第5話「詠唱が通るなら、もう一度だけ魔法使いをやる」
クロエは緊張していた。
それは朝のギルドから分かっていた。依頼票を見るときの目の動き、荷物を持ち直す手の頻度、俺が話しかけるとわずかに遅れてから返事をする。全部が、精神的な余裕がないときの動作だ。
依頼を決める前に、俺はクロエに聞いた。
「今日の体調はどうですか」
「……問題ありません」
「眠れましたか」
「四時間くらい」
「それは少ない方ですか、多い方ですか」
クロエが少し止まった。
「最近は、それが普通です。一ヶ月くらい」
「詠唱の失敗が続いてから、ということですか」
「……そうです」
「分かりました」
「分かりました、って、それだけですか」
「体調の把握が必要だったので聞きました。今日の依頼の選び方を変えます」
「大丈夫です。私は弱音を吐きたかったわけじゃなくて——」
「弱音と事実の報告は違います。今のは事実の報告です」
クロエが少し黙った。それから眼鏡を磨き始めた。布を取り出して、丁寧に拭いていた。
「それ、緊張するとやりますか」とリナが横から言った。
「……そうかもしれません」
「毎回やっていますよ、さっきから」
クロエが手を止めた。眼鏡を見た。確かに三回磨いていた。
「癖です」
「悪い癖じゃないですよ。私は緊張すると、剣を何度も抜き差しします。さっきから四回やっています」
クロエがリナを見た。リナが「お互いに」と言って、掲示板を向いた。
俺は依頼票を確認した。今日はBランク相当ではなく、Cランク相当の依頼にする。クロエが初めて三人で動く日だ。無理に上を狙う必要はない。
「これにします」
魔蜥蜴の群れの討伐依頼だ。王都近郊の採石場に出没していて、作業員が困っているらしい。体力はあるが速度は遅い。クロエが魔法を使うのに適した間合いがある。
「問題ありませんか」とクロエに聞いた。
「……理論的には、この依頼は私の得意な魔法と相性がいい種族です」
「そうですか。どんな魔法を使いますか」
「氷結系の全体魔法です。対象が密集していれば一度で複数を止められます。ただ詠唱が長い」
「どのくらいかかりますか」
「十二秒です」
「十二秒間、守ります。合図を決めましょう。詠唱を始めるときに手を上げてください。俺はリナさんと位置を取ります」
クロエがまた眼鏡を磨き始めた。今日で四回目だった。
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採石場は王都から三十分の場所にあった。
入口で作業員の責任者に話を聞いた。魔蜥蜴は昨日から採石場の奥に固まっているらしい。数は推定で二十体前後。朝になると動き出して、作業員に向かってくる。
俺は採石場の地図を確認した。
「岩が多いので、魔蜥蜴の動ける経路が限られます。奥の石切り場の手前に一本道がある。そこに集まった状態で、クロエさんが魔法を使えれば効率がいい」
「誘導できますか」
「俺がやります」
「セルさんが、ですか」
リナが少し心配そうな顔をした。
「引きつけるだけです。戦いません。一本道に集まったら、クロエさんに合図を送ります。詠唱している間、リナさんは俺の前に立っていてください」
「分かった」
「クロエさん、十二秒間、詠唱が通ると思って始めてください」
クロエが頷いた。眼鏡を押し上げた。
「もし——失敗したら」
「そのときはそのときで。リナさんが剣で対応します。ただ、俺は失敗しないと思っています」
「根拠は」
「昨日、あなたは入口で全部通していた。緊張している状態で、それができた。今日はそれよりいい状態だと思います」
「昨日より悪い気がしますが」
「昨日は三日間入れなかった緊張がありました。今日は昨日やれたという事実がある。違いはそこだと思います」
クロエが俺を見た。眼鏡の奥の目が、少しだけ落ち着いた。完全ではない。まだ揺れている。でも、昨日より少しだけ地に足がついていた。
「……理論的には、あなたの言っていることは正しいと思います」
「では行きましょう」
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採石場の奥は薄暗かった。
石切り場の手前に出ると、魔蜥蜴が十八体固まっていた。事前の情報より少し少ない。地面が乾いていて、光を反射する鱗が見えた。
俺は一本道の入口に回り込んだ。
魔蜥蜴の一体が俺の気配に気づいて、こちらを向いた。低い唸り声を上げた。俺は荷物袋を少し揺らした。匂いが出る。魔蜥蜴が反応した。一体が動くと、他の個体も連鎖して動く習性がある。
二分で、十八体が一本道の方向に集まった。
クロエを見た。
クロエはリナの後ろに立っていた。眼鏡を外して、右手に持っていた。左手が空中に向いていた。詠唱の構えだ。
目が合った。
クロエが頷いた。
手を上げた。
詠唱が始まった。
言葉が流れ出た。古語の詠唱で、俺には意味が分からない。ただ、音の質が変わった。普通の声とは違う、魔力を帯びた響きがある。
一秒。
魔蜥蜴が一本道の半分まで来た。リナが剣の柄に手をかけた。
四秒。
詠唱が続いていた。途切れなかった。クロエの声が安定していた。
七秒。
魔蜥蜴があと十歩の距離まで来た。リナが一歩前に出た。
十秒。
「リナさん、下がってください」と俺は言った。
リナが後退した。
十二秒。
「——零点結氷」
一本道が、白くなった。
冷気が弾けた。一本道の入口から奥まで、床と壁が瞬時に凍りついた。魔蜥蜴の十八体が、その場で動きを止めた。完全凍結だ。息もしていない。
静かになった。
俺は一本道の温度を確認した。冷気がゆっくりと薄れていく。凍結は三分ほど持続するらしかった。それだけあれば十分だ。
振り返った。
クロエが、右手で眼鏡を持ったまま、動かなかった。
眼鏡を持つ手が、少し震えていた。
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「通った」
クロエが小さく言った。
誰かに言ったのか、独り言なのか、分からなかった。
「通りました」と俺は言った。
クロエが俺を見た。眼鏡の奥の目が、赤くなっていた。
「通った……」
「はい」
「失敗しなかった」
「しませんでした」
「一ヶ月ぶりです」
クロエが眼鏡を掛け直した。それから、また外した。掛け直した。何をしているのか分からなかったが、たぶん手の震えを収める方法を探していた。
リナが隣に来た。
「すごかったですよ」と言った。
素直な言葉だった。ぶっきらぼうさがなかった。リナが素直にすごいと言う場面を、俺は初めて見た。
「……本当に?」
「本当に。一本道が全部白くなった。十二秒間、全然迷わなかった」
「迷っていました。途中で六秒くらいのときに——声が詰まりそうになりました」
「詰まらなかったじゃないですか」
「……詰まらなかったです」
クロエが少し目を閉じた。それから開いた。眼鏡を磨き始めた。今日で五回目だった。ただ今回は、緊張しているのではなく、何かを整理している感じの手の動きだった。
しばらく誰も何も言わなかった。
採石場の岩の冷気が、まだ漂っていた。凍った一本道から、白い霧が少し流れてきた。クロエはその霧を見ていた。自分が作った光景を、確認するように。
「一ヶ月、毎日練習していました」
クロエが言った。
「失敗するようになってから、一人で人気のない場所に行って、詠唱の練習をしていました。でも、一度も通らなかった。声が出なかった。今日、通りました」
「練習していたことは意味がありましたよ」とリナが言った。「さっきの詠唱、途中で一回だけ少し速くなったけど、ちゃんと戻した。練習がなかったら戻せなかったと思う」
クロエがリナを見た。
「……気づいていたんですか」
「前衛なので、後ろの気配には敏感で」
「何秒目ですか」
「六秒くらい」
クロエが頷いた。「そこです。声が詰まりかけた」
「でも戻した」
「戻せた」
リナが俺を見た。
目線で「どういうことですか」と言っていた気がした。
俺は「俺にも分かりません」という目を返した。
リナが「もう」という顔をして、前を向いた。
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後始末を終えて、採石場を出た。
帰り道は三人で並んで歩いた。最初は無言だったが、途中からクロエが話し始めた。
「一ヶ月前、何が起きたか、話していいですか」
「どうぞ」
「前のパーティで、ダンジョン攻略の依頼を受けていました。中層で強敵が出て、私が援護魔法を詠唱しようとしたとき——リーダーに怒鳴られたんです。『詠唱が遅い、邪魔だ』と」
「それで詰まりましたか」
「詰まりませんでした。その場では通しました。でも、その後から失敗するようになりました。次の依頼のとき、詠唱を始めると同じ声が頭に聞こえてきて——『遅い』『邪魔だ』という声が——それで声が出なくなりました」
リナが「……そういうことか」と言った。俺を見た。俺は頷いた。
「詠唱は声が出なければ通りません。精神状態が崩れると、声そのものが出なくなる」
「はい。理論としては分かっていました。でも、自分がそうなるとは思っていなかった。私はずっと、感情に揺さぶられない魔法使いでいるつもりでした」
「プロとして、精神状態に関係なく詠唱できると思っていた、と昨日言っていましたね」
「それが間違いでした」
「間違いとは言い切れないと思います」
クロエが俺を見た。
「なぜですか」
「一ヶ月の間、失敗し続けながらも今日ここに来て、今日詠唱を通した。それは精神状態が関係しているとしても、あなたの技術が消えたわけではないということの証明だと思います」
クロエが少し間を置いた。
「……慰めてますか」
「事実の整理をしています。感情的には何も言っていません」
「そうですね」クロエが少し笑った。「あなたは慰め方を知らなさそうです」
「そうですか。心当たりはあります」
「でも、今日言ってくれたことは——慰めより効いた気がします。なぜか分からないですが」
「なぜだと思いますか」
「正確だからだと思います。嘘がない。でも冷たくもない。そういう言い方を、今まであまりされたことがなかった」
リナが「それ、分かります」と言った。俺を見ずに前を向いたまま言った。
「私も最初、この人に変なことを言われると思っていたけど、嘘がないんです。だから信用できる気がした」
「……そうですね」
「あなたのそばにいると、なんか、ちゃんと動ける気がするんです。ここ三日間で、前のパーティにいた一年間より、はっきり動けた気がする」
「私も」とクロエが言った。「今日一日で、一ヶ月取り戻した気がしました」
俺は二人の言葉を聞いた。
何か言うべきかと考えたが、適切な言葉が見つからなかった。俺は荷物の管理をしているだけだ。それ以上のことは何もしていない。
「そうですか」とだけ言った。
リナが「それだけですか」と言った。
「それだけです」
「もう少し何か言いなさいよ」
「……お二人の方が、俺より正確に分かっていると思うので」
「何を?」
「今日、何が起きたかを」
クロエがまた少し笑った。今度は声が出た。リナが「まあ、そうですね」と言って前を向いた。
三人で並んで歩いた。王都の夕方の道は人が多い。俺は手帳を開いて、今日の記録を書き始めた。三人分の動きのメモ、クロエの詠唱時間の計測値、次の依頼の候補。
三人分の計算は、二人分より少し複雑だった。でも悪くなかった。
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ギルドの前に戻ったとき、男が立っていた。
長身で筋肉質、白金の短髪。整った服装、余裕のある立ち姿。冒険者の気配がある。Sランクのそれだ。
俺はその顔を知っていた。
「……ガード」
リナが低い声で言った。
ガード・クロス。銀の牙のリーダー。俺を解雇した男だ。
ガードが俺たちを見た。俺を、リナを、クロエを、順番に見た。それから俺に視線を戻した。
「いたか」
「いました」
「話がある」
「今日の報告を出してからでいいですか」
ガードが少し止まった。感情が顔に出ない人間だが、今日は少し違った。何かが、いつもと違う。怒っているのか、困惑しているのか。判断できなかった。
「……聞いたぞ。お前が魔熊を退けたと」
「退けたわけではないですが、魔熊が退いたのは見ました」
「何をした」
「荷物の紐を掴みました」
ガードが俺を見た。
「スキルを鑑定したか」
「昨日しました」
「何だった」
「後方全域支援、神域です」
ガードが、一瞬だけ目を閉じた。ほんの一秒のことだった。それから目を開けた。顔が、いつもの平静に戻っていた。ただ、いつもより少し固い平静だった。
「俺たちが三件連続で依頼を失敗している、知っているか」
「聞いています」
「お前がいなくなってから、全部失敗している」
「そうですか」
「それについて、何か言うことはあるか」
俺は少し考えた。
「俺はここを出るつもりはありません」
ガードが俺を見た。
「俺が頼んでいるわけじゃない。確認しているだけだ」
「そうですか。では確認に答えます。俺はここにいます。戻るつもりはありません」
「なぜだ」
「断る理由がないのはこちらで、戻る理由がないのはそちらです。俺がいなくなったのはそちらの判断でした」
ガードが少し固まった。
「……お前は怒っていないのか」
「怒っていません。ただ、事実はそうだということです」
ガードがしばらく俺を見ていた。それから、リナを見た。リナがガードをまっすぐ見返していた。目に何かが入っていた。怒りとも悲しみとも違う、整理しきれていない感情だ。
ガードがリナから目を逸らした。
「……また来る」
それだけ言って、ガードは歩いていった。
三人で、その背中を見ていた。
「あれが、銀の牙のリーダーですか」とクロエが言った。
「そうです」
「……また来る、と言いましたね」
「そう言いました」
「何をしに来ると思いますか」
「分かりません」
クロエが少し考えた。
「また来たとき、どうしますか」
「断る理由がなければ話を聞きます」
リナが「……セルさんって、本当に」と言いかけて、止まった。
「本当に、何ですか」
「変わらないですね。何があっても」
「変わる必要がある場面があれば変わります。今はないので」
リナが俺を見た。少し長く見ていた。それから「そうですね」と言って、ギルドの入口を向いた。
「報告を出しましょう。今日はよく動けました」
「そうですね」
クロエが「私も」と言った。「よく動けました。今日は」
三人でギルドに入った。
俺は手帳を開きながら、ガードが去っていった方向を一度だけ見た。
また来る。
何のために来るのかは、今の俺には分からなかった。ただ、ガードがここへ来る理由が一つあるとしたら——それは銀の牙の三連敗と関係がある。
銀の牙の連敗が、偶然であり続けることは、そろそろないかもしれない。
そのことを、ガードも感じ始めているのかもしれなかった。
俺は手帳に一行書き加えた。
「ガード・クロスが来た。また来ると言った」
何のために来るのか、今は分からない。ただ、ガードは嘘をつかない人間だ。また来ると言ったなら、来る。
そのとき、何を言うのか。
俺には見当がつかなかった。ただ、今夜の「また来る」という言葉の言い方が、ずっと少し引っかかっていた。
命令でも、挑発でもなかった。
どちらかといえば——確認しに来る、という言い方だった。
何を確認しに来るのか。
手帳を閉じた。今日の報告を受付に出す必要がある。考えるのは後でいい。




