第3話「Sランクモンスターが、俺の荷物を避けた」
リナが選んだのは、魔狼の群れ討伐だった。
依頼票を見たとき、俺は少し止まった。
魔狼はCランク相当の魔物だ。群れを成す習性があり、単体では大したことないが、十体以上になると連携して攻撃してくる。今回の依頼は「目撃数:推定十五体以上」とある。Fランクの依頼枠に入っているのは、発生場所が王都から近い農村だからだ。放置すれば農村の被害が大きくなる。ギルドとしては早急に対処したい。だが戦力が集まらない。だから条件を下げてFランクでも受けられるようにした。
つまり実質Bランク以上の依頼だ。
「これにしました」
リナが涼しい顔で言った。
「確認していいですか」と俺は聞いた。
「どうぞ」
「俺たち二人でFランクですが、意図は理解しています。ただ、魔狼十五体以上は補給だけでは対応しきれない場面が出るかもしれません。リナさんの剣の最大射程と、連続攻撃の持続時間を教えてもらえますか」
リナが少し目を丸くした。
「最大射程?」
「剣が最も速く動ける距離のことです。人によって違います。そこを把握していると、俺が動く位置を最適化できます」
「……三歩から五歩の間が一番速い」
「連続攻撃は何回まで精度が落ちませんか」
「十五回くらいまでなら問題ない。それ以上は少し落ちる」
「分かりました。十五体なら十二体をリナさんが担当して、残り三体は俺が誘導して逃がします。問題ないと思います」
「俺が誘導って、どうやって」
「やってみれば分かります」
リナが「……昨日も同じことを言っていた」と呟いた。それでも依頼票を受け取って、掲示板に向かった。
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農村まで一時間かかった。
道中、俺は地図を確認しながら、リナにいくつか質問をした。これまでどんな地形で魔物と戦ってきたか。苦手な状況はあるか。チームで動いたときと一人のときで、何が変わるか。
リナは最初しぶしぶ答えていたが、途中から少し饒舌になった。
「前のパーティでは、作戦会議をするとき私はほとんど呼ばれなかった。前衛なのに、戦い方を事前に決める場にいなかった」
「それは効率が悪いですね」
「でしょう。私もそう思っていたけど、意見を言うと嫌な顔をされたので、黙っていた」
「今日は好きに言ってください。俺の計算に使います」
「計算に使うって、どういう意味ですか」
「地形と敵の配置と、リナさんの動ける範囲を組み合わせれば、最も効率的な動線が出せます。前衛の情報がないと計算できないので」
リナがしばらく黙った。
「……前衛の意見を計算に使うって言った人は初めてです」
「普通じゃないですか」
「全然普通じゃないです」
俺には判断できなかったが、リナが少し早口になっていたことは分かった。
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農村に着いた頃、空が曇っていた。
村長に話を聞くと、魔狼は東の森から出てきて夜明け前に家畜を狙うらしい。今日は昼間の討伐なので、森の中に入って探索する必要がある。
準備をした。
荷物を下ろして、全体の重さを確認した。今日の戦闘は移動が多くなるので、重心を前寄りに調整する。リナの荷物も確認した。昨日直した紐が少し緩んでいたので、締め直した。
「毎回確認するんですか」
「毎回状況が違うので」
「几帳面ですね」
「習慣です」
リナが「ふうん」と言って、素振りをした。昨日より動きが滑らかだった。荷物の重心が合っているせいか、それとも別の理由か。俺には判断できなかったが、数値として確認できるなら確認したいと思った。
森に入った。
俺は先に地形を把握するために少し前に出て、リナは後ろから俺の動きを見ていた。足場の確認、水場の位置、木の密度。魔狼が動ける経路と、そうでない場所を頭に入れた。
「セルさん」
「はい」
「何かおかしいです」
リナが立ち止まった。剣の柄に手が行っている。
俺も立ち止まった。耳を澄ませた。森が、静かすぎた。
鳥の声がない。風の揺れはある。だが小動物の気配がない。
魔狼ではない。
もっと大きい何かが、近くにいる。
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それは東の森の奥から来た。
木を折る音がした。最初は遠かった。次の音は近かった。間に木が折れる音が三回入って、地面が揺れた。
巨大な影が木々の間から現れた。
体長五メートル近い。毛並みが黒く、前足の爪が長い。息を吐くたびに白い煙が漏れた。魔熊だ。
俺はとっさに地図と状況を照合した。魔熊は本来この地域には生息しない。南の山岳地帯から降りてきたか、何かに追われてここに来たか。いずれにせよ、今ここにいる。Fランク二人で対処できる相手ではない。逃げる。北へ回って、農村の方向に出る。距離は二百メートルほどだ。
「セルさん」
リナの声が低かった。剣を抜いていた。
「逃げます。戦うと損害が大きい」
「私が引きつけます。その間に——」
「いいえ。二人で北へ走ります。俺が先に出ます、リナさんは後ろをついてきてください」
「でも」
「引きつけている間に俺が遅れたら助けられない。二人で動きます」
リナが一瞬止まった。それから「分かった」と言った。
走り出した。
魔熊がこちらを向いた。目が合った。来る、と思った。俺は走りながら、荷物の紐が揺れるのを感じた。重心がずれる。とっさに右手で紐を掴んで、位置を直した。
ところが。
魔熊が、止まった。
足が地面に根を張ったように動かなくなった。鼻を動かした。ゆっくりと、周囲の空気を嗅ぐように。それから一歩引いた。また一歩引いた。低い唸り声を上げながら、来た方向へ戻っていった。
俺たちは北へ走り続けながら、その様子を見ていた。
魔熊が木々の間に消えるまで、二分ほどかかった。
森の外れに出たところで、二人とも立ち止まった。
「……なんで逃げたんですか」
リナが俺を見ていた。
「分かりません」
「こっちを見ていたのに」
「そうですね」
「何かしましたか」
俺は自分の行動を振り返った。走り出す直前に、荷物の重心が揺れるのを感じて、とっさに紐を掴んで位置を直した。それだけだ。
「荷物の紐を掴みました。走るときに揺れると動きの邪魔になるので」
「それだけ?」
「それだけです」
リナが俺を見た。それから魔熊が消えた方向を見た。それから俺を見た。
「……荷物を動かしたら、Sランクの魔物が逃げた」
「たまたまだと思います」
「二回目のたまたまです」
「昨日のパーティの失敗と今日のこれを結びつけるのは、まだ早いと思います」
「結びつけてるのはあなたじゃなくて私です」
リナが荒く息を吐いた。怒っているのか、それとも魔熊に遭遇した緊張がまだ残っているのか。俺には測れなかった。
しばらく二人で立っていた。森が静かになっていた。小鳥の声が戻ってきた。魔熊が遠ざかった証拠だ。
「心臓がまだ動いています」とリナが言った。
「走ったので」
「そうじゃなくて、びっくりした、ということです」
「そうですか。俺もびっくりしました」
リナが俺を見た。俺の顔を確認するような目だった。
「……セルさんって、怖いとき怖い顔をしないんですか」
「しているつもりですが、出ていないかもしれません」
「損ですよ、それ」
「そうですか」
「怖いときは怖い顔をした方が、周りが助けてくれます」
俺は少し考えた。周りに助けてもらった経験があまりなかった。銀の牙にいた三年間、俺が怖い顔をする場面は特になかった。荷物の管理に失敗することはなかったので。
「覚えておきます」と俺は言った。
リナが「どうせ忘れる」と言った。
「魔狼の討伐、続けますか」
「……続けます。来た仕事は終わらせます」
「そうですか。では改めて地形を確認します」
「セルさん」
「はい」
「あなたって、本当に何なんですか」
答えが出なかった。荷物の紐を掴んだだけだ。
「荷物持ちです」
リナが「……そうですね」と言って、また歩き始めた。
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魔狼の討伐は一時間かかった。
十七体いた。十五体をリナが倒し、二体は俺が別の方向へ誘導して逃がした。リナの剣の動きは昨日より速く、精度が高かった。十五体目を倒したあとも、呼吸が乱れていなかった。
後始末をしながら、俺は計算した。昨日の依頼と比べて、リナの動いた距離は三倍以上だ。それでいて疲弊の度合いがそれに見合っていない。
「なんか、また動けた」
剣を鞘に戻しながら、リナが言った。
「魔熊に会って、その後すぐ魔狼の討伐をしたのに、疲れていない。おかしくないですか」
「体力があるんだと思います」
「そうじゃなくて。あなたのそばにいると、疲れにくい気がするんです」
「荷物の重心を整えているので、余分な体力を使わずに済んでいるかもしれません」
「それだけで、こんなに違いますか」
「俺には分かりません」
リナが少し止まった。それから「絶対に何かしてる」と言った。今日で四回目だった。
俺は何も言わなかった。答えがないので。
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ギルドに戻ったのは夕方だった。
受付に報告書を出すと、担当が別の窓口に引き継がれた。しばらく待つと、奥から男が出てきた。
年齢は五十代前半、白髪が目立つがっしりした体格だ。元冒険者の匂いがする。動きの重心の取り方が、現役のそれだ。
「ナハト・ヴェインです。このギルドのマスターを務めています」
マスターが直接出てきた。俺は少し驚いたが、表情には出さなかった。
「セル・ヴァーンです。Fランクで登録しています」
「知っています。昨日の登録から確認しています」
ナハトが俺を見た。じっくりと、しかし失礼のない目つきで。人を長年見てきた人間の目だった。
「今日の報告書を読みました。魔熊が自ら退いたと書いてありますが、本当ですか」
「はい」
「目撃者はリナ・ブレイズさん一名ですが」
「俺も見ていました」
「あなたが何かしましたか」
「荷物の紐を掴みました」
ナハトが少し黙った。
「それだけですか」
「それだけです」
ナハトがまた俺を見た。今度は少し長く。何かを測っているような顔だった。
「昨日の依頼も確認しました。Fランク二人でスライム十二体を三分で処理している」
「効率が良かっただけです」
「一昨日、銀の牙の失敗報告が出ました。あなたが解雇された翌日に」
俺は何も言わなかった。
「偶然かもしれない。ただ」
ナハトが手帳を取り出した。
「これは記録しておく必要がある、と俺は思っています」
「記録していただいて問題ありません」
「一つ、お願いがあります」
「何でしょう」
「スキル鑑定を受けてみてください。できれば明日中に」
俺は少し考えた。必要性は感じていなかった。荷物の管理をするのにスキルの名前は関係ない。ただ、ナハトのような人間が「記録が必要だ」と言うのには理由があるはずだった。
「分かりました。明日、受けます」
ナハトが頷いた。
「一つだけ教えてください」
「何ですか」
「あなたは、自分が何をしているか分かっていますか」
「荷物の管理と補給の計算をしています。地形把握と装備の整備も」
「それ以外には」
「特には」
ナハトが、短く息を吐いた。笑っているのか溜め息なのか、どちらとも取れる音だった。
「明日の鑑定の前に、俺にその荷物を見せてもらえますか」
「構いません。ただ、理由を聞いてもいいですか」
「あなたの荷物を見れば、何かが分かる気がしています。根拠はないですが、長年の勘です」
「分かりました。明日の朝にどうぞ」
ナハトが頷いて、奥へ戻っていった。
リナが俺の隣に来た。
「マスターが直接出てくるって、普通じゃないですよ」
「そうですか」
「そうですよ。あなた、絶対に何かしてる」
「三回目ですね、その言葉」
「三回言っても信じないんですか」
「信じないわけじゃないですが、何をしているかが分からないので」
リナが「もう」という顔をして、ギルドの出口に向かった。
俺は荷物を背負い直した。
ギルドを出る前に、もう一度ナハトの言葉を反芻した。
「あなたは、自分が何をしているか分かっていますか」
荷物の管理と補給の計算。地形把握と装備の整備。それ以外には何もしていない。三年間、ずっとそれだけをやってきた。
なのに。
リナは昨日より速く動いた。魔熊は自分から退いた。銀の牙は俺がいなくなった翌日に失敗した。
どれも、俺には関係がないはずのことだ。
「セルさん」
出口のところでリナが待っていた。
「明日の鑑定、私も行きます」
「構いませんが、なぜですか」
「見届けたいので」
「何を」
「あなたが何者なのかを」
リナが外に出た。俺はその後ろをついていきながら、手帳を開いた。
明日の段取りをメモした。スキル鑑定の予約、ギルドへの提出書類、次の依頼の候補。
それから一行だけ、いつもは書かない言葉を書いた。
「俺は何をしているのか」
答えは出なかった。
出るとしたら、明日の鑑定の後かもしれない。
それとも、また「特には」で終わるのか。
俺には分からなかった。ただ、初めて少しだけ、知りたいと思っていた。




