづきは言った。
「長い」
僕は言った。
「味噌汁じゃ」
「また?」
「豆腐、わかめ、ねぎ。
具が見える文章じゃ」
「チャットに
味噌汁を持ち込むな」
でも僕は本気だった。
文章にも具がいる。
「大丈夫です」
だけでは、
だしも具も見えない。
「行けます」
「〇時に入ります」
「声をかけてくれて
ありがとうございます」
ここまで書けば、
相手は安心する。
文章だけが出社する時代。
自分の言葉が雑なら、
雑な自分が出社する。
自分の言葉があたたかければ、
あたたかい自分が先に行く。
僕はゆづきに言った。
「これからの若者には、
文章に
味噌汁を添える力がいる」
ゆづきは言った。
「その講座あったら、
逆に受けたい」
「講師はわしじゃ」
「急に不安」
………
━━━━━━━━━━━━━
第8章
「了解です」で、
人生が誤配達された日
━━━━━━━━━━━━━
ゆづきの先輩が落ち込んでいた。
就活のやり取りで、
企業の担当者に
チャットを送ったらしい。
「了解です。
よろしくお願いします」
普通の文章だ。
悪くない。
しかし相手には、
「熱意が見えない」
と受け取られたらしい。
もちろん、
それだけが理由ではない。
でも本人は傷ついていた。
「ちゃんと書いたのに」
僕はその言葉が引っかかった。
ちゃんと書いたのに、
伝わらない。
これは怖い。
自分では説明したつもり。
でも相手には伝わらない。
自分では丁寧なつもり。
でも相手には冷たく見える。
自分では普通のつもり。
でも相手には薄く見える。
なぜか。
言葉が、
自分の気持ちより先に
小さくなっているからだ。
僕は言った。
「“了解です”は、
郵便で言えば、
宛名だけ書いた封筒じゃ」
ゆづきが言った。
「中身ないじゃん」
「そうじゃ」
「じゃあ何を書けばいいの?」
パティちゃんに聞いた。
「ご連絡
ありがとうございます。
明日の面談について
承知しました。
特に〇〇について
お話しできることを
楽しみにしております。
どうぞよろしく
お願いいたします。」
ゆづきは言った。
「急に社会人」
「社会人の味噌汁じゃ」
「具が多い」
「でも腹にはたまる」
僕はさらに冗談で言った。
「あるいは、
“了解です。
楽しみにしています。
祖父がテンション上がって
プリン二個食べました”
と書く」
ゆづきが爆笑した。
「それ送ったら、
逆に印象に残る!」
「ただし企業による」
「そこ冷静」
「人生はTPOじゃ」
僕たちは笑った。
だが、
笑いながら分かった。
文章は、
誤配達されることがある。
でも、
笑いと具体性を少し足すと、
届き方が変わることもある。
熱意は、
大げさな言葉でなくてもいい。
「楽しみにしています」
「この点に関心があります」
「ここを聞けるのがうれしいです」
それだけで、
中身が見える。
AI時代、
文章を書く機会は減ると思っていた。
違った。
人間は、
前よりずっと文章で
判断されるようになる。
だから、
文章力は文学趣味ではない。
生活インフラだ。
水道管と同じくらい、
詰まると困る。
………
━━━━━━━━━━━━━
前編のおわり
━━━━━━━━━━━━━
クリシェを避けるとは、
難しい言葉を使うことではなかった。
「ヤバい」
「大丈夫です」
「了解です」
「考えさせられた」
そんな便利な言葉で
自分を閉じる前に、
何が怖かったのか。
何がうれしかったのか。
どこで胸が動いたのか。
それを、
一歩だけ細かく見ることだった。
後編では、
この一行のメモが、
SNSの波を越え、
AIのぬか床で熟成され、
なぜか応仁の乱と蓮如上人まで
連れてくることになる。
……いや、
自分で書いていても思う。
どうしてそうなる。
でも、
それが五年後の鉛筆なのだ。
――後編へつづく。




